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2007年10月 3日 (水)

京博・土曜講座「近畿式銅鐸の成立とその意義」

Photo_49/29 京博・土曜講座「近畿式銅鐸の成立とその意義」を聴いてきた。講師は、佐原先生の跡を継いで銅鐸研究の第一人者である京博の難波洋三さん。銅鐸の勉強をはじめてから、一度お話を聴いてみたいと思っていた。難波さんはすらっとした長身でかっこよく、いわゆる(掘り屋的な)考古学者っぽくない。いかにも理科系的な雰囲気の研究者。

今回のお話は、先日9/22に濱田青陵賞受賞記念シンポジウムで講演されたのとほぼ同じ内容とのことで、最後の方に、銅鐸群の分析から得られた事実が古代史(文献)との関連において、どう位置づけられるかという試論を披露されていた。

「近畿式銅鐸」というのは、東海地方の三遠式銅鐸と並んで弥生後期に巨大化する銅鐸の名称(ニックネーム)。近畿式が形式として確立するのは突線鈕3式の段階~だが、難波さんは、その直前の突線鈕の1/2式段階に5つの銅鐸群があったことを指摘する。(  )内はアトリエ推定地

Photo_5(1)大福型(近江南部)=写真1:滋賀県大岩山M18年國學院大蔵
(2)横帯分割型(吉備を含む瀬戸内東部付近)
(3)迷路派流水文銅鐸(銅鐸分布圏西部)=写真2:鳥取県中野1号
(4)東海派(A1類近畿→A2類東海へ拠点移動)
(5)石上型(大和)

そして近畿式が成立する過程で、上記5つの銅鐸群が2つ(近畿式・三遠式)に合併・統合される。(1)+(3)→近畿式 (2)+(4)→三遠式 (5)はいずれにも関係しない。難波さんはこの統合の背景にAD107年の倭国の成立(倭国王帥升等の後漢遣使)があったのだという。

講演後、いくつか質問して興味深いお話を伺うことができた。

・扁平鈕式段階の銅鐸群については、数年前、徳島市考古資料館のシンポの時、比較的詳しく書いている。
難波洋三 2003 「徳島市出土の特徴的な銅鐸について-亀山型と名東型-」『徳島市考古資料館 開館5周年記念 シンポジウム 銅鐸の謎をさぐる』(徳島市考古資料館)

・近畿式銅鐸や三遠式銅鐸の成立については、昨年の歴博でのシンポの予稿集に書いたものがある。
難波洋三 2006 「近畿式・三遠式銅鐸の成立」 『歴博国際シンポジウム 古代アジアの青銅器文化と社会-起源・年代・系譜・流通・儀礼-』(歴博)

・講演などでは銅鐸群の数=銅鐸工房の数として話をしているが、厳密には銅鐸工房の数は鋳型が出ないのでなかなか特定できない。

・土製鋳型の真土が出土しないのは再利用されているためではないか。

・桜ヶ丘4・5号鐸や伝香川県鐸など扁平鈕式新段階~の主流となる「扁平鈕式六区袈裟襷正統派」を最初に創り出した工房(アトリエ)がどこにあったのか現段階ではわからない。

・外縁付鈕式~扁平鈕式の流水文銅鐸などを作っていた河内の銅鐸工房群(東奈良など)はその後、突線鈕1/2式~近畿式銅鐸成立頃にはどうなってしまったのか-これもはっきりしたことは不明だが、工人の系譜として完全に断絶してはいないらしい。難波さんは畿内第V様式期の環濠集落の解体など、河内中心部の状況からすると銅鐸を作っていないのではないかと話されていた。

難波さんの銅鐸群の抽出と系譜論は他の追随を許さない水準で銅鐸や青銅器の勉強をはじめたばかりの浅学は聞き惚れているしかないが、ひとつ気になったことがある。

それは、近畿式銅鐸成立の中心となった「近畿中心地域の有力勢力」とはいったい何なのだろうということ。「第V様式期の近畿中心部(摂津・河内)の状況」と「近畿式銅鐸の成立という画期」がどうもしっくりこない。銅鐸群の分析からは、それは大和でもないらしい。おまけに近畿式銅鐸自体は、近畿地方周辺部(紀伊南部、阿波南部~土佐、丹後・若狭、近江)に集中分布し、近畿中心部では破片となって集落址から出土することが多い。

やはり銅鐸のナゾは深い…

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