2009年7月 9日 (木)

長野県埋蔵文化財センター速報展「長野県の遺跡発掘2009」

2009先日、京都の山城郷土資料館を訪れたら、長野県の柳沢遺跡で2008年に新たに発見された青銅器-土砂をフルイにかける過程で見つかった柳沢2号銅鐸や8本目の銅戈、さらに前回伊那では展示されなかった九州型の1号銅戈(柄(内)に鉤爪文(写真3)あり)が一挙公開されていることを知った。昨夏も伊那まではるばる行って見てきたが、また今年も行くことになりそうだ。
また柳沢遺跡で出土した県下初の弥生時代のシカが描かれた土器(写真2)も展示されているらしい-鹿の絵画土器と銅鐸の分布…弥生時代の祭祀を考える上で意外と関係がありそうだ。柳沢では昨年末に礫床木棺墓まで発掘され、管玉やヒスイ製の勾玉まで出土していた!…やはりスゴい遺跡だ。

Photo_2長野県埋蔵文化財センター速報展「長野県の遺跡発掘2009」

長野県埋蔵文化財センターでは、2008年度も県内各地で発掘調査を行いました。その調査成果を、皆様にいち早くご覧いただくため、県立歴史館を会場に以下の日程で速報展を開催します。引き続き、7月30日(木)より長野県伊那文化会館に会場を移して開催いたします。多くの皆さまのご来場を、心よりお待ち申し上げます。

1_3期間・会場:
2009年6月20日(土)~7月20日(月・祝)休館日6/22,29,7/6,13
長野県立歴史館
〒387-0007
千曲市屋代260-6(科野の里歴史公園内)
TEL:026-274-2000

2009年7月30日(木)~8月23日(日)休館日8/3,10,11,17
長野県伊那文化会館
〒396-0021
伊那市大字伊那5776(春日公園内)
Tel:0265-274-2000

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2009年6月27日 (土)

荒神谷博物館 特別展「もう一つの青銅器世界-変わる銅鐸への想い-」

09_2先日、荒神谷博物館から恒例の夏季特別展の案内が届いた。今年は荒神谷銅剣発見25周年とかで、イベントが目白押しのようだ。

特別展の方は「銅鐸展」で、チラシを見ると、久田谷の破砕銅鐸、岡山県下市瀬遺跡の小銅鐸、徳島県矢野銅鐸の復元木製容器など-珍しい展示品が並んでいる。久田谷のバラバラ銅鐸を見に今夏、但馬国府・国分寺館を訪れようと計画していたが、夏の間は出雲に来ているらしい。下市瀬の小銅鐸は普段、展示されていないものなので、今回は貴重なチャンス。

講演会では、7/18の武末さんの「埋納銅矛再論」が注目、1982年に書かれた「埋納銅矛論」『古文化談叢』第9集から30年近く経ち、新見解が展開されるのか否か? 荒神谷博の講演会は、昨年の下條先生の講演も非常に面白かった-論文を読むのも大事だが、やはり生(ライブ)で聴講するのもいい-論文を書いた学者のキャラクターに触れることができる。

荒神谷遺跡には昨夏も訪れたが、今年もまた大賀ハスが池一杯に咲いていることだろう。

国宝青銅器出土25周年記念 平成21年度特別展
「もう一つの青銅器世界-変わる銅鐸への想い-」
平成21年7月11日(土)~8月31日(日)

今年と来年は、1984年に荒神谷遺跡で銅剣358本が、1985年に銅剣、銅矛が発見されてからそれぞれ25周年にあたります。総数380点の青銅器は国宝に指定されましたが、なぜこの地に埋められたのか、あるいはどこで製作されたのかといった多くの謎は、依然未解明のまま今日を迎えています。
荒神谷遺跡出土の青銅器の中で、銅鐸は型式的に国内で最も古い段階のものやその次の段階のものがありますが、今回の展示では、そうした荒神谷銅鐸とは特徴のうえで大きな隔たりがある銅鐸を取りあげてみました。
銅鐸の埋納場所の違いをはじめ、使用時期や地域性の違い、大きさの大小、材質の違い等々、荒神谷の銅鐸だけからはうかがい知れない、弥生時代人の銅鐸へのさまざまな想いを紹介したいと想います。

記念イベント
7月12日(土)
テーマ「ひかわ銅剣の日」
午前9時30分~記念式展
午前10時~講演1
松本岩雄氏(島根県立古代出雲歴史博物館学芸部長)「荒神谷発見の思い出」
午前11時~, 午後2時45分~, 午後3時45分~
NHK記録映画上映会
午後1時~講演2
松本岩雄氏「青銅の神殿出会い-荒神谷青銅器は何を語るか-」

特別講演会
7月18日(土)午後1時30分~
武末純一氏(福岡大学教授)「埋納銅矛再論」

第5回
8月22日(土)午後1時30分~
足立克己氏(島根県教育庁埋蔵文化財調査センター)「荒神谷発掘調査から25年」

参加費無料 資料代300円

荒神谷博物館   
〒699-0503
島根県簸川郡斐川町大字神庭873番地8
TEL 0853-72-9044
FAX 0853-72-7695

この他、7/11と12には、朝9時~オープニングセレモニー「弥生の舞」や「祝い餅配布!」がある。祝い餅というのも島根らしいが、弥生の舞は、斐川町荘原小に代々伝わる神秘的な舞とのこと…代々っていつ頃からなんだろう?!

また7/12に、古代出雲歴博では「荒神谷銅剣鋳造実験」が開催される。見所は午後3時前後の予定らしい。

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2009年6月22日 (月)

日本考古学協会ポスターセッション「弥生時代における熔銅技術とその問題点」

Photo_2先月の5/31に早大で開催された考古学協会のポスターセッションで、愛媛大の村上恭通さんが「弥生時代における溶銅技術とその問題点」という非常に興味深い発表をされていた。村上さんからも直接いろいろとお話を伺えて、久しぶりに感動してまだ興奮が醒めやらない。

Photo_2従来、弥生時代の青銅器を造る際の原料を溶かすには、写真2(田原本町2006)のような小規模な炉が使用されたと考えられてきた。写真3(田原本町2006)は一昨年、奈良県田原本町の唐古・鍵考古学ミュージアムで復元実験(小泉武寛さんによる)が行われた際の様子だが、炉で溶かされた青銅が一旦取瓶(とりべ)に取られて(写真3-(6))、それから鋳型に流し込まれている(写真3-(7))。

Photo_3しかし、不思議なことに弥生時代の鋳造関連の遺跡からは、はっきりとした炉の跡が見つからない(唐古・鍵では炉と見られる遺構が検出されているが…)。出てくるのは鋳型片、中子片、送風管(鞴羽口)、銅鐸片、銅鏡片、銅滴、棒状銅製品、錫塊などなど…そして高坏状土製品というものがある。

高坏状土製品の例
唐古・鍵遺跡の高坏状土製品・送風管
楠遺跡の高坏状土製品


Photo弥生時代の高坏状土製品(写真4-村上2009)は、これまで炉から鋳型に鋳込む時使う「取瓶」と考えられていた。しかし、村上さんが今回発表された説は、取瓶とみられてきた高坏状土製品が、実はそれ自体が「土器炉」だったというもの(この土製品を「坩堝炉」だとする説は神崎勝さんが想定されているが(神崎2006)、外部から熱を受けた痕跡がない)。

これまでも使用する際は、この土器の内壁に粘土を分厚く塗ったと考えられいた(写真5-田原本町2006)。村上さんは、粘土を内貼りした土器(罐)内部に直接燃料(木炭)を充填して、その上面に素材(青銅片)を乗せ、そこにL字形に曲がった送風管(折れ羽口)で上方から風を吹き下ろすという方法を考えた(写真1-村上2009)。今回のポスターセッションでは、この方法で実際に実験した映像も見せていただいた。

Photo_3この方式だと鞴からの送風管の先端は直接、炉の中に挿入されていないため、例え焼けていても、青銅やスラグ(銅滓)が付着したり、溶融したりはしていない。先端がL字に曲がっているのも下側に吹き下ろすためと考えれば理解できる…これまでどうしてL字に曲がっているのか、銅が付着したりしていないのか、説明が難しかった弥生時代の鞴羽口の謎がこれで解ける。

内側の粘土は土器のように焼成していないため、屋外や土中で放置しておくと、流れてなくなってしまう…残された高坏状土製品の内側に粘土が付着していないわけである。また、村上さんの実験では銅を流し終えると、不思議と土器内に青銅はほとんど残らないということで。銅滴は飛び散るが、これは貴重な材料として回収されてしまうので遺跡にはほとんど残らない。村上さんによると、中国湖北省の盤龍城ではこの内側の粘土が残存した資料が出土しており、奇しくも村上さんらと全く同じやり方で復元実験をしていたという。

40kg現在出土している高坏状土製品で一度に熔解できる青銅の量は最大4kg程度ということで、45kgもある日本最大の大岩山銅鐸の鋳造には、12基以上の土器炉が必要となる計算になる(写真6-村上2008)。鋳型への流し込み作業は一発勝負であり、これだけ多数の土器炉を同時にタイミングよく稼働させる様はまるで“ダンス”のようで、青銅器鋳造が「秘技的なもの(非公開)」から「マツリ的なもの(公開)」に変貌していくと考えられるという。それが返って青銅器の呪術性の喪失を招いたという村上さんの指摘は、青銅器祭祀の終焉を考える上で今後重要な観点になると予感させる。

<参考文献>
村上恭通 2009「弥生時代における熔銅技術とその問題点」『日本考古学協会第75回総会 研究発表要旨』日本考古学協会
村上恭通編 2008『愛媛大学考古学研究室第9回公開シンポジウム 弥生・冶金・祭祀』愛媛大学考古学研究室
田原本町教委 2006『弥生時代の青銅器鋳造(唐古・鍵考古学ミュージアム・平成18年度秋季企画展図録)』
神崎勝 2006『冶金考古学概論』雄山閣

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2009年6月18日 (木)

第62回銅鐸研究会「銅鐸祭祀の終焉と纒向遺跡の出現-桜井市大福遺跡・脇本遺跡の事例を中心に-」

Photo久しぶりに滋賀県野洲市の銅鐸博物館から銅鐸研究会の案内が届いた。今回は前からリクエストしていた「破砕銅鐸」がテーマとなるらしい。

奈良県には弥生後期の突線鈕式銅鐸はないとされてきたが、一昨年12月と昨年4月、脇本遺跡大福遺跡(写真1)から相次いで大型の近畿式銅鐸の破片が鋳造関連遺物と共に出土し、以前纒向遺跡で出土した飾耳片(写真2)も再評価されることになった。

第62回銅鐸研究会

日 時  平成21年7月4日(土)14:00~16:00
演 題  「銅鐸祭祀の終焉と纒向遺跡の出現-桜井市大福遺跡・脇本遺跡の事例を中心に-」
講 師  橋本 輝彦さん(桜井市教育委員会)
場 所  野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)1F研修室
対 象  どなたでも
定 員  120名(当日受付)
参加費  受講料は無料ですが、入館料(大人200円、高大生150円、小中生100円)が必要です。

Photo_2邪馬台国の有力地と考えられる桜井市纒向遺跡に近い大福遺跡や脇本遺跡からは、壊された銅鐸の破片や青銅器鋳型の一部が相次いで出土しており、これらは銅鐸を鋳つぶして他の青銅器を鋳造したと考えられています。そこで、今回は、銅鐸祭祀の終焉とヤマト政権の成立についてお話いただきます。皆さまのご参加をお待ちしております。

■問い合わせ先■
野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)
滋賀県野洲市辻町57-1
電話077-587-4410 FAX077-587-4413

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2009年5月30日 (土)

海外美術館の銅鐸(アジア編)

昨年、米国と欧州の美術館に所蔵・展示されている銅鐸を紹介した「海外美術館の銅鐸」(米国編08/6/26, 欧州編08/9/4)-第三弾はアジア編(といっても2箇所しかないが…)。

200702260301korea2014韓国国立中央博物館National Museum of Korea
まず、最初はお隣の韓国-2005年に龍山にリニューアルオープンした韓国国立中央博物館のアジア館-日本室に、和歌山県日高町出土の荊木(向山)銅鐸が展示されている(写真1)。実はこの銅鐸は東京国立博物館から貸し出されたもので、銅矛や銅戈といっしょに展示されていた。私が訪れたのは2007年5月なので定期的に他の銅鐸と入れ替えているかもしれないがその後のことはわからない。

L1r2荊木鐸は2個出土しており、よく似ているが(写真2)、韓国に貸出展示されているのはおそらく2号(まさか中央博に日本の銅鐸があるとは思わなかった…次の機会あれば東博の図録持参で観察してきたい)。いずれも後期の突線鈕式の近畿式銅鐸で80cm台とあまり大きくない。1号(左)には中央の縦帯に軸突線が入るので4式、2号(右)は3式に分類され2号の方が88.6cmと若干大きい(1号は82.2cm)。
展示室写真出典


Sイラク国立博物館
Iraq Museum International
1932年(昭和7)大阪府太子町茶臼山山麓で出土した茶臼山九流銅鐸は発見後、個人蔵を経て東京国立博物館の所蔵品となっていたが、現在日本にはなく、イラク国立博物館の蔵品となっている(写真3)。これは1970年にイラク国との考古遺物交換品に選ばれたためで、その後2003年~イラク戦争(第二次湾岸戦争)によって、現在、実見はおろか所蔵の確認すらできない状態となっている。米軍侵攻時の混乱でイラク国立博物館の所蔵品の1万5千点が略奪や被害にあったと報道されており、茶臼山鐸の行方が気遣われる。

茶臼山鐸は、時代的にもレプリカ制作などされておらず、僅かに白黒写真が残されていただけだったが、最近末永雅雄氏旧蔵の拓本資料があることがわかった(中野2008)。拓本は片面だけだが、この資料の発見により詳細な文様観察が可能となった。茶臼山鐸は高さ42.1cmの扁平鈕式新段階の六区袈裟襷文銅鐸で、いくつかのバリエーションのある六区袈裟襷文銅鐸の中でも典型的な正統派といえるタイプ。難波分類の2類の中でも後出するとみられている(鍋島1998)。欧州編でベルリン美術館の船渡2号鐸を紹介したが、この茶臼山鐸も戦争の犠牲となった銅鐸といえそうだ。

Photoイタリア国立東洋美術博物館Museo Nazionale d' Arte Orientale "G.TUCCI"
茶臼山鐸のように交換文化財となった青銅器は他にもある。2006年夏にイタリア-ローマにある国立東洋美術博物館を訪れた際、香川県出土の中広形銅矛が展示されているのを見た。柄部分に漢数字で八一二(縦書き)と小さく筆で書かれていて、出土年か収蔵年かは不明だが、説明には1951年とあり、出土地については、遺跡や地名なく単に“香川”となっていた。

Photo_2すわこれも明治の頃の国外流出品かと思われたが、帰国後、香川県高松市の知人Yさんに尋ねたところ、この銅矛は高松市郷東町下ノ山(石清尾山北麓緩斜面)で1878年に出土したもので、中広形銅矛が2点出土し、当初は2点とも東京国立博物館に収蔵されていたが、その後、1点がイタリアの国立東洋美術博物館に所蔵となっているという(もう1点の銅矛は813と続き番号なので東博に収蔵された時の登録番号らしい)。1951年は日本からイタリアへ渡った年である可能性が高く、おそらくイラク国立博物館の場合と同様、何らかの経緯で交換文化財に選ばれたのだと思われる。写真4はイタリアで撮影したものだが、ピカピカに磨かれて赤銅色を呈しており、『讃岐青銅器図録』の写真5と比べると刃部先端が破損している…

<参考文献>
東京国立博物館2005『東京国立博物館図版目録-弥生遺物篇(金属器)増補改訂』中央公論美術出版
鍋島隆宏1998「石川流域出土の銅鐸について」『太子町立竹内街道歴史資料館 館報』第4号(平成9年度)
中野咲2008「茶臼山銅鐸について-末永雅雄先生旧蔵拓本資料の整理から-」『青陵』第126号
瀬戸内海歴史民俗資料館1983『讃岐青銅器図録』

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2009年5月16日 (土)

推定淡路島出土銅鐸(兵庫23, 突線鈕1式, 2区流水文, 身37.3cm)

Photo昨年秋の辰馬考古資料館の秋季展でこの銅鐸を初めて見ることができた。図録の写真などを最初に見た時の印象は、はっきり言って“ちょっと気持ち悪い”銅鐸だなと感じていた(写真1)。

銅鐸に興味を持った最初の頃は、8c7xとか6c2xといった流水文の見方がよく分からず戸惑っていた。佐原眞さんの「流水文」『日本の文様8 水』(1972年/光琳社出版)や難波洋三さんの「同笵銅鐸2例」『辰馬考古資料館考古学研究紀要』2(1991年)を読んで、ようやく流水文に対する苦手意識がなくなってきたところでこの銅鐸と対面したわけだが、様々な点で興味深い内容を持った銅鐸であることを知った。

Photo_2まず流水文の型式が「縦型」であること…これはこの銅鐸が摂津産銅鐸(東奈良産)の流れをくむものであることを示しているのだが、他にも各所に摂津産の特徴を見い出すことができる。銅鐸全体のデザイン構成は、上下に比較的シンプルな縦型流水文を二つ配置しているが、中央-上下の流水文の間に連続木の葉文を挿入しているのが目に付く。木の葉文は展示されていた裏面の下辺横帯にも施されている(写真2)。この木の葉文(写真3)は東海派と呼ばれる銅鐸に見られる文様であるため、この銅鐸も東海派に分類されている。

また鐸身最上部(舞の直下)には連続鋸歯文の横帯を置いており、下辺横帯も連続鋸歯文+斜格子文帯と流水文銅鐸では他に類例がない-この鐸身最上部の連続鋸歯文は摂津産の銅鐸に必ずのようにあるもので、下辺横帯の上に2条、下に3条の突線がめぐる。そしてこれがこの銅鐸の最も特徴的なところかもしれないが、流水文内を通常の1束5条の平行線条のうち2条を斜線に替え綾杉文としている。おそらく最初に見た時の違和感はこの綾杉文のせいだと思われ、見ていて目がチラチラしてくる…以前にも取り上げたことがあるが幻視効果を狙ったデザインなのかもしれない。

この他、左右の鰭には三対の飾耳が付いているが、この飾耳も内部に綾杉文があるタイプで摂津産と推定される鈴鹿市磯山鐸などに似ている(綾杉の向きは推定淡路鐸が外向き、磯山鐸は内向きだが)。また左右の鰭の連続鋸歯文は右がR鋸歯文、左がL鋸歯文と使い分けられ、下辺横帯の連続鋸歯文はL-Rの交互鋸歯文となっている。裾部に型持孔の見あたらない点も摂津産の特徴が表れている。

Photo_3この銅鐸は出土後に改変を受け、鈕を失い舞と身上部の型持孔も埋められている。鰭の飾耳に古い特徴を残していることから、案外、失われた鈕には外縁付鈕式段階の摂津産銅鐸のように飾耳が2個付いていたかもしれない。身の断面形状は扁平ではなくコロンとしている。

図録(辰馬2008)には「東海派に属する銅鐸は、ほぼ袈裟襷文銅鐸であるが、29(推定淡路島鐸)のみは流水文である。縦型流水文の系譜を引いているとみられる」とある。東海派銅鐸の製作工人が摂津産銅鐸工人の系譜を引くとされる難波さんは、この銅鐸について「東海派に属する唯一の流水文銅鐸である伝淡路出土突線鈕1式二区流水文銅鐸は、6c2x複合縦型流水文を飾る特徴や、身の上縁に鋸歯文の横帯をもつ特徴が、外縁付鈕2式縦型流水文銅鐸と共通しています」と述べている(難波2002)。

東奈良から出土した鋳型は流水文が多いため、摂津産銅鐸と東海派銅鐸は一見関係がないようにみえるが、この推定淡路島鐸の特徴的な意匠が、東海派のルーツが摂津産の銅鐸にあることを物語っているといえるだろう。

<参考文献>
辰馬考古資料館2008「東海派の銅鐸」『展示の栞34 銅鐸から銅鏡へ』
難波洋三2002「八王子銅鐸の位置づけ」『銅鐸から描く弥生時代』学生社
辰馬考古資料館1978「資料の解説-12流水文銅鐸」『銅鐸』

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2009年5月13日 (水)

大阪歴史博物館「蔵出し名品展」で銅鐸公開

Photo4/29~開催中の大阪歴史博物館の特別展「蔵出し大阪歴史博物館名品展」で伝播磨出土銅鐸が公開されていることを知った。

以前、大阪城内にあった大阪市立博物館時代には常設展示されていたようだが、リニューアルされてからは「大阪市と関係がない遺物」という理由で展示されていなかった。この銅鐸も今回を逃すとなかなかお目にかかれないかもしれない。

瀬戸内渦巻派(横帯分割型)の優品で、大きさも58.7cmと同銅鐸群の中でも最も大きく、鋳上がりも美しい銅鐸である。

大阪歴史博物館にはこの他に、八尾市来恩寺寄託の恩智都塚山鐸も保管されているが、今回こちらは展示されないらしい(レプリカは八尾市立歴民資料館に常設展示されている)。


特別展「―秘蔵のお宝一挙大公開― 蔵出し 大阪歴史博物館名品展」
平成21年4月29日(水・祝)~6月15日(月)

大阪歴史博物館は、市民の皆様からの寄贈・寄託などのご協力を得て、さまざまな優れた文化財を収集・保管し、現在では総数約12万点を超えるに至っています。本展覧会では、これらの国内のみならず海外の文化施設からも注目を集め、大阪市が世界に誇るかけがえのない財産である数々の文化財の中から優品・名品を選りすぐり、国宝・重要文化財を中心として、これまで公開する機会の少なかった珠玉の文化財を一挙に公開するものです。
今後も、大阪の地域博物館として大阪の歴史や文化を紹介する役割と、国内外の優れた文化財を市民の皆さんの展観に供し、その文化的ニーズに応える役割を果たしていきたいと考えています。


大阪歴史博物館名品展:土偶や銅鐸、江戸期の地図…国宝・重文など150点/来月15日まで


大阪歴史博物館(大阪市中央区大手前4)が所蔵・保管している文化財の名品を展示する「蔵出し 大阪歴史博物館名品展」が同館で開かれている。6月15日まで。縄文時代の土偶、弥生時代の銅鐸(どうたく)から江戸時代の地図まで、国宝や重文を含む約150点を展示。このうち、江戸時代に、北海道で近江商人とアイヌの人たちの交易ぶりを描いた屏風(びょうぶ)「江差松前屏風」は26年ぶりに公開されている。のれんや壁に家印がある近江商人の店舗や、漁船から揚げられたニシンの加工場などが描かれた貴重な資料になっている。関ケ原の合戦の勝利記念に徳川家康が描かせたとされる「関ケ原合戦図屏風」もある。(毎日新聞 2009年5月13日地方版

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2009年5月12日 (火)

銅鐸コイン-地方自治法施行60周年記念500円貨幣

1_2先日、「銅鐸コイン」がようやく届いた。

地方自治法施行60周年を記念した、地方自治法施行60周年記念5百円記念貨幣で、昨夏、古代出雲歴博に行った時、年末に発行されることを知って、造幣局に申し込んだのだが、振込用紙が届くのに2ヶ月、すぐ振り込んだのに商品が届くまで、またまた2ヶ月という超お役所仕事で、忘れた頃に到着となった。

2樹脂製のカードに収まっているので、直接触ることはできないが、保管しておくには汚れないしいいかもしれない。銅鐸の横には加茂岩倉銅鐸23号に鋳出された鹿と猪?(四足動物)の絵がいっしょに表されている。ちなみに中央の銅鐸は35号らしい。

コインショップでは高額の値が付けられているが本当だろうか?

調べてみると、銅鐸の切手も発行されているらしいので、機会あればまた紹介したい。

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2009年5月 9日 (土)

八尾の銅鐸-『河内どんこう』No.87(2009/2)

No87最近、『河内どんこう』という大阪の地域歴史雑誌に「八尾の銅鐸」という小文を書かせていただいた(『河内どんこう』No.87 2009/2)。

大阪府の八尾市内からは銅鐸が3個、銅鐸片が2個出土している。
・恩智垣内山銅鐸
・恩智都塚山銅鐸
・跡部銅鐸
・亀井遺跡出土銅鐸片(扁平鈕式)
・亀井遺跡出土銅鐸片(突線鈕式)
大阪府出土の銅鐸の総数が約30個なので、八尾は銅鐸が比較的多く出土している地域といえる。

小文では、八尾市内出土の銅鐸について、出土の経緯や各銅鐸の特徴や型式、産地推定など、これまでの研究成果を解説しながら、大阪と八尾の銅鐸の問題点も論じている。
主な項目は
・銅鐸の部分呼称・型式分類
・八尾市域出土の各銅鐸の説明
・摂津産と河内産
・銅鐸の流通
・銅鐸の埋納
・近畿式銅鐸の製作地
・埋納と破壊

『河内どんこう』は八尾市内の書店店頭(やお文化協会HP掲載)か、NPO法人やお文化協会に申し込めば購入できる。 購入方法などについては、やお文化協会さんにお問い合わせください。

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2009年5月 8日 (金)

橿原考古学研究所附属博物館「銅鐸展-弥生時代の青銅器鋳造-」

Photo奈良県立橿原考古学研究所附属博物館で今秋、「銅鐸展-弥生時代の青銅器鋳造-」(10/3~11/23まで)が開催される。

副題が“弥生時代の青銅器鋳造”となっており、単に銅鐸に関する特別展ではなく弥生時代の青銅器祭祀の盛衰と青銅器鋳造技術の発展との関係に迫るという従来型の銅鐸展とは少し違った新しい観点からみた内容となるらしい。

10/3には橿考研「友史会」主催で、名古屋工業大学で公開講演会も開催される(名古屋工業大学 51号館101講義室 13時 定員400名)

秋季特別展「銅鐸展-弥生時代の青銅器鋳造-」
10月3日(土)~11月23日(月・祝)
弥生時代を象徴する青銅器である銅鐸。その銅鐸を含めた青銅器の鋳型は石製から土製へと変化します。この鋳造技術の変化について、近年各地で増加してきた鋳造に関係する資料とあわせて迫ります。
《研究講座》会期中3回開催
《展示解説》会期中3回開催
《遺跡見学会》会期中1回開催

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«銅鐸破壊実験-兵庫県立考古博物館