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2007年12月11日 (火)

日本最大の四隅突出型墳丘墓-西谷9号墓

3_312/2早朝、松江を出て出雲市へ向かった。まだ見たことがなかった西谷墳墓群を訪れるためだ。西谷墳墓群というのは、斐伊川左岸の丘陵上に造られた四隅突出型墳丘墓と呼ばれる弥生時代後期の首長墓。なかでも島根大によって発掘調査された西谷3号墓(写真1)は一辺40mで、朱で真っ赤になった主体部からはコバルトブルーのガラス製の巴型勾玉(写真2)など珍しい遺物が出土(※あの有名な丹後の大風呂南1号のガラス釧と同じ材質!)2世紀末のイツモ国の王墓と推定されている。

Imgview_4以前、安来市の仲仙寺墳墓群を見たことがあったので四隅突出型墳丘墓というと、あまり大きくないという印象が強かった。しかし西谷3号墓を見てその大きさに正直驚いた。また3号墓などが整備された「出雲弥生の森」から少し東へ伸びた丘陵先端の西谷9号墓(3世紀前半/平面図)は3号墳の規模を上回る日本最大の四隅突出型墳丘墓だという(42×35m, H4.5m,ヒトデのような突出部を含めると一辺60mを越す)。残念ながら9号墓は1960年頃の三谷神社建設で墳頂部が削平されいるが、神門平野を見下ろす威容は“大方墳”といってもいい。

9_3出雲歴博の展示によると、3世紀末~4世紀代-古墳時代に入ると、出雲東部-安来市荒島方面の古墳群が大きくなりはじめるらしい。大成古墳や造山1号墳(一辺60mの方墳)などがそうだが、安来の勢力も古墳中期までは続かず衰退する。 しかし古墳時代後期-6世紀代になると、出雲東部-松江市周辺に後に出雲臣と呼ばれる勢力が興起し、それと呼応するかのように再び出雲西部-出雲市周辺の古墳群が巨大化する。

この出雲の地は、古代から東西に二大中心地があり、シーソーゲームのように、大きくなったり小さくなったりを繰り返しているらしい。マーケティング用語で「商圏の二眼レフ構造」というのがあるが、ちょっと似ている。

二眼レフ構造というのは、同じくらいの商圏が隣接している方がシナジー効果で市場が活性化するというもの。吉備でも、吉備を代表する大首長=王の選出は各地の首長が輪番制で交替していたとする説がある。西谷3号墓の墳頂部では、出土した土器から出雲各地の首長の他、遠く吉備や丹後・越の王も送葬儀礼に参列したと考えられている。

それに比べ大和では、盆地東南部に巨大古墳が一極集中していくのと対照的で興味深い。それが出雲や吉備が最初の墳丘墓=王墓を生み出しながら“最古最大の古墳”築造に到達しない理由なのかもしれない。

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