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2007年9月

2007年9月27日 (木)

「青銅器埋納地調査報告書II(武器形青銅器編)」

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「青銅器埋納地調査報告書II(武器形青銅器編)」2006/3月が届いた。

島根県埋蔵文化財センター刊行の青銅器埋納地調査の第1弾銅鐸編に続く第2弾。4年かけて実施された100ヶ所を越える埋納遺跡の現地調査結果が掲載されている。※まだ在庫はあるとのことで、価格は1000円(安っ!)銅鐸編は古書で6500円もしたのに--購入は島根県文化財愛護協会まで

晩秋~来春まで草木も枯れて踏査シーズンに入るので、これらの本片手に現地へ行ってみようと考えている。

いま興味を持っているのは、銅鐸(武器型青銅器も含む)の「近接埋納事例」 -同じ場所に50mと離れないで何個も銅鐸が埋められている場所が結構ある。現地に立ってみることで、何か気づかされるかもしれない…

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2007年9月26日 (水)

記念シンポジウム「弥生の青銅器の謎をさぐる」

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10/27~28、徳島市考古資料館で特別企画展記念シンポジウム「弥生の青銅器の謎をさぐる」を開催される。

特別企画展「弥生の青銅器の世界」(10/10~12/2)を記念したイベントで
10/27
基調講演「瀬戸内の青銅器文化-北部九州・瀬戸内・畿内-」下条信行氏(愛媛大学法文学部教授)
基調報告「銅鐸が語る青銅器文化」一山 典氏(徳島市立考古資料館長) 10/28
基調報告「武器形青銅器からみた青銅器文化」吉田 広氏(愛媛大学法文学部助教授)
基調報告「銅鐸と青銅器文化」田﨑博之氏(愛媛大学法文学部教授)
10/28PM~のシンポジウムのコーディネーターは、芦屋市教委の森岡秀人氏がつとめるという豪華なキャスティング!

徳島県は、加茂岩倉遺跡発見までは、銅鐸出土数全国1位(滋賀県と並んで)だった。矢野銅鐸(写真)は県埋文センターに保管されているが、常設展示はレプリカ。この期間、本物が展示されるかもしれない。朱(水銀朱)が塗られていた名東銅鐸の実物は徳島市考古資料館にあるので、上記特別展で展示されるだろう。

矢野銅鐸は1992年に発見された突線鈕式と呼ばれる銅鐸の中でも最新型式のもので、木製容器に納めて埋められたと考えられており、土坑の周りには、7本の柱穴(覆屋状施設か?)が確認されている。 このような埋納状況が判明した銅鐸は非常に珍しい。

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2007年9月23日 (日)

扁平鈕式の分類基準(その2)

S扁平鈕式について少し気になっているのが、複数個埋納(多数埋納)事例でIII-1式が少ないことだ。(添付図参照/出典1) 有名な出雲・加茂岩倉からはこの時期の銅鐸が39個も出土しているがIII-1式が1個もない。(II-2式とされる15号,28号の流水文鐸はIII-1式の可能性があるが…)

複数個埋納事例は隣接する時期に製作・使用されていた銅鐸が最終的に集められたと普通は理解されているので、III-1期がきれいに抜けてしまうのは理解しにくい。(複数個埋納をあちこちから集めたのではなく計画的に作成・埋納したという説もあるが…)

ここからは私見だが、II期~III期が弥生中期に比定されるのなら、II-1式~III-1式までが中期前半、III-2式は前後に細分されて中期後半になるとみた方が、各時期の銅鐸製作個数などとバランスがとれてスムーズかもしれない。ようするにIII-1式段階は意外と短いのではないかと推定できる。

S_2鋳型からみるとIII-1式とIII-2式間に画期があるとされているが、鉛同位体比研究では(添付図参照/出典2) II-1式がラインD、II-2式は領域Aに分布し、原材料からみると外縁鈕式のII-1式とII-2式間に画期があるらしい。銅鐸の編年を(1)I式、(2)II式、(3)III式と区切るより、(1)I式~II-1式、(2)II-2式~III-1式、(3)III-2式と捉えた方がより実態に近いのかもしれない。

難波さんはIII-2式である扁平鈕式六区袈裟襷文銅鐸(正統派)を
1式:鈕の菱環文様帯の綾杉文が舞に接する部分に平行線を入れない
2式:平行線を入れる
に分けているし、III-2式は、製作数の多い扁平鈕式六区袈裟襷文(72個)以外に四区袈裟襷や流水文銅鐸の一部も含むからIII-2式段階の期間が長くなる妥当性は充分にあると思う。

図出典
1:春成秀爾1998「銅鐸の祭りと埋納」p.49, 佐原眞編『加茂岩倉遺跡と古代出雲』(雄山閣)
2:馬淵久夫・平尾良光1986「倉敷考古館提供の資料による青銅器の原料産地推定」p.2, 『倉敷考古館研究集報』第19号(倉敷考古館)

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扁平鈕式の分類基準(その1)

Photo 知り合いのDさんから扁平鈕式の新旧細分の「基準」は何か?と聞かれたので、調べてみた。佐原先生が書かれた佐原眞1960「銅鐸の鋳造」『世界考古学大系』2(平凡社) 以降の初期の論文では細分はされていない。確かに、島根県埋文センターの「銅鐸出土地名表」『青銅器埋納地調査報告書I(銅鐸編)』でも扁平鈕1式、扁平鈕2式のように細分されているものは161個中、24個とわずかしかない(137個が細分不明)。細分されているものでは、1式が7個、2式が17個。

鋳型が石製から土製に変化するという指摘は、難波さんの難波洋三1986「銅鐸」『弥生文化の研究』6(雄山閣)で指摘されたのが最初ではないだろうか?難波さんは扁平鈕式でも四区袈裟襷文と流水文には石製鋳型製と土製鋳型製の両方があり、六区袈裟襷文は全て土製鋳型製となると指摘している。

また難波さんは佐原先生の選定した銅鐸群のうち

(1)四区袈裟襷文(77個)
石井谷型:石製鋳型
渦森型・亀山型・渦巻派:土製鋳型

(2)流水文(10個)
正統派:石製鋳型
迷走派:土製鋳型

(3)六区袈裟襷文(72個)
瀬戸内袈裟襷正統派:土製鋳型
東海派:土製鋳型

と判断できるとしている。

春成さんが、佐原・難波の系譜論を基にまとめられた春成秀爾1992「銅鐸の製作工人」『考古学研究』39-2(考古学研究)には添付のような銅鐸群毎の図入りの編年表が掲載されており、佐原分類、難波分類の銅鐸群の範囲の不明確さや時期比定は理解しやすくなっている。春成さんの編年表をみると難波さんの石製鋳型製=III-1(扁平鈕1式)に、土製鋳型製=III-2(扁平鈕2式)に時期比定されていることになる。

銅鐸は供伴する土器資料などにはめぐまれないので「型」とか「派」と称される銅鐸群の分類・編年はあくまでも、アトリエや工人の系譜の把握であって、II式(外縁鈕式)~III式(扁平鈕式)の時期比定についてはまだ検討点が残されているように思う。II式とIII式や1式(古)と2式(新)が、まるっきり逆転してしまうようなことはないが、摂津、河内、播磨、福井そして最近では阿波や東海、出雲、吉備など各地に複数のアトリエがあったと想定されているから、パスンパスンと製作時期が明確に切れるのではなく春成さんの図よりも各銅鐸群同士は、もう少しオーバーラップしていたと考えていただいた方が実際のイメージに近いと思う。
※これは土器などの編年でも同じこと。 考古学上の分類とか編年というのは、現代人の考古学者が過去に作られた遺物を研究するに当たって“設定”したものであって、当時の銅鐸工人たちが意識していた“基準”とは異なっている可能性すらある。だから基準では割り切れない(変な)銅鐸も存在するのはしかたないことなのだろう。

当然、研究者によって、分類とか編年が変わってくるのもある意味しかたがないことだが、考古学の対象となる「モノ」に対してどうアプローチするかという点の研究者相互の偏差であって、アプローチの“勘所”さえ間違えなければ、最終的には似たような結論にたどり着くはず。この結論も、分類・編年までは一致しても「解釈」が異なるということは、ままあるのだが…
※まあこの勘所というのが難しいところで、対象とする遺物のどの辺に「編年変化の特徴」が現れる部位があるか、見定めるのが考古学者の生命線といえる。考古学は「自然科学」のような“科学”ではないから、たとえて言うなら“犯罪捜査”に似てるかもしれない。

井上洋一さんが『考古資料大観』6で、亀山2号や野々間2号鐸を扁平鈕1式に比定しているのは鋳型が石製か土製かという観点よりも亀山2号(A1類)も野々間2号(B1類)もA類、B類の中では形式的に古く位置づけられることによるのではないだろうか? この辺から考えると、井上さんは亀山型のA類、B類の編年を平行関係で捉えているように思える。A類とB類が平行関係にあるのか、難波さんが言うように、A類→B類と変遷するのか本当のところは、供伴する土器などの遺物や遺構の切り合い関係があると判明するが、銅鐸の場合、難しい…

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講演会「神戸の銅鐸のなぞをさぐる」

Kobemaibun先週の土曜日9/15、神戸市埋蔵文化財センターで開催された「神戸の銅鐸のなぞをさぐる」と題する講演会を聴いてきた。 ※「神戸を知る考古学」と題する考古学講座で5回シリーズ(毎月1回)

講師は、神戸市教育委員会 文化課の松林宏典氏。「謎を探る」と銘打っているが内容は「銅鐸の基礎知識講座」で、この講座を聴けば「あなたも銅鐸のナゾを探れる」かもね…といった感じ。正直、本で読んだような話が多かった。

講演の概要:
1.はじめに
・最近のAMS年代研究で、弥生時代のはじまりが遡ってきているが
・銅鐸の具体的年代については、今回は触れない
・銅鐸は土器が共伴しない。銅鐸の形から編年しても直接年代はわからない

2.銅鐸のなぞをさぐるための基礎知識
・小林行雄の「銅鐸年代論」『考古学』12-1(S16年)
・銅鐸の出土数は300(1941年)→550以上(2007年)に増えたが
・小林行雄の指摘した謎はほとんど未解明のまま
・銅鐸の用途…描かれた絵から農耕祭祀と関わると言われているが
・銅鐸がなくなって~奈良時代初め-600年足らずで用途は不明となっていた
・銅鐸の各部位の名称説明
・銅鐸の分類・編年に関しては、ほとんど説明なし
※確かにわかりにくく、説明しづらい部分かもしれないが、ここを説明しないでどうするんだ!という気がする。銅鐸の文様・形態研究こそ、銅鐸研究の神髄といえるのではないのだろうか?

・内面突帯の説明…いわゆる見る銅鐸と聞く銅鐸
・祖型…半島では、朝鮮式小銅鐸50個近く出土
・鋳造に関して
・青銅の合金(銅、鉛、錫)錫の量で色が変わる
(少し加えると金色、多くなると白くなる)
・鋳型には、石型と土型がある
・石型製の見分け方…舞がデコボコ、型持穴が汚い

3.神戸の銅鐸
・桜ヶ丘(神岡/カミカ)銅鐸から神戸の銅鐸について、各々紹介
・8ヶ所から21個出土 全国的にみても銅鐸の多い地域のひとつ

興味深い話としては、
(1)
昨年出土した北青木銅鐸は第1次埋納坑から鈕の破片が見つかったが、銅鐸本体とぴったりと接合するわけではない。
※私も6月に江戸博で開催されていた「発掘された日本列島2007展」で実物を見たが、どこに接続するのだろう?と不思議に思っていた(疑問解消)。もっといえば、この鈕破片は北青木銅鐸とは別個体のものだった可能性もある。

(2)
桜ヶ丘銅鐸出土地より東方に銅鐸が多く、西方20km~投上鐸まで、銅鐸出土がないことをもって、その20km圏の銅鐸が桜ヶ丘に集められたとする有名な学説(小林行雄)があるが、松林さんは、桜ヶ丘のすぐ西側の灘区大月山から1958年に出土しており、小林説は崩れた?と話す。
※大月山銅鐸は外縁付鈕式(II-1式)なので、桜ヶ丘に銅鐸が埋納された時は既に埋められていた可能性が高いかも?
(3)
北青木鐸を見て、春成秀爾さんが「山には大型銅鐸、平地には小型を埋めているのではないか…海と山では祀る対象(神さま?)が異なる」とコメントされたという。
※最近発掘調査で平地からの出土事例が多くなってきているが、平地は小型などと言えない。考古学者のコメントは“空想”のような話がまま多いと思う。
(4)
Photo最も興味深かった話は、西神ニュータウン内第65地点から出土した「銅鐸鋳型」の未製品
神戸層群中の凝灰質砂岩製、1組2個の未完成品で石材産地(三田市~神戸市須磨区)の東端に当たり、出土地付近に鋳型石材採取地が存在していたことを示す。ここの鋳型用石材は、東奈良遺跡(大阪・茨木市)の銅鐸工房まで運ばれているのだが、松林さんは、銅鐸工人が神戸の山奥まで来て、鋳型にいい石材を探して採取したと言う。 銅鐸の形に少し抉り加工しているのは石材を少しでも軽くするためらしい(重さなんと計50kg!)。
※弥生時代といえど分業社会であり、遠隔地の石材(サヌカイト、緑泥片岩など)は産地付近のムラが掘り出して、交易している。銅鐸を製作していたムラと銅鐸鋳型を採取していたムラ両者はどういう関係だったのか…

銅鐸のナゾを解く鍵はこういうところにあるような気がする。

鋳型写真出典:
1997『弥生の鋳物工房とその世界』(北九州市立考古博物館)

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2007年9月21日 (金)

吉田屋銅鐸と本山銅鐸

S_3

今年8月に名古屋市博物館所蔵の吉田屋銅鐸(写真1)を見る機会があった。小型・扁平な銅鐸で高さは23cm、四区袈裟襷文だが、鈕外縁の鋸歯文帯が一重しかなく、裾に綾杉文を飾っている。第一印象として亀山型のB3類と呼ばれている銅鐸に似ているなと感じた。

亀山型について、難波さんの編年ではA1→A2→B1→B2→B3へと編年されているが、三木さんは「A類とB類は相対的には時間差であるが、系統の違いでもある」と説明されており、亀山型については、研究者間でも、分類や編年観自体はおおむね一致するものの、その系譜については、意見の相違が見られる。亀山型と呼ばれている銅鐸群に対してA類もB類も同じ範疇で(=同系工房orモデル・祖型共通)捉えていいのだろうか?私はB3類(徳島市・安都真4号、3号)の銅鐸が他の亀山型と比べ少なくとも違う銅鐸をモデルにしているように思えた。亀山型の多くは石井谷型や安仁型、渦森型などをモデル(雛形)にして作成されたように見えるが、どうもB3類は違っている。

・身が裾広がりにならず、直線的で
・背が高く
・袈裟襷の縁のラインが複線化
・下辺横帯の線から裾までが広い

この辺りの特徴が吉田屋鐸に共通するものだなと、第一印象として感じたわけだが、確かに亀山型としては、吉田屋鐸は鋳上がりが良すぎるし、B3類の特徴である左右の縦帯がないわけでもない。そこで、下田鐸(大阪)がA類の祖型と考えられるならば、吉田屋鐸を“B3類の祖型”として捉えてはとも考えてみた。

S_4しかし、その後神戸市埋文センターの常設展示室で1989年に出土した「本山銅鐸(写真2)」を見て少し考えが変わってきた。この銅鐸も復元高 21.8cmで、かなり扁平なのだ。文様の手や鋳上がりなど非常に綺麗で吉田屋鐸を彷彿とさせる。

吉田屋鐸との違いは

・正面の舞/裾の比率が大きい(裾広がり)こと
・下辺横帯の鋸歯文がないこと

などだが、

扁平率(舞の短径/長径)は、4.2cm/ 7.0cm=0.6で、吉田屋鐸とほぼ同じ。これは、亀山型に比べると大きいが(0.41-0.51)、通常の銅鐸と比べればかなり扁平なのだ。時期的には扁平鈕式の中でも、新段階、土製鋳型の時期であることは間違いなさそうだが、銅鐸が大型化(扁平鈕式の全平均が37.1cm、4区袈裟襷平均31cm、6区袈裟襷平均43.2cm)していくなかで、もう一つ、「扁平小型銅鐸」の一群があるらしい。これらは、亀山型とは異なるアトリエの作品と考えた方がよいのだろう。

正直、私は亀山型銅鐸について神戸市・上青木鐸以外には、京博所蔵の出土地不明鐸しか実際に見たことがない。あとは写真や実測図ですから、銅鐸表面の質感、鋳上がり状態、文様の手、そして、何といっても、実物から来る“オーラ”を感じていない。

ただし、上記のように亀山型とは別の一群…「鋳上がりと細工のよい扁平小型銅鐸」も存在していることは事実。将来「本山型」とか名付けられるかどうかわからないが、またひとつ、銅鐸の旅の楽しみが増えたと思っている。

P.S
銅鐸のスケッチをしていて感じたことだが、大半の銅鐸は、真正面から見ると左右縦帯がよく見えない。特に後期の突線鈕式になると、身が円筒形となりますます左右縦帯は見えなくなってくる。亀山型の特徴として、左右縦帯の簡素化・省略化(斜格子文が消失→左右縦帯もなくなる)は正面から見た場合、必要ないからではないかと思える。

亀山型の内面突帯に、舌による摩耗-「鳴らした痕跡」がないことも亀山型=「見る銅鐸」説の傍証となると考えられる。そういう点では、三木先生が「亀山型を銅鐸の終末期的なもの」と捉えられたのはあながち間違いではなかったと言えるのではないだろうか?

参考文献
三木 弘 2007「「扁平小型」銅鐸(いわゆる「亀山型」銅鐸)について」第57回銅鐸研究会(銅鐸博物館)
難波洋三 2003「徳島市出土の特徴的な銅鐸について-亀山型と名東型-」『シンポジウム 銅鐸の謎をさぐる』(徳島市考古資料館)
野田昌夫 2007「北青木銅鐸と亀山型銅鐸」『古代史の海』47(「古代史の海」の会)
井上洋一・森田稔編 2003『考古資料大観』6 青銅・ガラス製品(小学館)

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2007年9月19日 (水)

難波洋三氏講演会

Photo_59/29 京都国立博物館の土曜講座で、第20回濱田青陵賞を受賞された 難波洋三氏(京博・情報管理室長)による講演会が開催される。

テーマは「近畿式銅鐸の成立とその意義

京博の考古展示室には、ホンモノの銅鐸(レプリカなし)が14個も展示されているので、銅鐸に興味のある方は講演会とセットで見学をオススメします。

特に巨大な近畿式の比丘尼城銅鐸(写真)は圧巻です。

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2007年9月12日 (水)

若狭町向笠銅鐸 里帰り展!

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若狭町歴史文化館が10/27に開館する。

10/27~11/25までは企画展として、「若狭町出土遺物の里帰り展」が開かれるが、歴博所蔵の向笠(ムカサ)銅鐸(写真)も展示されるらしい。

同じ若狭町域では、上中町堤でも銅鐸が出土し、2001年には美浜町南伊夜山からも出土するなど、銅鐸の集中する地域のひとつ。歴博でも常設展示はしていないので、実物が見られるチャンス!

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2007年9月11日 (火)

このブログについて

1年ほど前から猛烈に銅鐸にはまっている。
「モノ」を見て「現地」を歩いた感動や「書籍や論文」を読み「講演会」を聴いた感想など書きつづっていきたい。

昨年9月にあるSNSに誘われ、日記として描いていたのだが、マイブームの銅鐸関係の記事が結構書き溜まってきたのと、思うところあってブログへ引っ越しすることにした。

本人の備忘録として書いているので不定期更新なるが、銅鐸・青銅器に関する最新情報については、入手次第、いち早く紹介していきたいと思っている。

(2008/2/24ブログ開設)

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