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2007年10月

2007年10月30日 (火)

「銅鐸の谷」

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昨日、大野勝美著 1994 『銅鐸の谷』を読み終えた。大野さんの論文を読んだのは、静岡県埋文調査研究所の『研究紀要』第9号(2002年)に掲載された「三遠式銅鐸の分類と編年」が最初だったが、その後、「銅鐸型土製品」の論文や『銅鐸の谷』と題する著書まであることを知った。

この本が届いた時、副題に「ある銅鐸ファンのひとりごと」とあるのが気になった。著書の中でも「専門家ではない」と書いてあるし、先の論文あとがきにも「異質な研究者」とある。大野さんとはまだ面識はないが、在野出身で真剣に銅鐸の研究をされている方がいることを知り、 大いに勇気づけられた。

さて『銅鐸の谷』の内容だが、初っぱなから現在静岡県浜松市となっている旧細江町にある滝峯の谷-通称銅鐸の谷での銅鐸探しの話。特に幻のコツサガヤ鐸出土地を突き止めるまでの話やテクノランド細江造成中の銅鐸出土の話。大阪の銅鐸研究家-羽間義夫氏による才四郎谷銅鐸の発見など-滝峯の谷から8個も銅鐸が発見されていることは、銅鐸の勉強をはじめるまで恥ずかしながら知らなかったのだが、この谷での銅鐸発見史に思わず引き込まれてしまった。

銅鐸を探して見つけるなど-私にとって、つい半年前までは思いもよらなかったこと。銅鐸は地表下1mぐらいまでのあまり深くないところに埋められていることが多く、金属探知機での探査が可能なのである。著書の中でも書かれている通り才四郎谷鐸発見では先を越された大野さんだが、その後、静岡県埋文研究所による静岡県磐田市敷地での西の谷銅鐸発見(2000年)で金属探知機を使って、見事リベンジを果たされている。

「三遠式銅鐸」の論文では、交互鋸歯文のR,Lの並び方を全て数え上げるほどの緻密な銅鐸文様の研究を発表されている大野さんだが、この本では、「銅鐸出土地の権威」として銅鐸埋納地の共通項を「湧水地」と喝破する!特に8個も銅鐸が出土した銅鐸の谷における説明は地元の方ならではの説得力がある。同じく、在野の銅鐸研究家として、『銅鐸の系譜』(1993)という本を出されている竹内尚武さん(蒲郡市在住)も銅鐸出土地を巡る中で、銅鐸と水との関係を指摘されており、銅鐸のHPを運営されているPさんも「銅鐸水源祭祀」説を掲げている。

後半では、巨石祭祀との関係を批判的に検証、否定し、大量出土地=集配センター説を展開。また、破片銅鐸や小銅鐸、土製品、そして銅鐸絵画についても論じられている。小銅鐸についてもいくつか論文を読んだが、ほとんどが小銅鐸の分類や編年に終始し、小銅鐸の用途や銅鐸との関係については何も語っていないものが多い。大野さんは、井戸の脇で洪水で埋まった状態で発見された岡山県真庭市下市瀬小銅鐸に注目、6頁にわたって解説、小銅鐸の謎に迫っていく。

ともかく、えらい先生の銅鐸本や論文とはひと味もふた味も違い、銅鐸をほとんど見ないで書いている(と思われる)いい加減なシロウト研究家本とは一線も二線も画す“面白い本”-ぜひ一読をオススメしたい。

この本、実は自費出版で、500部刷ったが50部しか売れなかったとのこと(残りは各地の図書館に送ったらしい)。ネットの古本屋では購入できるかもしれないので、興味ある方は検索してみて欲しい。

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2007年10月27日 (土)

「日本の原始美術7 銅鐸」

Photo_13今日、佐原眞著「日本の原始美術7 銅鐸」(講談社)が届いた。1979年刊なので少々古い本だが、カラー図版がたくさん掲載されているのがいい。ずいぶん探していたが、なかなか手に入らなかった本のひとつ。値段も格安(2000円)でおまけに美本!表紙の銅鐸は、大阪羽曳野市で出土した西浦銅鐸。

「銅鐸本」は特別展の図録を含めいろいろあるが、白黒写真が多いし、片面だけ掲載しているものが多い。日本の考古遺物の中でも最も人気?のあるといわれる銅鐸だが、明治以来、いまだに完全な“レゾネ”は作成されていない。銅鐸のナゾに取り組む方は、プロ、アマとわずたくさんいらっしゃるが、「モノ」として専門に取り組む研究者は本当に少ない。これは、銅鐸が一部の博物館や全国に散在しているために観察が容易でないことも一因だが、まともなレゾネが一冊もないことも大きいと思う。

夏に企画展「弥生はいつから」で訪れた歴博では、IT技術を利用したバーチャルな考古資料データベースを準備中のようだが、まずは紙ベースでいいから「出土銅鐸全カタログ」を作ってもらえないものだろうか…

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2007年10月24日 (水)

長野県中野市・柳沢遺跡で銅戈発見

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SNSのPさんの日記で、長野県中野市柳沢遺跡で銅戈が発見されたことを知った。写真見るとちょっと違う感じもするが、大阪湾型銅戈の系列みたいだ。塩尻の三遠式銅鐸見に行こうと思って、そろそろ信州の青銅器情報集めていたのでちょっとびっくりした。
弥生時代の銅戈2本出土 長野、東日本に青銅文化か(産経新聞/07/10/22)

岩永省三 1997『金属器登場(歴史発掘7)』講談社によると、長野県北安曇郡上諏訪神社にも大阪湾型銅戈が所蔵されているらしい。※長野県大町市海ノ口上諏訪神社の広形銅戈(写真)。現在は、大町市文化財センターにあるそうだ。

長野県埋文センターのHPを見てみたが、柳沢遺跡の銅戈の方が安曇郡のものより大きい。それから樋の文様は「斜格子文」で、銅戈2のB面には銅鐸の耳みたいな文様?もある。弥生文化博 2001 平成13年度秋季特別展図録『弥生クロスロード-再考・信濃の農耕社会-』によると、大町市上諏訪神社の銅戈は、伝小谷村出土となっている。

小谷村は大町から大糸線を北上した長野県の北端-糸魚川に抜けるルート上-小谷村の方が中野市より少し北になる。中野市の方は野尻湖を経由して上越市へ抜けるルートと東北方へ向かい十日町-長岡へ抜けるルートのちょうど分岐点に当たる。この銅戈がどのルートを通って北信州にもたらされたのか… 日本海ルートも充分考えられる。大阪湾型銅戈の出土は、大阪府:4本(4箇所)、兵庫県:8本(2箇所)、和歌山県:6本(1箇所)なので、これまで名古屋・東海方面では出ていない。

海ノ口上諏訪神社の銅戈について、資料探していたら、大場磐雄さんが下記文献で、「安曇氏」との関係から日本海ルートからの信濃入りを論じていた。姫川沿いの翡翠を追って…と考えられている。※大場磐雄 1975 「信濃国安曇族の考古学的一考察」『考古学上から見た古氏族の研究』永井出版企画

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松本清張の銅鐸

Photo_910/21 光市でのイベントに参加した翌日、北九州市の松本清張記念館を訪れた。

理由は、松本清張が生前コレクションしていた銅鐸を見るため。ここに銅鐸が展示されていることは、友人から教えてもらったのだが、清張の銅鐸は、島根県埋文センターの銅鐸出土地名表や三木文雄 1983『銅鐸』(柏書房) にも写真が掲載されており、北九州市の記念館にあるのでは?と思っていた。清張の古代史研究は有名だが、所蔵の銅鐸を手にとって眺めている写真が松本清張編 1983『銅鐸と女王国の時代』(日本放送出版協会)の表紙に載っている(写真1)。

Photo_10この銅鐸(写真2)は、鈕の部分が菱環部を残してほとんど欠損し、鰭や身にも欠損部あるため、一見すると変な形に見えるが、いわゆる扁平鈕式(III式)の「渦ヶ森型」の銅鐸。鈕には小さな飾耳が3個付いていたのだろうか? 鋳上がりはお世辞にもよくないが、4つある袈裟襷の区画内には四頭渦文も施されている。四頭渦文もよく見ると、1本の線で渦巻きが描かれているのではなく2本の線が互いに重ならないように渦巻き、中心で結ばれている。これにはちょっと感動した。

銅鐸は博物館などでは立てて展示されていることが多いが、この記念館では横に倒して展示されている。おかげでいつもは見れない銅鐸の中を見ることができた。内面突帯は一重で、あまり摩耗はしてない感じだった。身の部分も舞にかかる辺りが一部欠損している。そのため銅鐸の厚みが1-2mm程しかないことがよくわかる。

記念館の性格上、銅鐸を観察させるために横倒しにしたのではあるまい。おそらく展示ケースの高さが低かったのが理由だと思う。展示ケースありがとう!

2Fのコレクションに関する展示説明には「手にとって見たことがないという誹り」を受けたくないと本物の考古遺物をコレクションしていたと書かれていた。在野研究者の鬼気迫る“執念”が伝わってくる銅鐸でもある。

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2007年10月19日 (金)

豊橋市前芝地区市民館「伊奈銅鐸里帰り展」

Photo_1110/16夜、最終日ギリギリで会場に駆けつけてきた。地元でも関心が高いらしく、夜遅くまで見学者が訪れていた。83年ぶりの初の里帰りで小さな会場に入ると3個の銅鐸が堂々と並んでいた。1号は東博で見たことがあったが、2号、3号は初めて。

2号、3号は1号よりひとまわり大きく、81cmで、幅広な感じ。三遠式銅鐸の中でも大型の部類に入るだろう。またこの二つは鈕の突線や中央縦の突線数が少し異なるだけで寸法、デザインなど兄弟のように酷似している。鐸身裾の型持もない。同じ工人が同時に作ったものだろうか? 2号と3号の名札が入れ替わって付いていたので、市民館の方に指摘したところ、東博の図録の誤植が原因とのこと(14日の井上洋一さん講演会後気付いたらしい)。残念だったのは銅鐸の両面が見れなかったこと。 銅鐸の両面(A面,B面という)の文様をわざと違えていることはあまり知られていないが、銅鐸のナゾのひとつ。

伊奈銅鐸は、1924(大正13)年、現在の豊橋市と小坂井町の境界-愛知県宝飯郡小坂井村伊奈松間の畑(現・前芝中学校)で発見され、喜田貞吉や森本六爾、梅原末治など当時の考古学会のトップクラスの研究者が現地を訪れ、いくつもレポートを残している。

Photo出土状態の写真は掘り出された後、喜田貞吉によって現場で再現したものらしいが、銅鐸は鰭を上下に、2号と3号は向きを互い違いにしている(図参照)。1号銅鐸と2号銅鐸の間に銅鐸がちょうど1個入る空間があり、1号と2号の向きが同じなので、ここにもう1個-1号と対になる銅鐸があったのでは?と想像してしまう。

銅鐸は掘り出す時に傷ついてしまうことが多いが、伊奈銅鐸にはそれがないことも幻の4号鐸の存在を疑ってしまう。市民館でも尋ねてみると、どうも地元でもそんな噂はあるらしい。

里帰り展はあるSNSのPさんの日記で知った。貴重な機会を与えていただいた、Pさんと前芝地区の方々に感謝したい。

図出典:
梅原末治 1927 『銅鐸の研究』p.127

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2007年10月13日 (土)

辰馬考古資料館平成19年度秋季展

Tatsuuma

10/6~12/2まで日本有数の銅鐸コレクションで知られる兵庫県西宮市の辰馬考古資料館で平成19年度秋季展「縄文・弥生のまつり-石棒と銅鐸-」が開催されている。

銅鐸は10点程が展示されるそうだが、今回の目玉はなんといっても、伝伯耆国出土(伝鳥取県)の福田型銅鐸(写真右下)。邪視文銅鐸の異名を持つ銅鐸だが、全国でわずか5例しか出土しておらず、佐賀県安永田遺跡で鋳型が出土したことから“九州製”の銅鐸と考えられている。

他にも伝高知県の渦ケ森型有環銅鐸や伝大阪府柏原市玉手山出土の近畿式銅鐸、静岡県浜松市引佐町井伊谷(誤伝)の流水文銅鐸、徳島県徳島市星河内銅鐸細片など、私にとっては、はじめて見るものばかりで今から見学が楽しみ。

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2007年10月12日 (金)

福井県・井向銅鐸出土地

Photo_610/7、福井県坂井市春江町を訪れ、有名な井向銅鐸の出土地を歩いてきた。現地にはNECの工場の脇に「大石銅鐸出土之地」と書かれた大きな石碑が立っている(写真1)。大牧集落から西に500m程歩いたところ。井向集落との間に水田をはさんだ微高地の先端辺り。現在の住所は、福井県坂井市春江町大牧

この辺りは、福井平野のど真ん中-九頭竜川に支流がいくつも流れ込むところで、井向、大牧、大石などの集落が川沿いの自然堤防上に点在している。現在は一面に水田が拡がっているが(写真2)かつては何本もの河川が蛇行して流れる中小島のような微高地や湖沼が拡がっていたと想像される。

Photo_7「新版・福井県の歴史散歩」(山川出版社)によると、この石碑のある場所は大字田島。梅原末治の「銅鐸の研究」などには字名は島田となっており、どちらが正しいのかよくわからない。田中巽氏の「銅鐸関係資料集成」にある異説も含め、古い地形図や字図を当たってみないとなんとも言えない。また付近に弥生遺跡があるかというと旧春江町内の埋蔵文化財は調査不十分でよくわからないらしい(坂井市教委)

いずれにしても銅鐸は山の斜面や谷奥に埋められたというイメージからすると、井向銅鐸の出土地はずいぶんと違っている。「銅鐸祭祀は水に関係する」という説を想起させるものがあるが、銅鐸埋納の多様性を示していることは事実。また逆に銅鐸はかつて平野部にもたくさん埋められており、その多くが後世の開墾によって、既に掘り出されてしまった可能性も大きいのではないだろうか?

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2007年10月 5日 (金)

企画展「弥生王墓誕生—出雲に王が誕生したとき—」

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今春オープンした島根県立古代出雲歴史博物館で10/12~企画展「弥生王墓誕生—出雲に王が誕生したとき—」が開催される。

2007年10月12日(金)~12月16日(日)
島根県立古代出雲歴史博物館(島根県出雲市大社町杵築東99番地4)

出雲の弥生王墓というと、なんといっても「四隅突出型墳丘墓」だが、この特別展では、四隅突出型墳丘墓の成立・発展・終焉。九州北部、安芸、吉備、但馬、丹後、北陸地域など他の地域の王墓についてもその特徴や個性が紹介される。近年研究の進展目覚ましい弥生墳丘墓研究の最前線を近畿ではなく出雲からの視点でどう見せてくれるのか、期待したい。

今回の目玉?として、 金印の実物が11/21~12/2までの期間のみ展示されるらしい(まあレプリカと実物は見分けられないと思うけど…)

前回出雲に行ったのは青谷上寺地遺跡で弥生人の脳が見つかったと話題になっていた2001年だから、ちょうど6年前! 加茂岩倉遺跡が整備の真っ最中だった記憶がある。今回は出雲に帰ってきた加茂岩倉の銅鐸とも初対面できるし、「イツモ国」の王墓-西谷墳墓群も訪れてみたい。

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2007年10月 3日 (水)

京博・土曜講座「近畿式銅鐸の成立とその意義」

Photo_49/29 京博・土曜講座「近畿式銅鐸の成立とその意義」を聴いてきた。講師は、佐原先生の跡を継いで銅鐸研究の第一人者である京博の難波洋三さん。銅鐸の勉強をはじめてから、一度お話を聴いてみたいと思っていた。難波さんはすらっとした長身でかっこよく、いわゆる(掘り屋的な)考古学者っぽくない。いかにも理科系的な雰囲気の研究者。

今回のお話は、先日9/22に濱田青陵賞受賞記念シンポジウムで講演されたのとほぼ同じ内容とのことで、最後の方に、銅鐸群の分析から得られた事実が古代史(文献)との関連において、どう位置づけられるかという試論を披露されていた。

「近畿式銅鐸」というのは、東海地方の三遠式銅鐸と並んで弥生後期に巨大化する銅鐸の名称(ニックネーム)。近畿式が形式として確立するのは突線鈕3式の段階~だが、難波さんは、その直前の突線鈕の1/2式段階に5つの銅鐸群があったことを指摘する。(  )内はアトリエ推定地

Photo_5(1)大福型(近江南部)=写真1:滋賀県大岩山M18年國學院大蔵
(2)横帯分割型(吉備を含む瀬戸内東部付近)
(3)迷路派流水文銅鐸(銅鐸分布圏西部)=写真2:鳥取県中野1号
(4)東海派(A1類近畿→A2類東海へ拠点移動)
(5)石上型(大和)

そして近畿式が成立する過程で、上記5つの銅鐸群が2つ(近畿式・三遠式)に合併・統合される。(1)+(3)→近畿式 (2)+(4)→三遠式 (5)はいずれにも関係しない。難波さんはこの統合の背景にAD107年の倭国の成立(倭国王帥升等の後漢遣使)があったのだという。

講演後、いくつか質問して興味深いお話を伺うことができた。

・扁平鈕式段階の銅鐸群については、数年前、徳島市考古資料館のシンポの時、比較的詳しく書いている。
難波洋三 2003 「徳島市出土の特徴的な銅鐸について-亀山型と名東型-」『徳島市考古資料館 開館5周年記念 シンポジウム 銅鐸の謎をさぐる』(徳島市考古資料館)

・近畿式銅鐸や三遠式銅鐸の成立については、昨年の歴博でのシンポの予稿集に書いたものがある。
難波洋三 2006 「近畿式・三遠式銅鐸の成立」 『歴博国際シンポジウム 古代アジアの青銅器文化と社会-起源・年代・系譜・流通・儀礼-』(歴博)

・講演などでは銅鐸群の数=銅鐸工房の数として話をしているが、厳密には銅鐸工房の数は鋳型が出ないのでなかなか特定できない。

・土製鋳型の真土が出土しないのは再利用されているためではないか。

・桜ヶ丘4・5号鐸や伝香川県鐸など扁平鈕式新段階~の主流となる「扁平鈕式六区袈裟襷正統派」を最初に創り出した工房(アトリエ)がどこにあったのか現段階ではわからない。

・外縁付鈕式~扁平鈕式の流水文銅鐸などを作っていた河内の銅鐸工房群(東奈良など)はその後、突線鈕1/2式~近畿式銅鐸成立頃にはどうなってしまったのか-これもはっきりしたことは不明だが、工人の系譜として完全に断絶してはいないらしい。難波さんは畿内第V様式期の環濠集落の解体など、河内中心部の状況からすると銅鐸を作っていないのではないかと話されていた。

難波さんの銅鐸群の抽出と系譜論は他の追随を許さない水準で銅鐸や青銅器の勉強をはじめたばかりの浅学は聞き惚れているしかないが、ひとつ気になったことがある。

それは、近畿式銅鐸成立の中心となった「近畿中心地域の有力勢力」とはいったい何なのだろうということ。「第V様式期の近畿中心部(摂津・河内)の状況」と「近畿式銅鐸の成立という画期」がどうもしっくりこない。銅鐸群の分析からは、それは大和でもないらしい。おまけに近畿式銅鐸自体は、近畿地方周辺部(紀伊南部、阿波南部~土佐、丹後・若狭、近江)に集中分布し、近畿中心部では破片となって集落址から出土することが多い。

やはり銅鐸のナゾは深い…

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2007年10月 1日 (月)

亀山型と共通する特徴を有する銅鐸

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9/29の京博・土曜講座で「その時期(扁平鈕式)の銅鐸については、数年前の徳島市考古資料館でのシンポジウムで書いた」と難波さんからお聞きしたので、下記論文を再読してみたところ、

難波洋三 2003 「徳島市出土の特徴的な銅鐸について-亀山型と名東型-」 『徳島市考古資料館 開館5周年記念 シンポジウム 銅鐸の謎をさぐる』(徳島市考古資料館)

なんと本山銅鐸や吉田屋銅鐸(名古屋市博所蔵銅鐸)について「亀山型と共通する特徴を有する」銅鐸として紹介されていた。

要約すると

(1)兵庫県本山鐸(神戸市埋文センター展示・本山銅鐸)
・飾耳がない
・身の下縁の型持痕が幅広く低い
・鰭幅が小さく、
・身の反りがほとんどない
・外周輪郭線がある
・鰭下端を線で限る

などの特徴は、桜ヶ丘4・5号鐸や六区袈裟襷文銅鐸正統派からの影響

・菱環文様帯が無文で退化し突線のようになっている
・下辺横帯(身の下方の横に並ぶ鋸歯文)がなく
・左右縦帯幅が中縦帯幅よりも小さい

これらの特徴は、亀山型と関係する可能性があるとされ、
本来、菱環部を飾る綾杉文が外縁第2文様帯にある点は、亀山型B3類の安都真3号鐸の片面と同じ。

(2)出土地不明名古屋市立博物館蔵鐸(吉田屋銅鐸)
・菱環文様帯の綾杉文が舞に接する部位に平行線があり、
・身が細長く反りがほとんどない
・鰭幅が小さい
・鈕孔が大きく菱環文様帯が外寄りにある
・鋸歯文をRで統一している
・外周輪郭線がある
・鰭下端を線で限る

などの特徴は、六区袈裟襷文銅鐸正統派の影響とされる。

・縦横帯の界線がいずれも複線で
・鋸歯文が細長い

これらの特徴から、六区袈裟襷文銅鐸正統派の名東派や横帯分割型の影響、あるいは、亀山型B3類の影響と考えられるとする。外縁第2文様帯を略しているところは、外縁第2文様帯を無文とする亀山型A2類やB類、扁平鈕式新段階の東海派の六区袈裟襷文銅鐸(滋賀県山面1号鐸・岐阜県上呂2号鐸)と関係がある。

また難波さんは、広島県世羅鐸(広島県立歴史民俗資料館所蔵/写真)も鈕の外縁第2文様帯が無文となっていて、左右縦帯の幅が中縦帯の幅に比して小さい点などが亀山型と共通するとされる。※この銅鐸も資料館で見たことがあるが、確かに独特なフォルムをしており、最近『考古資料大観』6で吉田屋鐸の写真見た時、世羅銅鐸にちょっと似てるな~と感じたことを思い出した。ちなみにこの銅鐸の舞の短径6.5/長径9cm=0.72であまり扁平ではない。

これらの銅鐸は、今のところ明確な銅鐸群を構成していない。また、亀山型と共通する特徴を持っているが、直接、亀山型の影響を受けたかどうかについては明確ではない。しかし、このような文様と文様帯の省略や退化現象が同時期の銅鐸の一群に見られることは扁平鈕式新段階銅鐸の変化の方向の一つを示しているという。

難波さんは、扁平鈕式新段階の銅鐸群を複数(10箇所以上)あったとされており、本山銅鐸や吉田屋銅鐸も、新たな銅鐸群になる可能性はありそう。吉田屋銅鐸が亀山型B3類と関係があることは難波さんも指摘する通りだが、吉田屋銅鐸が亀山型B3類の祖型となるとか、その逆に亀山型の影響を受けたとかそれほど単純なものでもないらしい。むしろ、扁平鈕式新段階の主流である「六区袈裟襷文銅鐸正統派」の周辺に正統派の影響を受けたいくつかの銅鐸群(アトリエ)が衛星のように存在していると捉えた方が実態を表しているのかもしれない。

佐原先生は「この段階(扁平鈕式)にも銅鐸群にぞくさないとみられる銅鐸がある。銅鐸工房は、銅鐸群(一群とはかぎらない)を作るかたわら時としてこうした型にはまらない作品を手がけたのであろう」佐原眞 1964 「銅鐸」『日本原始美術』4青銅器(講談社)と述べているので、銅鐸群の数=アトリエの数ではないのかもしれないが…

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