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2007年12月

2007年12月29日 (土)

銅鐸と水(その2)

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前回の日記で「銅鐸と水」について指摘した論考をいくつかご紹介したが、重要な著書を見落としていた…

藤森栄一さんの『銅鐸』(学生社/1964年)

銅鐸に興味を持ち始めた1年程前に読んだきりだった本を読み返してみると…p.217辺りから銅鐸と水に関する考察が続く。主にそれは銅鐸文様からの推考だが、ほとんど説明はないものの、p.209には「水流にのぞんだ斜面の出土例」として徳島源田と大阪恩智の出土地の写真が掲載されていた。

藤森さんはおそらくこれらの出土地と諏訪の湛(タタエ)神事を重ね合わせ「銅鐸は、水およびその土地についての祭具だったことが類推できる。…たたえを…湛と、原義通り、水のたたえられたところと考えたらどうであろうか。山腹で巨木があり、水が湧出し、その水が流れ流れて、たたえられ、農耕の水または土地-水田の祭が行われたとしたら…」と書いたのだろう。

藤森さんの『銅鐸』は初版が1964年なので今まで紹介した論考のどれよりも古い…『銅鐸』を読んでいると、それ以前にも三木文雄さんや原田淑人さんなど「銅鐸と水」に関連した論考がまだありそうだが、具体的なイメージで捉えたのは藤森さんがオリジナルの可能性が高い。

また、藤森さんは流水文についてこう書いている。「われわれは、流水文を、銅鐸の属性である文様と考えすぎていたのではないか。流水は、鐸の本質を表現するテーマだったのである」

現在の銅鐸研究では「流水文」は水を表したものではないとされている。それは袈裟襷文と同様、「何者かを呪縛し封じ込めるもの」だという。鋸歯文や邪視文は「僻邪」、袈裟襷文、流水文は「呪縛」と教えられてきたが、それでは銅鐸に多い「連続渦文」や「四頭渦文」は何を意味するというのだろうか?※私も流水文が水の表象とは思っていないが、銅鐸文様について簡単に呪縛とか僻邪と決めつけていいのだろうか…

藤森さんの『銅鐸』は諏訪大社の神宝「鉄鐸」を“銅鐸の末裔”としたところで銅鐸の学説史からオミットされた格好となっている。これは大場磐雄さんの「銅鐸私考」も同様だ。銅鐸と水…それを確かめるには先輩たちの足跡を追ってフィールドに出るしかないようだ。

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2007年12月23日 (日)

銅鐸と水

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「銅鐸は何故埋められたのか?」…銅鐸だけでなく青銅器埋納について諸説あるのはご存じの通り。

その中で最近気になっているのが「銅鐸と水」の関係。静岡の大野勝美さんが著書『銅鐸の谷』(1994年)で銅鐸埋納地点と湧水との関係を指摘していることは日記に書いたが、春成秀爾さんがまとめられた「青銅器埋納の諸説」の中には「銅鐸と水」が関係するという説は一つも取り上げられていない。※春成秀爾1995「神庭(荒神谷)青銅器と出雲勢力」『荒神谷遺跡と青銅器-科学が解き明かす荒神谷の謎』(同朋舎)

大野さんがオリジナルなのかと思いきや探してみると、もっと以前に「銅鐸と水」の関係を指摘した論考がいくつか出てきた。

『銅鐸の谷-加茂岩倉遺跡と出雲(アサヒグラフ別冊)』という1997年に出た加茂岩倉発見時に出た大判の雑誌があるが、この中(p.94)であの森浩一さんが「銅鐸と水神」というコラムを書いている。このコラムで紹介された論文を図書館で探してみたところ、森浩一1967「銅鐸の出土地をたずねて」『文化史研究』19(同志社大学日本文化史研究会)という研究ノートがあることが判明!1960年、和歌山市の紀ノ川の中州で見つかった「紀ノ川(砂山)銅鐸」。その5年後の1965年に紀ノ川銅鐸発見場所から西方2kmで発見された「有本銅鐸」。森先生はこの2例から紀ノ川からの支流分岐点の祭祀を想定され、茨田堤近くの門真市大和田銅鐸出土地も「川神の祭り」に使われた可能性が多いとみる(他にも岐阜県大垣市の十六銅鐸、奈良県五條市火打野銅鐸も共通した出土状況と指摘)。また香川県綾歌郡綾南町陶、徳島県阿南市の畑田銅鐸、奈良県天理市石上銅鐸の出土地については「水源に近い水神を祭った」可能性がつよいと指摘している。

水の祭祀ということで、湧水、井戸などいろいろ探していると、『湿原祭祀』(1975年/法政大学出版局)という本があることを知った(写真)。早速近くの図書館で読んでみたのだが、著者は金井典美さんというどちらかというと民俗学系の研究者で、長野諏訪の御射山(みさやま)信仰の研究が有名な方らしい。最初銅鐸とはちょっと関係ない本だったかと思ったが、p.120~の弥生時代の湿原聖地の項では、「銅鐸出土地点の一つの顕著な特徴は、丘陵の谷にのぞんだ水辺の傾斜地であり…谷の水辺の地とむすびつけることは、十分可能のようにおもわれる」と指摘し、香川県高松市の源氏ヶ峯、徳島県源田、那賀郡桑野村、大阪府八尾市恩智など、金井さんもいくつかの事例を上げている。

三品彰英さんというと、「地的宗儀」である銅鐸祭祀が北方アジア系の「天的宗儀」の出現によって終末を迎えたという「地的宗儀→天的宗儀」説で有名な民俗学の泰斗。「銅鐸小考」をじっくり読んでみると、(※『三品彰英論文集第5巻-古代祭政と穀霊信仰』(1973年/平凡社)、銅鐸小考の初出は1968年)「地霊(水霊と結びついている)に対する呪儀は早期農耕者にとっては第一の重儀であり、それは山ノ口や川上の然るべき丘上において行われた」という一文があった。そして『常陸国風土記』の「夜刀(ヤツ)神」についても触れ「蛇(谷の神)は地霊の代表的な出現形相であり、また水霊(ミヅチ)でもあった。いずれにしても山ノ口は地霊を鎮め祀る聖地である」とも書いている。

はっきりいって「地的宗儀」説の実態は「水神祭祀」説と変わらない。それでは何故三品説が「水神祭祀」として紹介されないかというと、「銅鐸小考」の後段に、戦争の時、国境の峠に甕を埋める「境界の呪儀」が長々と論じられているからとみられる。

80年代に青銅器埋納の有力な解釈として登場した「境界祭祀」だが、淵源というか元ネタはどうもこの「銅鐸小考」にあるらしい。確かに古墳時代の祭祀に峠に甕を埋める「甕坂」の祭祀があったことは、辰巳和弘さんが書いてある通りだが(※『新古代学の視点―「かたち」から考える日本の「こころ」』(2006年/小学館))これと青銅器祭祀を結びつけるのはいかがなものだろうか?考古学者の青銅器埋納に関する論文を読むと「境界」「呪禁」「非常事態」「共同幻想」「シンボル」といった言葉がバンバン出てくる。境界で呪禁するというところまではいいとして、共同幻想としての非常事態に共同体のシンボルである青銅器を…となると、考古学者の“作り話”に近い。

先日の出雲歴博でも荒神谷遺跡での「マツリ」のジオラマが展示されていたが、共同体の非常事態に災厄を払うために大切な青銅器を埋める厳かな祭祀の様子が再現?されていた… 松本岩雄さんの講演でも同じような説明がなされていた。青銅器を奉献することで災厄を除いてくれる「神」とはいったい何ものなのだろう? 考古学者たちのイメージするその神が「水神」でないことは間違いなさそうだ。

青銅器祭祀に対して何か勘違いしているのではないか…その分岐点は「銅鐸小考」の誤読にあったのかもしれない。

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2007年12月22日 (土)

銅鐸の原料-古代の銅インゴット

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青銅器の原料となる古代の銅インゴットがどういうものかご存じだろうか?

写真1は、キプロス島の牛皮型インゴット
写真2は、中国・銅緑山の円盤状インゴット(銅錠)S_2
これらは結構大きいもので、キプロスのが10~50kg、中国のものは5~15kg/1個ある。中国の長安城遺跡の銅錠(長方形)の成分は99%銅だそうだ。
写真3は、岡山県の高塚遺跡で出土した棒状銅製品(長さ134cm,94.4g)弥生後期のもので、ずばり中国から輸入された青銅製品の原料とみられている。成分は銅93.5%、鉛5.5%(錫は0.05)で、鉛同位体比は弥生後期の領域A-a領域と一致。馬淵さんらは中国製銅インゴット(大)が小さなスラブ・ビレット状にされて、日本国内で流通していたのではないかと推定されている。※馬淵久夫2007「鉛同位体比による青銅器研究の30年」『考古学と自然科学』55号(日本文化財科学会)

Photo_13久田谷のバラバラ銅鐸も5cm角ぐらいに几帳面に割られていることから、ちょうど棒状銅製品と似たような重量になりそう。銅鐸破壊→再溶解→再インゴット化ではなく、弥生後期銅鐸は銅%が高いから、小さくカットするだけで小インゴット化(スラブ・ビレット化)できる。

Photo_14馬淵さんらは銅はインゴットで輸入されたとするが、後期銅鐸は錫の%が低い。実は錫は日本国内ではほとんど採れない。中国には古代から錫鉱山があるし、現在でも中国の錫生産量は世界一(二位:マレーシア、三位:ボリビア)。雲南や広西など南方に鉱山があるようだ。吉野ヶ里遺跡の青銅器工房?で純度の高い錫塊(写真4)が出土しているから、弥生時代に錫が中国から輸入されていたのは間違いないだろう。しかし貴重品だったので国内での流通量は僅少だったのでは?ないだろうか。ただし、有名な平原のボウ製大型鏡(46.5cm)にはしっかり錫が27%も入っているから、伊都国人は豊富に持っていたのかもしれない?

銅鐸など弥生時代の青銅器に使われた銅の量は、銅鐸出土数(1995年)約450個→約3tと推定されており、日本の弥生時代の全ての青銅器に使用された総量でも30~100tに満たないとみられている。(※久野邦雄1999『青銅器の考古学』学生社 p.60, 神崎勝2006『冶金考古学概説』雄山閣 p.33, 「我が国の銅の需給状況の歴史と変遷(歴史シリーズ-銅(2)-」金属資源開発調査企画グループ)難波さんも銅鐸の製作総数を計算されているが、最大で見積もって4400個 出土数の約10倍と推定されている。(※難波洋三2000「同笵銅鐸の展開」『シルクロード学研究叢書』3(シルクロード学研究センター)/京博HP銅鐸は何個作られたか)後期銅鐸は出土総数の約31%だが、後期銅鐸の方が大きいので、原材料としては量的に半分ぐらいになるかもしれないが、いずれにしても三桁は越えない。

日本の銅鉱山開発は7-8世紀~定説だが、東大寺大仏の銅380t、梵鐘など他の大型青銅製品も含めると、東大寺造営だけでも約500tの銅が必要とされており、大仏だけで弥生時代全期間の青銅器の必要量を越えてしまう。

弥生青銅器に自然銅などを使ったとされる「国内調達説」は久野雄一郎さんの説だが、久野さんは年間平均使用量は10kg程度と推定し、この程度の青銅原料であれば外国から輸入しなくても国内で十分賄うことができたとする。(※久野雄一郎1997「銅鐸科学考」『銅鐸の谷-加茂岩倉遺跡と出雲』アサヒグラフ別冊)しかし私は理屈としては“逆さま”だと思う。

中国湖北省の銅緑山は春秋~前漢末まで操業した古代中国最大の銅鉱山だが、この鉱山だけで生産された銅は堆積した銅滓量から8~10万tとみられている。(※山田勝芳2000『貨幣の中国古代史』朝日選書)p.150 1日生産量が300kgを下らないということなので(※稲畑耕一郎2007『図説中国文明史-春秋戦国・争覇する文明』創元社 p.120)銅緑山の1日稼働分で弥生青銅器30年分が調達できる計算となる。全く圧倒的にケタ違いの生産量・流通量なのだ。

この程度の青銅原料であれば外国から“買ってきた方が早い”というのが「経済の論理」として正しいと思う。逆に後期銅鐸全部インゴットに鋳直してもどのくらいの量になるか…?そんなものを中国人が買うとは思えない。

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2007年12月16日 (日)

脇本遺跡出土の銅鐸片の速報展

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館で脇本遺跡出土の銅鐸片の速報展が開催される。

<速報展>
桜井市脇本遺跡から出土した銅鐸片の速報展示をおこないます。
2007年12月19日(水)~2008年1月14日(月)
(日にちが18日から19日に変更になりました。)
当博物館玄関ホール(無料エリア)
9:00~17:00
出土銅鐸の他、鋳型外枠、銅滓、土器をあわせて展示します。

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東アジアの古代文化を考える会・講演会「三角縁神獣鏡研究の現状」

Photo_2昨日の12/15、池袋で開催された新井宏さんの講演会を聴いてきた。鉛同位体比のことを勉強し始めてから一度お話をお聴きしたいと思っていたので、楽しみにしていたのだが、期待に違わず面白い講演会だった

新井宏さんといえば、15年前に高麗尺批判の本を出したので有名。最近は鉛同位体比やC14関係の論文を次々と発表され、今年『理系の視点からみた「考古学」の論争点』(大和書房)を出版された。今回の講演は先月池上曽根弥生学習館で行われた「東アジアの鏡文化-卑弥呼の鏡は海を越えたか-」と題される三角縁神獣鏡フォーラムの内容紹介を目的としたもの。

ジェットコースターのような講演会の内容を日記で紹介するのは難しいが、いくつかトピックを書くと
・三角縁神獣鏡の舶載-ボウ製の区別が認め難くなってきた→橿考研の『古鏡総覧』では舶載・ボウ製区分表示を止めてしまった。
・魏晋倣古鏡(ボウ製鏡的な鏡)の存在→中国でも下手くそな作りの鏡もある。
・銅鏡の製作技術がいろいろとわかってきた→中でも三角縁神獣鏡に特徴的な「線キズ」が中国鏡には認められない→日本と中国の湿度差、二重構造の鋳型などが関係しているらしい。
・長方形鈕孔も三角縁神獣鏡の特徴として注目されているが、原型からコピーを作る際、長方形だと作りやすい→量産するための技術と推定
・菅谷文則氏によると、洛陽・山東省の出土鏡1700枚には「同型鏡」がない→「同型鏡」は日本だけの特徴
・三角縁神獣鏡の意義付けも、卑弥呼への下賜鏡→下賜に続く特注鏡と考える研究者が増えた(=卑弥呼の鏡ではない)。
・製作地も洛陽→渤海湾沿岸→楽浪と考える研究者が増え、あと一息で日本へというところまで近づいてきている。

鉛同位体比の研究で興味深いのは、
・大和天神山古墳や兵庫・城の山古墳、鶴山丸山古墳など同じ古墳に副葬された鏡種の異なる鏡同士で鉛同位体比が一致する。
・同じ製作年を持つ紀年鏡同士で鉛同位体比が一致せず、異なる紀年の鏡同士で鉛同位体比が一致、おまけに2グループの鉛同位体比に分けられる。
といった話で“他人の空似的”な鏡-外見は違うが中身(青銅原料)は同じものがあるというのはちょっと驚きだと思う。新井さんは古墳築造に際して一括して作った鏡の可能性が高いとし、「葬式の花輪」のような鏡と例えていたが、思わず笑ってしまった。いわゆる「踏み返し鏡」の議論がまたぞろ再燃しそうな気配を感じた。

中国での鉛同位体比研究は1300件もあるにもかかわらず、殷・周時代の青銅器の測定データばかりで、漢・魏晋代の銅鏡に関するデータはないというのもちょっと意外な話。漢~魏晋代の銅鏡については日本出土の測定データしかないのが現状で、新井さんも後漢~魏晋代(漢鏡6-7期)の真の中国鏡の鉛同位体比同定には苦労されている。
最近、岡村秀典氏や福永伸哉氏が三角縁神獣鏡の祖型として位置付ける「斜縁神獣鏡(写真)」の鉛同位体比を“魏鏡”と見なして鉛同位体比を比較すると、三角縁神獣鏡A段階(初期段階)の鉛同位体比と斜縁神獣鏡では分布にズレがあり、むしろ三角縁神獣鏡の鉛同位体比は庄内期や古墳早期のボウ製鏡と一致するという。

また三角縁神獣鏡の鉛同位体比分布のライン上(A式図右上方)には、弥生後期青銅器の鉛同位体比のエリア(領域A)があることから、新井さんは三角縁神獣鏡作成時に魏晋代の青銅原料への弥生後期青銅器の添加を指摘されていた。

新井さんは三角縁神獣鏡国産説なのだが、非常に流行したものには必ず“偽物(コピー・イミテーション)”が作られるとし、ルイ・ヴィトンの鞄を例に出されていた。確かに韓国明洞の屋台で売られている偽物と免税店で売られている本物はちょっとみ見分けがつかない

とにかく新井さんは話のスピードが速い、事前に予習してないとついていけない感じだ。“青銅器のDNA”ともいえる-鉛同位体比を使って銅鏡のナゾを鮮やかに解いていく話は本当に楽しく、3時間の講演会が短く感じられた。

ただ惜しむらくは考古学的な「モノ」の分析もやっていただけると、さらに研究に重厚感が増すように感じた。そんなことは新井さんは百も承知だろうが、何か考古学者に対して一歩距離を置かれている…考古学の世界はそれほどに排他的なのだろうか…

写真出典
愛知県東之宮古墳出土:『鏡の時代-銅鏡百枚-』近つ飛鳥博物館平成7年度春季特別展図録(1995)

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2007年12月11日 (火)

日本最大の四隅突出型墳丘墓-西谷9号墓

3_312/2早朝、松江を出て出雲市へ向かった。まだ見たことがなかった西谷墳墓群を訪れるためだ。西谷墳墓群というのは、斐伊川左岸の丘陵上に造られた四隅突出型墳丘墓と呼ばれる弥生時代後期の首長墓。なかでも島根大によって発掘調査された西谷3号墓(写真1)は一辺40mで、朱で真っ赤になった主体部からはコバルトブルーのガラス製の巴型勾玉(写真2)など珍しい遺物が出土(※あの有名な丹後の大風呂南1号のガラス釧と同じ材質!)2世紀末のイツモ国の王墓と推定されている。

Imgview_4以前、安来市の仲仙寺墳墓群を見たことがあったので四隅突出型墳丘墓というと、あまり大きくないという印象が強かった。しかし西谷3号墓を見てその大きさに正直驚いた。また3号墓などが整備された「出雲弥生の森」から少し東へ伸びた丘陵先端の西谷9号墓(3世紀前半/平面図)は3号墳の規模を上回る日本最大の四隅突出型墳丘墓だという(42×35m, H4.5m,ヒトデのような突出部を含めると一辺60mを越す)。残念ながら9号墓は1960年頃の三谷神社建設で墳頂部が削平されいるが、神門平野を見下ろす威容は“大方墳”といってもいい。

9_3出雲歴博の展示によると、3世紀末~4世紀代-古墳時代に入ると、出雲東部-安来市荒島方面の古墳群が大きくなりはじめるらしい。大成古墳や造山1号墳(一辺60mの方墳)などがそうだが、安来の勢力も古墳中期までは続かず衰退する。 しかし古墳時代後期-6世紀代になると、出雲東部-松江市周辺に後に出雲臣と呼ばれる勢力が興起し、それと呼応するかのように再び出雲西部-出雲市周辺の古墳群が巨大化する。

この出雲の地は、古代から東西に二大中心地があり、シーソーゲームのように、大きくなったり小さくなったりを繰り返しているらしい。マーケティング用語で「商圏の二眼レフ構造」というのがあるが、ちょっと似ている。

二眼レフ構造というのは、同じくらいの商圏が隣接している方がシナジー効果で市場が活性化するというもの。吉備でも、吉備を代表する大首長=王の選出は各地の首長が輪番制で交替していたとする説がある。西谷3号墓の墳頂部では、出土した土器から出雲各地の首長の他、遠く吉備や丹後・越の王も送葬儀礼に参列したと考えられている。

それに比べ大和では、盆地東南部に巨大古墳が一極集中していくのと対照的で興味深い。それが出雲や吉備が最初の墳丘墓=王墓を生み出しながら“最古最大の古墳”築造に到達しない理由なのかもしれない。

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2007年12月10日 (月)

銅鐸は銅鏡に改鋳されたのか-鉛同位体比からみた青銅器材料(その2)

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脇本遺跡報道の“リサイクル工房”は、橿考研のプレスリリースを読むかぎり「銅鐸-銅鏡改鋳説」ではないが、古代史ファンにそう勘違いさせるような書き方の新聞もある。
>寺沢薫・調査研究部長(考古学)は「大和王権が銅鐸を集め、纒向の都市計画が始まる一時期だけ、銅鐸片を溶かし、鏡や鏃(やじり)などの青銅器に作り替えたのではないか」と話す(朝日新聞/07/12/07)

「破砕銅鐸」は現在30例以上あるし、ほとんどが後期の近畿式銅鐸なので、広義の意味で“リサイクル”されていることは確実。銅鐸のマツリの中で自然に壊れたとか、破壊することにマツリの意義があるとか、いろいろと説もあるが、これまでの検出例からはマツリとは無関係に破壊されたと思われる。またネットで検索してみると「銅鐸-銅鏡改鋳説」は一般の方にはたいへん人気があるようなので、今回のリサイクル工房報道が誤解を与えなければいいのだが…

脇本遺跡が報道される前に、私は「銅鐸-銅鏡改鋳説」を鉛同位体比を使って否定したが、鉛同位体比研究は考古学研究者、古代史ファン両方から支持されておらず、懐疑的に見る人が多い。

1)A鉱山とC鉱山の鉛を原料にしてそれぞれ製品化した後、両者を混ぜて再溶解して製品を作ったら、鉛同位対比は両者の混合比等によって左右される。
2)全ての鉱山が調査されているわけではない。
3)両者を混合した製品の鉛同位体比がB鉱山の鉛同位体比と一致することもある。

これがおそらく鉛同位対比懐疑論者の疑問点だろう。確かに、平尾良光・山岸良二編1998「文化財を探る科学の眼3-青銅鏡・銅鐸・鉄剣を探る」(国土社)のP.17の説明には、
>混合の可能性はかなり高いのではないかと考えられます。原則として、2種類の鉛を「混合」すれば。その同位体比は両者の平均になります。
と書かれている。ただし、ここは後半の文章も大事だと思う。
>しかし、鉛の同位体比は産地ごとに特有の値をとり、雑多な値を示すということはありません。測定結果を厳密に検討して「混合」の状態を推定することになります。

確かに、いろいろな材料を混合すればもっと数値がバラツキそうだが、測定結果は“雑多”な値ではなく、ある傾向が認められる(例えばラインDとか領域A、領域Bなどがそれに当たる)。また上記の本には、鉛同位体比というとよく出てくる「A式図」しか載っていないが、「B式図」というのもあり、厳密な比較をするには両方の図を比較して確認する必要がある。※鉛同位体比分析の解説

私も鉛同位体比で「産地」が完璧にわかるとは思っていない。これまでも「産地」という言葉はほとんど使っていないつもりだ。 最近はいろいろ批判も出てきたせいか、平尾さんや馬淵さんらも以前は朝鮮半島産とか華北産とか産地名を断定的に書いていたのを、最近の論文では、ラインDとか領域Aとか表現するように変わってきている。ただ前にも書いたが、 いろいろな青銅器の使用原料の比較には非常に有効な手法ではないかと興味を持っている。

文系の考古学者が鉛同位体比に対し懐疑的になるのも理解できなくはない。そんななか、岩永省三さんをはじめ果敢に鉛同位体比に挑戦されている研究者もいる。問題は、発掘調査の報告書などで平尾さんや馬淵さんらの産地比定(朝鮮半島産や華北産のように)を無批判にそのまま使うことなのではないか。鉛同位体比の分析結果そのものまで意味のないものとするならば、 そこに現れた鉛同位体比の時期的変遷が青銅器の型式変化と対応する事実すら無視することになる。銅鐸の佐原編年を証明したのが、鉛同位体比研究と言ってもいいのだから。

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2007年12月 7日 (金)

奈良県脇本遺跡で銅鐸片出土

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奈良県桜井市脇本遺跡-古墳時代の集落跡から銅鐸片-リサイクル工房か?(読売新聞/07/12/07)
「やっぱり出たか!!」 と思わず叫んでしまった。

たった3個だけで「リサイクル工房」なんていうのは…?との向きもあるだろうが、考古学の遺物の残存状況なんてこんなもの。 考古資料の大半は犯人が残した遺留品=“ゴミ”なのだから…
たった3点でも大和で突線鈕の3~5式の銅鐸片が見つかった事実は重大。しかも写真をよく見ると3点が別個体みたいだし(少なくとも銅鐸が3個あった!)それも三輪山山麓で青銅器関連遺物と共伴しているなんて…

脇本遺跡といえば、1984年に5世紀後半のものと推定される大規模な掘立柱建物跡が発見され、雄略大王の朝倉宮の跡かと話題を呼んだところ。

橿考研のHPにプレスリリース(脇本遺跡報道発表資料PDF)が公開されている。

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破砕銅鐸の行方-弥生青銅器の運命

Photo_5弥生時代の青銅器が、最後はどういう運命をたどったのか… 徳島市立考古資料館の特別展で「西分増井遺跡」の出土品を見てきたので、ちょっとレポートしておきたいと思う。

西分増井遺跡は高知平野西部の拠点集落。2002年の調査で竪穴住居から各種青銅器の破片が多量に出土している。中広銅矛、広形銅戈、銅鏡(中国鏡・小型ボウ製鏡)など九州の青銅器、そして扁平鈕式銅鐸の破片も(写真1)。銅戈の破片はとにかくバラバラで、青銅器の大小破片は23点あり、科学分析(蛍光X線、鉛同位体比)の結果、同一個体だったと推定されるものがいくつかあることが判明… 結論として、この集落に持ち込まれた(以前使用していた?)青銅器が集落内でバラバラに破壊されたことは間違いなさそう。

破壊の目的が、青銅原料としてのリサイクルだったのか、そのまま利器(刀子・工具など)として転用されたのか、西分増井では青銅器工房関連の遺構・遺物が確認されていないし、バラして作った“製品”が現地に残っていないので、最終的には不明。ただし青銅器片が多量に出たのは、集落北部の鍛冶炉や多量の鉄器・鉄片類の出た“工房エリア”なので、青銅器原料となった可能性は残ると出原恵三さんは考察されている。出土したのが住居内なので、破壊行為は祭祀とは無関係だろう。※高知県文化財団埋蔵文化財センター2004「西分増井遺跡II」

Photo_6福井県の高柳・下安田遺跡の場合、2004年の調査で竪穴住居内から銅鐸片(突線鈕3~4式)が3点出土しており、写真のように3点は元は同一個体で、鈕、鐸身、裾?だったと考えられている(写真2)。高柳・下安田は玉作工房と考えられており、破砕された銅鐸は管玉製作加工用の利器として再利用され、最終的に廃棄された事例。※赤澤徳明2005『高柳・下安田遺跡』「第20回福井県発掘調査報告会資料」福井県埋蔵文化財センター

Photo_3この他、有名な鳥取県の青谷上寺地遺跡でも銅鐸片が4点出土している(写真3)。青谷上寺地の場合、4点は同一個体ではなく、突線鈕もあれば扁平鈕もあるという感じで、溝だとか土器包含層からの出土なので、はっきり言って何に使ったのかわからない状態、同時かどうかも不明…※鳥取県埋蔵文化財センター2001 『青谷上寺地遺跡3』, 2002 『青谷上寺地遺跡4』

青谷上寺地も玉作工房のムラのようなので、バラされた青銅器は、新たな青銅器の原料にされた可能性は以外に少なそう。そういえば、鰭の破片が採集された豊岡市の女代神社南遺跡も玉作りのムラ。もともと銅剣など初期の青銅器も、瀬戸内以東では、利器としての再利用が多かったようなので、利器への加工・転用ということは、割と普通に行われていたことと考えるべきなのかもしれない。

Photo_4遺跡に残された断片的な遺物からみた弥生青銅器の最後は、まず利器として加工・転用された事例が多いとみられ、もう一つは他の青銅器のリサイクル原料、そして飾耳などはアクセサリーとして再利用されることもあったらしい。ただし、これまでの破砕銅鐸の出土例中、懸垂孔(穿孔)があるのは、静岡県沼津の藤井原(写真4)と段遺跡の2例のみ。破鏡に懸垂孔が多く、破断面が研磨されているのと対照的に破砕銅鐸の破断面は研磨痕がない…これが何を意味するのか?

破砕された銅鐸というと、兵庫県豊岡市(旧日高町)の久田谷遺跡が有名でいろいろと議論されているが、弥生後期段階で各地のムラ周辺にあった青銅器の運命は、埋納、破壊、転用、加工、改鋳、遺棄など、用途(処理方法)においても、時間的(後期前半~庄内期にわたる)にも、各地での多様な形を想定しておいた方が実態に近いようなのだ。

弥生後期にたくさん作られている銅鏃の原料としての転用も想定できなくはないが… 銅鐸が各ムラから供出されたり、掘り出されて、1ヶ所に集められ、銅鏡の材料として鋳潰されるというようなストーリーは、破砕銅鐸の出土状況からみても、ちょっとかけ離れた“イメージ”に思える… 後期の銅鐸でさえ庄内期まで残ったかどうか…疑問。青銅器の終焉を考える上では、弥生後期後半-西暦でいうと2世紀代の100年間に何が起こったのかが重大な問題なのだろう。

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2007年12月 5日 (水)

豊前地方出土青銅器展と寺福堂遺跡の銅戈の繰り返し埋納

福岡県の苅田町歴史資料館で「瑞穂の国の成立I-豊前地方出土青銅器」展が開催されていた(2007/10/18~12/2)のを最近になって知った。

その図録に掲載されていた北九州市の重留遺跡の銅矛(何回も繰り返し埋納が確認された)を調べていたら、今度は福岡県小郡市の寺福堂遺跡でも銅戈の繰り返し埋納が確認されたというニュースを見つけた!

青銅器の繰り返し埋納…一度は否定された説だが、改めて検討しなければならないテーマになりそうだ。

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2007年12月 4日 (火)

第59回銅鐸研究会「銅鐸の紋様-横帯紋・流水紋・袈裟襷紋-」

今日メールで「第59回銅鐸研究会」のお知らせが野洲市銅鐸博物館から来た。

日時 平成20年2月9日(土) 14:00~16:00
演題 「銅鐸の紋様-横帯紋・流水紋・袈裟襷紋-」
講師 進藤 武(野洲市歴史民俗博物館学芸員)
場所 野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)1階研修室

第59回目を迎える今回の銅鐸研究会は、銅鐸の紋様から銅鐸の謎に迫ります。
銅鐸は鋳型に青銅を鋳込んだ鋳造品であることから、細部においては個々に異なっているものの、施された紋様は限られたものとなっています。
銅鐸の研究には古くから、形態や厚みのほかに幾何学的な紋様、絵画などを拠り所とされ、横帯紋、流水紋、袈裟襷紋、突線紋などの紋様分類が用いられてきました。
いま、銅鐸研究は紋様構成や形態の詳細な検討によって、地域的な銅鐸群の抽出や系譜を明らかとする研究が進められています。
今回は、銅鐸の紋様を検証することにより型式差、地域差としていかに反映しうるかを考えてみたいと思います。

対 象:どなたでも
定 員:120名
参加費:受講料は無料ですが、入館料が必要です。
その他:当日受付
主 催:野洲市歴史民俗博物館・同友の会

問い合わせ先
野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)
滋賀県野洲市辻町57番地1
Tel:077-587-4410  Fax:077-587-4413
E-Mail:rekimin@city.yasu.lg.jp

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銅鐸の旅-徳島から出雲へ(その4/加茂岩倉37号銅鐸)

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今回の見学で、徳島の銅鐸には古いもの(I式,II-1式)も少ないが、新しいもの(IV式)も少ないこと。扁平鈕式の新段階-III-2式辺りの銅鐸のバリエーション(変種)が豊富に出ていることを知った(写真1/長者ヶ原2号)徳島産といわれている亀山型や名東型以外にもいろいろある。佐原先生の「渦巻き派」、難波さんの「横帯分割型」の生産地なのかもしれない。難波さんが横帯分割型の生産地を「吉備」と言わずに「瀬戸内東部」と表現しているのは、徳島の可能性もあるというニュアンスなのだろう。

また、加茂岩倉で出た扁平鈕式の新段階(III-2式)以降、出雲でも銅鐸生産が始まったと聞かされていたが、出雲・志谷奥1号や石見・上條2号の銅鐸の袈裟襷文のエッジ(界線)が複線になっており、時期的にみて、これは同時期の他地域の銅鐸にはないデザイン。 エッジが複線化するのは後期銅鐸の特徴、早くても扁平鈕式新段階からなのだ。※平成12年春季特別展図録『神々の交流-出雲・石見・隠岐の弥生文化』弥生文化博物館 2000

37そして、加茂岩倉の37号銅鐸(II-2式/写真2)の前で、暫し立ちすくんでしまった…この銅鐸も袈裟襷文のエッジが複線になっているのだが、片面の袈裟襷縦横帯の中が「網代文」と「複合鋸歯文」になっている!!(普通は斜格子文)
「えーっ?!」という感じだが、この銅鐸は他にも妙なところがたくさんあって、鈕の菱環文様帯の上側が三日月文様帯のようだし、横帯の斜格子はすごく縦長だし、下辺は鋸歯文でなく、連続渦巻文になっている。※鋳上がり悪く錆に覆われてて、実物見ないと写真だと細かいところまではわからないと思う…

荒神谷の1号もユニークというかキュッチュというか“デタラメ”なデザインだったが、この37号もかなり変な銅鐸だ。

出雲での銅鐸生産はかなりさかのぼるのかもしれない…

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銅鐸の旅-徳島から出雲へ(その3/加茂岩倉銅鐸出土地)

112/2はAM中、宍道蒐古館で伝島根県の福田型銅鐸(出雲木幡(こわた)家伝世銅鐸)を見た後、加茂岩倉遺跡を訪れた。

現地はガイダンス施設が設けられ、復元された出土状況模型(写真1)まで谷をグルッと囲むように遊歩道が整備されている。
加茂岩倉ガイダンスの管理人さんに
「この谷には何かありますか?」と尋ねたところ
「湧水があります。どんな時でも涸れませんね~」との答え
「それはどこから?」と聞くと
2管理人さんは銅鐸出土地点から左方-谷の奥を指さした。銅鐸の出土したところは、小さな谷の中では少し突き出した岬状の地形の先端に当たる(写真2)。
「ただしここの湧水は、出雲弁でカナっ気が多いんで…」と管理人さんは口ごもる。
「カナっ気って金気、鉄分が多いということですか?」
「飲むには向かないが耕作には問題ない。発掘された頃はすぐ下まで水田だった」
そういえば銅鐸出土地点の直下は今でも丸い窪地となっている。湧水が多い季節にはここは湿地、沼池のようになるかもしれない…

加茂岩倉と「大岩」の話は、今までさんざん聞かされてきたが、肝心の大岩は銅鐸出土地点の谷を出てそのまた道路をはさんだ向こう側。岩倉集落の地名由来には関係がありそうだが、銅鐸が出た小さな谷とは関係はなさそう。
加茂岩倉と「湧水」…今までほとんど聞いたことがないが、銅鐸出土地点に近接して湧水があることは事実。

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銅鐸の旅-徳島から出雲へ(その2/古代出雲歴史博物館-弥生王墓誕生)

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出雲へは銅鐸にはまりはじめた今年最初の頃から再訪したかったので、ようやく念願かなった。島根県立古代出雲歴史博物館(写真1)は今年春にオープンしたばかり。九博の出雲版みたいな博物館で、通史展示以外にテーマ展示があるなどこぢんまりとしているが内容が濃い。
銅鐸に関しては、こちらも加茂岩倉の39個を中心に島根県出土銅鐸が一堂に展示されており圧倒されっぱなし…しかし見学者が多く、落ち着かないのが難点。加茂岩倉遺跡のガイダンス施設のレプリカの方が、照明も明るいし、見学者もいないし、じっくり観察するにはよさそう。

Photo_2出雲歴博では企画展「弥生王墓誕生」をやっており(~12/16)、ホンモノの金印の前は黒山の人だかりになっていたが、個人的には、山陰地方に多い「スタンプ文土器(写真2)」に関する展示に注目。弥生後期の墳墓祭祀用の土器文様が、最初銅鐸の文様そっくりだったのが、 古墳時代初めには、何描いてるのかわからないくらい変貌してしまう過程が新鮮な驚きだった。寺澤薫さんが「銅鐸は特殊器台に生まれ変わった」と論じられていたが、※寺澤薫 2006「銅鐸の終焉と大型墳丘墓の出現」『邪馬台国時代のツクシとヤマト』(学生社)スタンプ文土器の変遷過程をたどってみると、ある意味納得できる説だと思う。

12/2 13:30~は出雲歴博の学芸部長・松本岩雄さんによる企画展講座「青銅器祭祀の終焉と王墓誕生」もやっていたので聴いてきた。青銅器埋納の「マツリの意義」について、小林行雄以来の「農耕祭祀説」をあっさり否定して、「集団結束の象徴説」を主張されていたが、「何故埋めるのか」という核心部分には結局迫れていない。この辺が考古学の限界だと最近つとに感じている…

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銅鐸の旅-徳島から出雲へ(その1/徳島市立考古資料館・徳島県立博物館)

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12/1~2、徳島~出雲と企画展のハシゴを兼ねて銅鐸めぐりをしてきた。2日間で見た銅鐸は全部で84個…さすがに食傷ぎみだ。

徳島では、徳島市立考古資料館で12/2まで開催中の10周年記念特別展「弥生の青銅器の世界」(写真:図録表紙)を最終日前日滑り込みで見てきた。善通寺旧練兵場遺跡(香川県)の銅鐸鈕破片や西分増井遺跡(高知県)の青銅器破片(銅矛、銅鐸、銅鏡、銅戈etc.)など-かなりマニアックな出土品も展示されており、興味深く観察 。善通寺所蔵の近畿式銅鐸など予想してなかった銅鐸とも出会えた。

12/1 PM~立ち寄った徳島県立博物館では、7月に江戸博に見に行った「発掘された日本列島2007」を開催中(~12/9)で同時開催の地域展「眉山周辺の遺跡群」というのをやっており、矢野銅鐸をはじめとして徳島の銅鐸が勢揃い!徳島県博には、常設展示室にも県内出土の銅鐸がズラリ9個も並んでいる。今回の見学で本物・レプリカ含め徳島の銅鐸をほぼ全部見ることができた。

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