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2007年11月

2007年11月26日 (月)

奈良県に後期銅鐸がない理由

Photo_4

奈良県で弥生後期-突線鈕の新しい段階の銅鐸が少ないことは以前から議論されている。吉備や出雲と同様に後期銅鐸がない=銅鐸祭祀圏からの離脱と単純に考えていいかどうか…

摂津だと加茂遺跡の栄根銅鐸(突線鈕5-近畿IVB)、高槻市伝天神山(突線鈕4-近畿IIIC)、河内では西浦銅鐸(突線鈕4-近畿IIIB)と伝羽曳山(突線鈕4-近畿IIIC)辺りが最後の銅鐸だから、大和になかったとは断言できない。

亀井、池上曽根の銅鐸片(突線鈕3~5)そして、纒向遺跡の銅鐸片「飾耳」(写真)をどう考えるか… 少なくともこれらの集落内か近辺に後期の銅鐸が存在していたことは間違いない。そして最後は埋められていない。

出雲も青銅器はないと言われ続けてあの大量出土… 吉備も含めて今後なにが出てくるかわからない。そこが考古学の面白さでもあり怖さでもある。現在の出土数からみた分布論は手堅いが、同時に危うさも持っているので… いろんなストーリーや仮説モデルを作って検証していくしかない。

写真出典:
「ムラの変貌-弥生後期の大和とその周辺-」橿原考古学研究所附属博物館2005年春期特別展図録

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2007年11月21日 (水)

銅鐸は銅鏡に改鋳されたのか-鉛同位体比からみた青銅器材料(その1)

Photo「銅鐸改鋳・銅鏡再生論」… 銅鐸の祭祀の終焉から古墳時代を考える時、いろんな方が漠然と持っているイメージではないだろうか?

非常に魅力的なストーリーなのだが、鉛同位体比研究からみると、後期の銅鐸(領域A)と三角縁神獣鏡(舶載、ボウ製共に/領域B)は原料を異にしている(※グラフ/新井宏 2000「鉛同位体比による青銅器の鉛産地推定をめぐって」『考古学雑誌』85-2)。鉛同位体比は、鉛の鉱山ごとに異なった値をもっており、この値は変化しないので青銅に含まれる鉛同位体比を調べることで、鉛原料の産地を推定できるというわけ。あくまで「鉛」の同位体比なので「銅原料」の産地を推定できるわけではない。ただし、同じ青銅原料を使っているかどうかといった相互比較にはたいへん有効。まあ青銅器の“DNA”みたいなものなのだ。

後期銅鐸が成分比的にみてほとんど「銅」だから、これを主原料にして、錫・鉛を新たに添加すれば銅鏡を作れる… 考え方としては間違ってはいないが、仮に後期銅鐸に鉛を添加して銅鏡に改鋳したとしても、後期銅鐸の鉛同位体比から新規に添加した鉛原料の同位体比の方に若干動くだけで、同位体比のかけ離れた大量の鉛を添加しないと、領域Aと領域Bのようにまるっきり違う値にはならない。

異なる鉛同位対比の原料を混合した場合、鉛同位体比の分布は、ちょうど荒神谷銅剣のグラフのように量の多い方の鉛原料に引っ張られて領域A→Bにかけてライン上に並ぶはず。三角縁神獣鏡は領域Aに向かって並んでいるので、新井宏さんも指摘される通り、漢代の鉛原料(=弥生後期の鉛)に魏晋代の鉛原料(領域B)を混合して作ることは理論的には可能。※新井宏 2007『理系の視点からみた「考古学」の論点』大和書房 p.68

確かに銅鏡の錫含有量は20%を越えていて、銅鐸を銅原料にして、錫を加えたように見えるが、銅鏡の鉛含有量は5%ぐらい。後期銅鐸の鉛含有量は3~4%であり、銅鏡と%的にはあまり変わらない=鉛はほとんど加えていない。これでは鉛同位体比は変わりようがない。すなわち弥生後期の銅鐸を原料にして古墳前期の銅鏡は作られていないということになる。

Photo_2最近、歴博で日韓共同研究として「東アジア地域における青銅器文化の移入と変容および流通に関する多角的比較研究」が実施され、H.Pでも内容が紹介されている。

これによると、2~4世紀頃の韓国青銅器の鉛同位体比は後期銅鐸とよく似ているそうで、弥生後期に流通していた原料が日韓両国で古墳時代初め頃まで使われていたと推定されている。楽浪郡出土の青銅器の80%がグループA(後期銅鐸と似た鉛同位体比=領域A)に一致するというのは、青銅原料の生産地を考える上で示唆的である。

古墳時代のボウ製鏡の中に「非情に稀に領域Aのものがある。弥生時代の青銅器を鋳直した鏡かもしれない」ということなので、弥生青銅器の改鋳された事例が皆無ではないらしい。※馬淵久夫2007「鉛同位体比による青銅器研究の30年-弥生時代後期の青銅原料を再考する-」『考古学と自然科学』第55号 日本文化財科学会 より

銅鐸では、型式変化と鉛同位体比の推移がきれいに対応しているが、北部九州出土の青銅武器類では銅鐸ほど鉛同位体比と型式が対応しない。この点に関して、岩永省三さんは、北部九州ではII期~IV期後半までラインDと領域Aの鉛が併存、中細形~領域Aの鉛が多くなるとはいえ、中広形銅矛の新しいものまでラインD鉛を用いたものがあり、常時ラインD鉛も併存する環境にあったとし、

(1)北部九州と銅鐸製作地で輸入原料の入り方が異なった
(2)古い青銅器の鋳潰しの存否が異なったか

であって、しいて言えば(2)の可能性が大きい、と指摘されている。九州では鋳潰しがあったが、近畿ではないというのも面白い。

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2007年11月19日 (月)

銅鐸の金属成分-これまでの研究史

Photo_4古い銅鐸から新しい銅鐸になるにつれて、錫の量が減っていく理由については、かつて、亀井清氏は錫と鉛の含有量から、銅鐸をA、B、C類に分類し、古い銅鐸(A類)は漢の銅利器類をそのまま改鋳し、それより新しいB類はそれらに銅を添加し、さらに新しい銅鐸(C類)はさらに多量の銅を添加してそれぞれ鋳造したと説明している。青銅器工房復元画は愛知県埋文センターHPより

銅鐸名 Cu _Sn_ Pb_ 分類(成分)_ 分類(鉛同位体比)
泊 74.46_ 14.25_ 7.65_ A_ α
神於 75.9_ 12.5_ 5.92_ A_ α
神戸 83.84_ 7.62_ 7.63_ B_ β
倭文 85.88_ 3.49_ 8.89_ B_ β
栄根 90.87_ 4.17_ 4.27 C_ γ
(伝)羽曳山 87.91_ 4.52_ 3.38_ C_ γ
堂道 89.14_ 4.93_ 2.66_ C_ γ
※馬淵久夫・平尾良光 1982「鉛同位体比からみた銅鐸の原料」『考古学雑誌』68-1より

この説は一見つじつまが合っているが、銅を添加するだけなら、錫だけでなく鉛量も減っていくはずなのに、A類とB類で鉛量がほとんど変わらない点が説明できないのとその後の鉛同位体比研究によって、古い銅鐸(A類)と新しい銅鐸(B類・C類)で鉛同位体比が全く異なることから、現在では否定されている。上の表のように成分分析の分類と鉛同位体比による分類は一致しているので、成分比の差異が青銅原料と何らかの関係を持っていることは間違いなさそう。

A類(α類)の原料にいくら銅を加えて改鋳しても鉛同位体比は変動しないため、B類(β類)の銅鐸はできないし、B類(β類)とC類(γ類)の銅鐸は鉛同位体比がA領域にあるとはいえ、C類(γ類)は鉛同位体比のばらつきがほとんどないので、B類(β類)の原料を適当に混合しても、C類(γ類)の銅鐸の鉛同位体比にはならない。

A類-II-1式とB類-II-2式は、使用原料が違うということですから、同じ外縁付鈕(II式)に分類されてはいるが、「錫不足」だけでは説明できない事情がありそう。

金属成分の三角グラフを見ていただくと、菱環鈕(I式)→外縁付鈕(II式)→扁平鈕(III式)→突線鈕(IV式)と単純に錫が減っているわけではなく、II-1式→II-2式で一度減って、III-1式はII-2式とほぼ同じでIII-2式で再び増えて、IV式で錫・鉛共に減る… とちょっと不思議な動きをしている。今回の加茂岩倉のデータでII-1式~II-2式・III-1式~III-2式間の違いがさらにはっきりしたと言えそうだ。

II-2式とIII-1式は石製鋳型という技術的には共通項があるので、原料や成分比の点で似ていることも理解しやすい。III-2式は土製鋳型への転換という銅鐸鋳造の技術史的には一大画期なので、ここで錫量がII-1式段階に戻るというのもわからなくもないが、次のIV式では錫も鉛も減ってしまう。

IV式段階-弥生後期に作られていた青銅器-九州で作られた広形銅矛や小型仿製鏡、近畿式銅鐸と三遠式銅鐸、関東の小銅鐸-これら製作地が異なるであろう青銅器が銅・錫・鉛の成分構成比的にも鉛同位体比的にも極めて同じ値を示しているというのも不思議といえば不思議なこと。

これについて東文研の平尾良光さんらは“出来合い”の素材-「青銅インゴット」説を出しているが、鋳造する時に錫や鉛を添加しないなんてあり得るのだろうか?それとも、銅、錫、鉛の別々のインゴットがあったとして、それをどう混合するのか、「レシピ」のようなものがはたして弥生時代にあったのか、こちらも疑問が残る。

Photo_5錫と鉛は青銅器鋳造において、銅合金の融点を下げ鋳造性を高める効果を持っていることはご存じの通り。 世界最大の「司母戊鼎(写真1)」は、高さ133cm、重さ875kgだが、成分比は、銅84.77% 錫11.64% 鉛2.79% 有名な三星堆青銅器の成分は、錫と鉛の成分が中原地区の青銅器より多く、青銅の流動性が高くて、多種多彩な異形青銅器が製造できたということからみても、銅鐸の錫量の減少については、「鋳造性」からは理解不能。※中国の青銅器文化

錫は銅合金を硬くし、脆弱にさせるという。「聞く銅鐸」であるII-2式についてはこの「壊れにくくする」という観点も当たっていそうだが、後期の銅鐸は「見る銅鐸」なのでこれも説明がつかない。

日本最大-高さ135cmの「大岩山銅鐸」も錫・鉛が少ないとすると、どうやって作ったんだろうか?

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2007年11月16日 (金)

銅鐸の金属成分-形式と成分構成の関係

Kamoiwakura加茂岩倉銅鐸(n=39)とこれまで調査された銅鐸成分表(n=30)それから、荒 神谷(n=3)のデータを加えて銅、錫、鉛の三角グラフ(三元分布図)を作成してみた。ご覧になっていただくとわかるのだが、かなり興味深い結果となった。※その他成分量は銅に加えてグラフ化している。

外縁付鈕式のII-1式とII-2式で成分構成比がガラッと異なる点だが、前に扁平鈕式の細分基準で取り上げた鉛同位体比でもII-1式とII-2式間では各々II-1=ラインD、II-2=領域Aと大きく差異があると指摘されており、やはり材料供給の面で大きな画期があることは間違いなさそうだ。

Doutakuまた成分一覧表の中の不明鐸について梅原末治「銅鐸の研究」など参照して下記のように判明した(一部推定/県名と数字は島根県埋文センター作成の「銅鐸出土地名表」2002年の番号)
伝鳥取:鳥取5 辰馬  福田型
滋賀県鏡山1,2号:滋賀5 蒲生郡竜王町山面高塚 東博 III-2,1
徳島麻植牛島:徳島8 麻植郡鴨島町上浦牛島 東博 III
伝羽曳山出土銅鐸:末永雅雄氏所蔵 IV-4
徳島津峰南方:徳島14 徳島県阿南市椿町曲り III
香川石田原:香川6 三豊郡一ノ谷村 II-2
徳島坂野大山:徳島12 板野郡上坂町神宅 III
砂山鐸:和歌山21 紀ノ川(砂山)IV-4
速玉神社鐸:和歌山19 和歌山県新宮市神倉山ことびき岩下  熊野速玉神社 IV-4

三角グラフ及び参考文献
『荒神谷遺跡と青銅器-科学が解き明かす荒神谷の謎』島根県古代文化センター編 1995 同朋舎出版
※上記文献中の平尾良光他「荒神谷から出土した青銅製品の科学組成」に荒神谷銅剣の三角グラフやこれまで調査された銅鐸の成分一覧表が載っている。

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2007年11月13日 (火)

加茂岩倉遺跡出土銅鐸の金属成分

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唐古・鍵遺跡の銅鐸片の金属成分が加茂岩倉出土銅鐸と似ている件-島根県教委に問い合わせしてみたところ、下記のようなことがわかった。

日本文化財科学会の第24回大会が、2007年6月2~3日、奈良教育大学で開催され、その時、加茂岩倉遺跡出土銅鐸の主成分が発表されている。

肥塚隆保、高妻洋成、降幡順子(奈良文化財研究所)、山崎修(雲南市教育委員会)、松本岩雄(島根県立古代出雲歴史博物館)「重要文化財島根県加茂岩倉遺跡出土銅鐸の保存修理一保存科学調査から-」『日本文化財科学会第24回大会研究発表要旨集』(2007年)

加茂岩倉遺跡出土銅鐸の保存処理は1999年から8年かけて奈文研で行われ、昨年度終了し、現在は島根県立古代出雲歴史博物館で公開展示されている。保存処理の過程で成分分析も行われ、上記の要旨集に39個の銅鐸の主成分(銅Cu, 錫Sn, 鉛Pb)が一覧表で掲載されている。

>銅鐸39個の平均値と標準偏差は、銅:77.7±5.4%, 錫:11.4±4.9%, 鉛:7.4±1.2%で、錫のバラツキは大きいが、鉛のバラツキは少ない傾向が認められる。(中略)これらの材料的な異なりは、比較的銅鐸の形式が関与しているような結果を得た。

問題のII-2式(外縁付鈕2式)について平均値・標準偏差を出してみたが、
銅:84.96±3.81%, 錫:4.21±1.61%, 鉛:6.99±1.56%
一見して、唐古・鍵遺跡の銅鐸片(Cu92%,Sn2.83%,Pb3.35%)とはかなり違う… どうしてこれが「よく似た割合」という話になったのか? II-2式 9個の内、錫1.79%が1個、7.62%というのが1個あるが、他の7個は3.15, 3.21, 3.75, 4.25, 4.36, 4.84, 4.97%

ちなみに、各々形式別に平均値・標準偏差を算出すると、
II-1式 銅:75.65±2.72%, 錫:13.40±0.92%, 鉛:7.79±0.67%
III-1式(II-2式の可能性あり) 銅:84.01±2.72%, 錫:4.36±3.06%, 鉛:7.98±1.25%
III-2式 銅:73.74±2.62%, 錫:15.72±2.65%, 鉛:7.35±1.69%

確かに形式と成分比に相関はありそうだが、II-2式やIII-1式が、唐古・鍵と似ているのは錫の%が他の形式より低いことぐらい。鉛は7%あるし、錫だって4%以上ある。どうしてこの数値で「唐古・鍵遺跡出土の銅鐸片の成分が、加茂岩倉遺跡出土の銅鐸によく似ていることがわかった」となるんだろう?

>石野博信・兵庫県立考古博物館長(考古学)
>「大和と出雲の連携を示す可能性がある。銅鐸は祭祀用具とされるので、同じ神様をまつるなど、宗教的な共通性があったのだろうか」(朝日新聞/2007/10/18)

>島根県立古代出雲歴史博物館・松本岩雄(学芸部長)
>「銅鐸の一部は大和で作られ、出雲にもたらされたかもしれない。さらに科学分析を進めることで、新たな視点が出てくることを期待したい」(読売新聞/2007/10/19)

と唐古・鍵遺跡銅鐸片のニュースにコメントされているが、唐古・鍵の銅鐸片と加茂岩倉の金属成分は全然似ていない。罪のない古代史ファンが混乱するだけなので、こういう談話はやめて欲しい。

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炭素C14年代について-銅鐸埋納遺構に伴う焼土

荒神谷や加茂岩倉の調査時にC14年代測定をやっていたことをDさんから教えてもらった。

神庭荒神谷遺跡
400 ± 190 A.D.
320 ± 約100 A.D.
670 ± 約100 A.D.
550 ± 約100 A.D.

加茂岩倉遺跡
SK1の外側の炭化物:50 B.C.~130 A.D.
SK2の内側の炭化物:350 B.C.~300 B.C., 215 B.C.~5 B.C.

加茂岩倉SK1はよさげに見えるが、荒神谷やSK2は、ずいぶんかけ離れた年代になっている…

古代山城の調査でも、土塁中から出てきた炭化物を片っ端からC14年代測定にかけているところあるが、弥生時代から江戸時代までむちゃくちゃいろんな年代が出てくる。その結果だけみて、卑弥呼の時代の城だとか、5世紀頃の城だとか言ってみたり、江戸時代の年代が出たから資料の選択違いだとか、恣意的な判断が一部横行している…

結局まともな結果が出たのは、兵舎跡の炉から採取した炭、南門から出土した板材(金田城)と水門跡に堆積していた加工材(鬼ノ城)。“イベント”に伴った炭化物じゃないと、埋納物とは全く関係ない場合が圧倒的に多いのでC14年代は要注意(ようは資料の選択が肝心)。

土の中にはいろんな(時代の)炭化物が混じっているわけで、埋納遺構の近くから出たというだけでは“同時代性”は不明。その年代を云々しても……

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2007年11月11日 (日)

柳沢遺跡の銅鐸-鰭部分の写真公開

1a長野県埋文センターのH.P更新されていて、柳沢遺跡の銅鐸の写真がUPされていた。
・銅鐸片1と銅鐸片2(埋まっている方)があるが、同一個体だということ
・銅鐸片1(小さい方)は鰭の部分の写真がA,B両面共出ている。

写真見てちょっと驚いたのは銅鐸片1-A面(写真1)の鰭のR鋸歯文…
「鋸歯文が外向きになっている!!」
普通というか、99%鋸歯文は内向きなのは銅鐸文様のルール(模式図参照)なので、これはかなり珍しい。

Photo外向き鋸歯文というと、奈良県・上牧銅鐸や同笵の加茂岩倉17号鐸が鰭の一部で外向きなのが珍しい例。この他だと、兵庫県・神種銅鐸、福井県・井向1号鐸などが外向きのようだが、文様が非情に見づらい…(神種は複合鋸歯文だと書いてあるものもあるので)

大きさ的には銅鐸片1は高さ8cmということなので、鰭幅は7-8mmで、これだと全高もかなり小さそうだ。20cmぐらいか?ちなみに上牧と加茂岩倉17号は全高30cm、鰭幅は15mm。

あと、上から見た写真だとこの銅鐸かなり丸いというか扁平じゃない。この辺の特徴から菱環鈕II式~外縁付鈕I式という見通しが出てきたのだろう。早く銅鐸片2も公開して欲しい。

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2007年11月 8日 (木)

唐古・鍵遺跡銅鐸片の金属成分(その2)

奈良新聞(2007/10/19)にもう少し詳しい数値が出ていたので追加UPしておく。
>銅が主成分(約92%)でスズが2.83%、鉛が3.35%

これまでの成分分析が蛍光X線による非破壊検査が主流だったが、今回の意義は、薄く切り取った破片を直接調べた点。鉛同位対比は調べていないらしい。

読売新聞(2007/10/19)によると
>加茂岩倉遺跡の銅鐸計39個のうち、つり手の縁に飾りがある「外縁付鈕式」と呼ばれる、紀元前2~1世紀の銅鐸11個の比率と似ていた。

どうも加茂岩倉遺跡の銅鐸の金属成分分析の結果が出ているらしい。

問題はこういう考古学の重要情報について、新聞発表が論文や報告書に先行すること。また、長野の柳沢遺跡でも感じたことだが、「近畿との関係」をさもすごく重要なことのように強調するところではないだろうか?

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2007年11月 7日 (水)

唐古・鍵遺跡銅鐸片の金属成分

S

柳沢遺跡の影に隠れてしまったが、もう一つ銅鐸ニュースがある。

製造時の銅鐸、鮮やかな赤銅色 唐古・鍵遺跡(産経新聞/2007/10/18)
奈良で出土の銅鐸片、出雲の銅鐸と似た成分(朝日新聞/2007/10/18)

第77次調査(1999年度)で出土した「銅鐸片」の成分分析結果…
銅93%鉛3%錫3%その他1%

銅鐸片は、唐古・鍵考古学ミュージアム下記企画展で展示中です。
(10/13~11/18 秋季企画展「ヤマト王権はいかにして始まったか-弥生の王都 唐古・鍵遺跡-」)

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唐古・鍵考古学ミュージアム秋季企画展と銅鐸片

Karakoss

11/3、奈良県田原本町の唐古・鍵考古学ミュージアムで開催中の企画展「ヤマト王権はいかにして始まったか-弥生の王都 唐古・鍵-」(10/13~11/18)を見てきた。

井戸の祭祀に関する展示やサヌカイトや流紋岩の原石が出土しているのも興味深かったが、最も気になったのは、第77次調査(99年)で見つかった「銅鐸片(写真)」の文様

「斜格子文(袈裟襷文)の縁が二重線になっている!?」と思わず叫んでしまいそうだったが、これは銅鐸の文様変遷の中では、中期後半~後期の銅鐸の特徴。※寺澤薫氏は扁平鈕or突線鈕I式と推定している。

今回発表された成分分析も 銅93% 鉛3% 錫3%で、これも後期銅鐸の成分比率とほぼ同じ。おまけに出土したのは、畿内第IV~V様式の包含層から。しかし、いわゆる「破片銅鐸」かと思いきや(※破片銅鐸(破砕銅鐸)=壊れたあるいは壊された銅鐸の破片)この破片は厚さが9mmもあるという… ※銅鐸片の大きさは縦7cm×横6cm
普通、銅鐸の厚みは2~3mm。調査担当者は青銅器工房に隣接する調査区で見つかったことから鋳造失敗品と分析している。すると、弥生中期後半~後期頃、唐古・鍵遺跡で銅鐸を作っていたことは確実。はたしてどんな銅鐸を作っていたのだろうか…

写真出典,参考文献:
田原本教育委員会 2007『唐古・鍵考古学ミュージアム 展示図録 Vol.6』
寺澤薫 2006「銅鐸の終焉と大型墳丘墓の出現」『邪馬台国時代のツクシとヤマト』学生社

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奈良県・三輪山の祭祀遺跡

Photo_1111/3-4、奈良博で開催中の正倉院展に行ったついでに、大神神社門前の旅館・大正楼に泊まり、前から興味のあった三輪山(写真1)の祭祀遺跡を見てきた。

11/4の早朝-6:30に起きて、三輪山山麓に点在する「磐座(イワクラ)」を巡る。磯城御県坐神社、夫婦岩、磐座神社、奥垣内祭祀遺跡、そして狭井神社近くの山の神祭祀遺跡を訪ねた。

山の神遺跡は、大正時代(1918年)に開墾のため巨石を動かそうとして発見された遺跡。現地はわかりにくかったが、狭井神社手前の山の辺の道脇-鎮女池の側「辰五郎大明神・きよめの滝」と書かれた小道を少し入ったところで見つけた(地図

Photo_12写真2は山の神遺跡の現状だが、当時の調査報告の図面とはかなり変わっている。(当時は中央の石の付近に5個の石があり、基壇は後から造られたもの)どんな所にあるのか興味があったが-小さな渓流沿いの谷間で、昼なお薄暗い場所。もう少し晴れ晴れしい場所を想像していたので、意外だった。銅鐸出土地点との共通性を想起させるものを感じた。また磐座というと「巨石」をイメージする方も多いと思うが、今回見た磐座はいずれも1m以下の小さな岩ばかり。

ここからは滑石製模造品の子持ち勾玉などの玉類や酒造りの道具を模した土製ミニチュアが出土しており、大神神社の宝物収蔵庫で見ることができた。

三輪山中には奥津磐座、中津磐座、辺津磐座と呼ばれる巨石群が存在すると言われる。3世紀後半~4世紀初頭に成立するヤマト王権は“三輪王朝”とも呼ばれ三輪山祭祀との関連がよく指摘されるが、最近の研究によれば、祭祀遺跡は5世紀代以降のものが多く、遡っても4世紀後半とされる。磐座祭祀というと古墳時代の最初から、三輪山の頂上でマツリが行われていた「イメージ」があると思うが纒向遺跡が栄えていた頃、三輪山とその山麓は「聖地」となっていて祭祀遺跡はおろか、集落や古墳はひとつもないらしい。

また三輪山の祭祀遺物は「子持ち勾玉」のような玉類が多いのが特徴で、同じ頃に始まる九州・沖の島の祭祀遺跡に比べて“お宝”がない。三輪山は禁足地となっており考古学的調査はほとんど行われていないので、古く遡る遺跡やお宝が眠っているかもしれないが、祭祀とは本来“地味”なものであり、沖の島の特殊性を感じずにはおれない。それは弥生の青銅器祭祀にもいえることなのかもしれない…

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2007年11月 2日 (金)

柳沢遺跡-銅鐸も出土

Photo_9

やっぱり銅鐸も出てきた~
銅鐸と銅戈、一緒に埋納 東日本初、長野・柳沢遺跡(山陽新聞/07/11/01)

新聞発表の静止画だと銅鐸の形がよくわからなかったが、TBSの動画だとどの辺の破片かよくわかる。

さっそく難波さんもTVに出てきてるしホントにびっくりだろうな!

ニュース記事によると「菱環紐2式」か、「外縁付紐1式」とみられる、ということだが、これまで銅鐸の北限だった越前方面には意外と古式の銅鐸が多いので、やはり日本海ルートか?

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