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2008年1月

2008年1月29日 (火)

「銅鐸の時代」を読んで(その2)

Photo_29

II章はいわゆる分布論。銅鐸の保有形態…ムラ単位なのか、クニ単位なのか、もっと広域の単位なのか…従来の根強い考え方として「銅鐸は各ムラに1個、それが長い間伝世して使われ、銅鐸祭祀の終焉と共に埋められた」というものがあったが、春成さんは「銅鐸が事あるごとに次から次へと埋納された」と考える。そして「各型式がほぼ一そろい出土した範囲をもって一祭祀単位と想定することができるかもしれない」とされ、これまで「農業共同体」程度のひろがり(クニ単位)が想定されていたのに比して、もっと広い範囲を想定せざるを得ないとする。

この点について春成さんは吉備地方の銅鐸で具体的に検討し「吉備の中心部への入口に銅鐸が埋納されている傾向は否定できない」とされる。なるほどI章で「邪霊の侵入路での祭祀」という言葉がでてきた根拠はこれだったようだ。しかしこのあと、銅鐸の総数(未発見も含む)を1000~1500個の間に入ると試算、弥生中期の大集落や古墳前期の首長墓系列と銅鐸出土地を対応させて「基本的には一農業共同体につき1~2個の銅鐸が保有されていた」とも書かれており、結論としてはクニ単位の保有を想定しようと読み取れる。

神戸市桜ヶ丘の複数個埋納については「別個」の解釈が必要とされ、西摂だけでなく北摂まで含めた「多数の共同体の利害にかかわる性格を有していた」と推察している。この辺りはその後の出雲での大量出土に対しても同じ観点から解釈されている。II章でも出てくる“銅鐸は高価なもの”というイメージが保有単位の検討に影響を与えていることは間違いない。

II章では鋳造地と配布についても論じている。銅鐸の型式別分布状況から鋳造地を推定しているが、この時はまだ「銅鐸群」まで細分して議論されていない。その後春成さんは92年に「銅鐸の製作工人」『考古学研究』39-2という論文を発表され、弥生中期の工房系列を具体的に想定している。

「銅鐸の配布」に関してはいくつか気になる考え方が示されている。
・稲魂を守り豊饒と繁栄をもたらす機能を具備する点から…大変な価値を有していた。
・銅鐸が各地の特産物資…と直接的・等価的交換品となることが容易ではなかったとすれば…配布集団側を上位とし被配布集団側を下位とする贈答形式を原則とし…対等の交換形式をとっていなかった。
・銅鐸の配布が製作共同体の威信を高める。
・配布は…呪器と祭祀体系を共有する関係を創出する。
・鋳造集団と被配布集団との間の交通が首長を介して行われた。
銅鐸の製作と配布が「畿内の集団」によって、あたかも三角縁神獣鏡の配布のように行われたイメージなのだ。

さらに「見る銅鐸」の分布が紀伊南部、阿波南部、土佐東部など、可耕地の狭い、有力な前期古墳も築かれない“後進地方”に集中する現象に対して「鋳造集団である畿内の集団が関与して行なった祭祀」であり、畿内の境界を呪的に守護するために、「畿内中枢部の特定集団のもとに保有」されていた銅鐸が「埋納を伴う祭祀の際に…運搬されてきたとみるべき」とする。

春成さんは銅鐸の交換物として「精神的なもの」もしくは「生口」を上げるが、それでは「銅鐸の鋳造集団」はどうやって銅鐸の原料や鋳型の石材を入手したというのだろうか?青銅原料や鋳型の材料は通常の交換で入手可能だが、ひとたび銅鐸に加工されると“超貴重品”となるというのもどこか無理がある。青銅器生産が九州が先か近畿が先か議論は続いているが、最近の発掘で菱環鈕式銅鐸の製作が愛知や福井といった近畿周辺部で始まった可能性が説かれ、扁平鈕II式段階末~突線鈕I/II式段階に鋳造地が再び近畿周辺に拡散していくという。配布集団VS被配布集団といった図式で捉えられないのは明らかなのだ。

最後のIII章では銅鐸祭祀終焉の状況が論じられている。銅鐸祭祀の廃絶の理由は「首長霊祭祀の成立が銅鐸祭祀を止揚した」という言葉に尽きるのだが、ここでも「穀霊」が重要な役割をはたしている。「豊饒の象徴である初穂を食べることが首長の霊に一層の活力を与え共同体を強化するという」儀礼の成立と普及によって、銅鐸による稲魂祭祀は意味を失ったする。稲魂を守護していた銅鐸の役割を「神格化された首長」が継承したとも読めるが、稲魂を守護する「聞く銅鐸」の廃絶=古墳被葬者としての首長の誕生でないことは春成さんも認めており、聞く銅鐸がなくなっても「稲魂を守護する宗教的な装置まで不要になったとは考えにくい」し、古墳被葬者としての「首長が出現するまでには、まだ時間はある」という。

そこで春成さんは「鏡」と「見る銅鐸」に注目する。銅鏡については、「銅鐸(聞く銅鐸)を失なって鏡(漢中期の鏡)を有する地域と、新式鐸(見る銅鐸)を有する地域とが、遅くとも後期には併存していた」という川西宏氏の「伝世鏡」論を“傾聴に値する意見”と評価し、鏡の入手による影響が稲魂の守護方法に何らかの変革を引き起こしたと想定する。破鏡や小型ボウ製鏡についてはこの時点ではまだ触れられていないが、弥生後期の「鏡」の普及が首長霊祭祀と関係があることは認めてもいいだろう。問題は見る銅鐸の位置づけと終焉をどう考えるかである。

見る銅鐸については、「銅鐸がその形骸をとどめながらも、農業共同体レベルの呪器ではなくなり、より上位の社会集団に帰属する呪器に変化している」として、見る銅鐸は「畿内社会を守護する神器として位置づけられる」とされる。それ故に西方では九州・吉備勢力、東方では東海勢力に対して「境界で祭祀が行われ、銅鐸が埋納されたのである」と雄大な構想で締めくくられている。

春成さんは、銅鐸のような難物には「個別実証主義的な攻め方」ではなく「想像に走ることを気にしながらも」、「大ワクをつくって」おくことが重要で「仮説が成立しうるか否か」は「論理的整合性が認められるかどうかにかかっている」という。しかし、「銅鐸稲魂守護説」にしても、「銅鐸配布集団上位説」にしても、そして「「見る銅鐸」が「聞く銅鐸」とは異なる原理にもとづいて埋納されている」とすることも、個別実証的に「部分部分の推論・実証の当否」を問わなければ、どこまでも“仮説”に過ぎない。

破砕銅鐸ひとつとっても問題は複雑である。春成さんも但馬・久田谷鐸の破片(写真)の解釈をめぐって、ご自身の「見る銅鐸」仮説との齟齬に少々困惑されている。これなども「部分部分の推論・実証」が重要であることを示唆しているように思う。

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2008年1月23日 (水)

「銅鐸の時代」を読んで(その1)

Photo_3正月休みに春成秀爾さんの「銅鐸の時代」『国立歴史民俗博物館研究報告』第1集(1982)をじっくり読んでみた。

この論文は春成銅鐸論のデビュー作といえるもの(正確には78年「銅鐸の埋納と分布の意味」『歴史公論』4-3が銅鐸関係の処女作だが)80年代以降の銅鐸論を規定したという意味では、酒井龍一さんの「銅鐸・その内なる世界」『摂河泉文化資料』10(1978)と並ぶ論文。だが春成さんの銅鐸に関する著作は他にもたくさんあり、結構読んでいたので「銅鐸の時代」は恥ずかしながら未読だった。

章立ては、I銅鐸の用途、II銅鐸の使用された社会、III銅鐸の終焉 となっているが、Iが銅鐸のモノとしての観察から銅鐸祭祀について探ろうというもの。IIはいわゆる分布論から銅鐸の所有・配布について考え、IIIは聞く銅鐸→見る銅鐸への変化が銅鐸祭祀の内実にどう影響を与えたか…そして銅鐸祭祀の終焉-古墳時代の開始を首長霊信仰との関わりで論じている。

Iの祭祀論については初っぱなから三品彰英さんの「地霊と穀霊」が取り上げられている。ここでも三品説の影響の大きさを感じるが、春成さんは三品さんが「銅鐸は<大地に埋められる呪具>(地霊の依代)として生み出されたものである」と述べているにもかかわらず「穀霊」との関係に注目する。農耕祭祀とは地霊(土地神)と穀霊(稲魂)の和魂・荒魂をコントロールすることであるという。おそらくこれは正しいだろう。しかし「銅鐸の用途を穿鑿する前提」としては正しいのだろうか?

I章は銅鐸文様の検討にかなりの頁数が割かれている。銅鐸の二大文様-袈裟襷文と流水文を検討し、酒井龍一さんの銅鐸文様=「ものを包み込む帯の抽象化」という説を採る。しかしここでも春成さんは、酒井さんの「銅鐸に封じ込められるものは…超自然の荒ぶる力であった」という結論を否定し、銅鐸の「内にあって結びつけようとされる対象とは穀霊=稲魂であったと考えたい」とされる。

どうしてそんなに「穀霊」を重視するのかと思っていたら、次の検討テーマは「銅鐸の保管場所」。ここで稲魂と銅鐸が結びつく。まず舌の伴出例が非常に少ないことから佐原先生の地中保管説批判を展開。「使用」=舌が付いた状態、「埋納」=銅鐸使用の最後の形態(使用停止状態)とする。ここでいきなり「初穂に宿る稲魂」の話が出てくる。稲魂は秋から春までは高倉にあり春から秋までの間は水田にあるという「稲魂循環説」…この話自体はなるほどその通りだと思うのだが、「地霊の荒魂を和め、寄りくる諸々の邪霊・悪霊を祓い、稲魂を励まし稲籾に結びとめておくのが銅鐸の機能」と言われると、「ちょっと待て、銅鐸にそんな力が本当にあるのか?」とにわかには信じられない。

春成さんは「銅鐸は…稲魂を緊縛し守護すべく稲魂とともに特定の高倉内に安置」されていたという。銅鐸はとうとう地霊との関わりはほとんどなくなって、穀霊(稲魂)の“守護神”に祭り上げられてしまう。

I章の後半は、銅鐸の埋納と銅鐸の破砕。穀霊を守護する銅鐸が「何ゆえに地中に永遠に埋納されなければならなかったのであろうか」と春成さんは問う。問題の設定からして「埋納」こそ銅鐸最大の謎であり、銅鐸祭祀解明の鍵だと思うのだが、残念ながら「銅鐸穀霊守護説」からはとうてい説明できない。

そこで二つの考えが登場する。「境界祭祀」と「奉献・供犠」だ。

「干魃・豪雨・虫害など稲魂をおびやかす非常事態の発生時に…稲魂の坐す平野へのいくつかの通路のうち…邪霊の侵入路と推断したその入口付近で銅鐸祭祀を行なった後埋納された」と春成さんはいうが、さすがに矛盾点に気付かれたらしく、「穀倉にあって稲魂を守るべき任務をもっていたとすれば…土中に埋めてしまうという行為は、理解しがたい」と一応疑問を呈する。しかし、銅鐸埋納の状態が「銅鐸の本来の使用・保管状態の否定」を示しており、邪霊や土地の霊に対する奉献-未来永劫までの宥和を請願したことを意味すると「埋納」を意義づける。

最後に銅鐸は、地霊に対する“奉献の供物”と意義づけられたが、守護神と供物…いったいどちらが銅鐸の真の姿なのだろうか?

非常事態に「共同体にとってもっとも大切な豊饒の呪器ひいては象徴」を“敵”に差し出してしまうことが、共同体の崩壊につながらないかと…心配になってしまう。

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柳沢遺跡の銅戈・銅鐸いよいよ一般公開

昨年秋、話題となった柳沢遺跡の銅戈・銅鐸が下記速報展でいよいよ公開される!!

長野県埋蔵文化財センター速報展「長野県の遺跡発掘2008
期日:平成20年3月15日(土)から5月11日(日)まで
場所:長野県立歴史館 2階 企画展示室
問い合わせ先:長野県埋蔵文化財センター 026-293-5926

公開に先立ち長野県中野市で
地域史講演会「柳沢遺跡調査速報-銅戈(どうか)の発見された遺跡」が開催
日時:平成20年2月9日(土)午後1時30分から3時まで
場所:中野市市民会館 41号会議室
問い合わせ先:中野市歴史民俗資料館 0269-22-2005

また3月には「柳沢遺跡シンポ」も開催されます。
長野県立歴史館 特別考古学講座・シンポジウム「柳沢遺跡を語る」
日時:平成20年3月15日(土) 午後12時30分から4時まで
問い合わせ先:長野県立歴史館 026-274-2000

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2008年1月16日 (水)

「浜松市の銅鐸」展

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企画展「浜松市の銅鐸」が1/13~始まっていた。

会期:2008年1月13日(日)~4月6日(日)
会場:姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館(静岡県浜松市北区細江町)
Tel:053-523-1456
開場時間:午前9時~午後5時 月曜休み

奈良国立博物館所蔵で浜松市北区三ケ日町で出土した「釣荒神山2号銅鐸」(写真)も里帰りしている。
20数点も一堂に展示されてるとなると…一日じゃ見きれないなぁ

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銅鐸は銅鏡に改鋳されたのか-鉛同位体比からみた青銅器材料(その3)

Img_coop_main3鉛同位体比の文献を読んでいると、いろいろと面白い実例が載っている。

例えば、佐賀県唐津市中原遺跡の銅釧の事例
この遺跡の2基の甕棺から、銅釧が14個も出てきたが、鉛同位体比を測定すると(グラフ1)のように2つのラインのグループに分かれ、各々のラインが交叉することから3種類の鉛が使われていたと推定されている。この3点が鉛鉱石(方鉛鉱)なのか鉛成分を含む原材料(ようするにスクラップ)なのかまではわからないが… 細かくみると、ラインD(グラフ中の一点破線)の中でも原材料はいくつかに分かれているということになる。
同じ遺跡からたくさん出土した遺物の鉛同位体比は、ある傾向…特定のエリアに集中して、かつある傾きを持って…鉛同位体比が分布することが多いようだ。

S_2例えば、荒神谷遺跡の銅剣の事例について(グラフ2)
グラフを見ていただくと、右と左に長く伸びていることがわかると思う。ほぼ同時期に作られたと推定されている358本の銅剣だが、鉛同位体比からみるとこのように違いがある。この結果については、大きな溶鉱炉のようなもので一度に原材料を溶かして、次々に銅剣を作っていったのではなく、一定の時間をかけて、少しずつ作成していったためと考えられている。この点は銅剣の細かな形式分類からの推定とも一致するらしい。
岩永省三さんは、銅剣の鉛同位体比の分布が領域Aのエリア内にとどまらず、左右にある傾きを持って伸びていることから、領域Aの原材料に、左下のラインDと右上方の遼寧省方面の鉛が添加されている可能性を指摘されている。岩永さんは、銅剣(A-26)1本だけが最古段階の形式の菱環鈕式銅鐸(T-5)と同じ鉛同位体比を示していることから、古い銅鐸(ラインDの青銅製品)を鋳潰して銅剣にしたのではないかと推定されており、添加されたラインDの原材料は、古い青銅器のスクラップ利用だったことを示唆している。

67s次は、弥生時代青銅器と三角縁神獣鏡の鉛同位体比グラフ(グラフ3)
グラフを見ていただければ、領域Aと漢鏡6-7期(後漢-魏晋代)の銅鏡エリアを結んだライン上に、三角縁神獣鏡が位置していることがわかると思う。
新井宏さんも
>三角縁神獣鏡の鉛分布は漢代の鉛と後漢鏡・魏晋鏡の鉛を混合使用したと考えれば、作り出せることである。すなわち、前代(漢代)の青銅器原料に魏晋代の原料を混合したと考えれば、日本でも中国でも製作可能なのである。

と書いており=「銅鐸から銅鏡へのリサイクル!」とも読み取れる。ただしここからは、青銅器の金属成分比-銅、錫、鉛の構成比を基に、シミュレーションする必要がある。銅鏡だけでなく、古墳時代の青銅製品は弥生後期の青銅器に比べて「錫」が圧倒的に多い(20~25%)ので、仮に弥生青銅器を鋳潰して、古墳青銅器を作る場合、「錫」を多量に添加する必要がある(弥生青銅器は錫3~5%)。「鉛」についてはどうかというと、弥生後期青銅器は3~5%、古墳青銅器では5~6%台が多いようなので、こちらも若干は添加しないと古墳青銅器の%に達しないものもある。

仮に1kgの銅鏡を数枚作るために10kgの後期銅鐸を鋳潰す場合、銅鏡の金属構成比 銅70%, 錫25%, 鉛5%とする。10kgの後期銅鐸の金属構成比 銅90%, 錫5%, 鉛5%として、銅鏡の金属構成比と同じ値にするには、錫500g, 鉛500gに対して、錫2.7kg, 鉛143gを添加する必要がある。また後期銅鐸の金属構成比 銅94%, 錫3%, 鉛3%の場合は、錫300g, 鉛300gに対して、錫2.9kg, 鉛343gを添加することになる。混合された鉛原料の割合によって鉛同位対比が変動するとすれば、500gに対し143g、300gに対し343gだから、鉛3%の場合でようやく領域Aと領域Bの中間地点付近まで来ると予想される。シミュレーション的には、かなり多量に領域Bの鉛を添加しないといかんということになりそう。

古墳時代青銅原料と弥生時代青銅原料の混合を想定するにしても、あくまで古墳時代青銅原料(領域B)が主、弥生時代青銅原料(領域A)が従なら説明がつきそうだが、その逆はちょっと考えにくいように思う。三角縁神獣鏡の中に1枚でも領域Aに位置するものがあれば話はグッと面白くなるのだが、そういう事例はまだ1枚も見つかっていない。
また、最近歴博で調査された紀元前2~7世紀初めの韓国の青銅製品に関する鉛同位対比が日本の弥生~古墳時代への鉛同位対比の変遷(領域A→領域Bへ)にリンクしていることも気になる。この研究によると、領域B(歴博:グループB)の原料産地は朝鮮半島ではないか?という点が注目されるし、楽浪郡出土の青銅器の80%が、領域A(歴博:グループA)にあるということは、弥生後期の青銅原料供給に楽浪郡が深く関与していた可能性を窺わせる。

また鉛同位体比研究に関しては、弥生後期の青銅器の鉛同位体比が領域Aのそのまた小さな[a領域]へ集中していることをどう解釈したらよいのかという難問もある。安本美典さんは「ブレンド収縮」という怪しげな用語でこのa領域への集中化を説明しようとしているが、弥生後期には、福岡か大阪に青銅原料のスクラップ再生工場でもあって青銅インゴットを全国に供給でもしていたというのだろうか? 同時代の中国(後漢~三国)では、黄河流域の銅山が枯渇し、銅不足が深刻化していたということなので、日本への原材料供給が潤沢であったとは思えない。個人的な見通しとしては、この辺りの事情(供給元が限定される)が「a領域へ集中」に影響していると考えている。

いろいろ長々と書いてきたが、とにかく鉛同位体比は面白い!! こんな楽しそうな研究成果を学ばない手はないのだが、懐疑的な人はいまだ多い…

図出典
グラフ1:淀川奈緒子,渡辺智恵美,谷水雅治,平尾良光「佐賀県中原遺跡から出土した同釧の鉛同位体比」佐賀県教育庁報告書 (2005に報告書提出済)
グラフ2:岩永省三2003「考古学者からみた青銅器の科学分析」『科学が解き明かす古代の歴史-新世紀の考古科学』クバプロ
グラフ3:新井宏2006「鉛同位体比から見て三角縁神獣鏡は非魏鏡」『東アジアのの古代文化』2006秋(129号)

補足:昨日UPした新井宏さんの講演「三角縁神獣鏡研究の現状」に関連して
脇本遺跡-リサイクル工房の件は、会場からの質問に対し新井さんは「三角縁神獣鏡の鉛同位体比分布から弥生後期青銅器の再利用はあっただろう」とのコメント。ただし、講演後、新井さんに直接お尋ねしたところ、「弥生後期青銅器の再利用といっても、あくまでも古墳時代になって新たに大陸から供給が開始された原料への“添加”であって、銅鐸を破壊して、溶鉱炉で溶かし、銅鏡に改鋳するといった話ではない」という回答だった。
弥生後期青銅器の鉛同位体比が領域A(そのまたa領域)に集中する傾向については、「楽浪郡からの供給、そして華中地域のどこかの鉱山からの銅インゴットによる供給が想定できるとされ、古墳時代の初め頃、何らかの事情でその鉱山からの供給がストップしたのだろう」という意見だった。

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2008年1月15日 (火)

脇本遺跡(銅鐸片)速報展見学

Photo_10先週末なんとか橿考研附属博物館で開催中の脇本遺跡速報展行って来た。

追加情報として…

・銅鐸片はやはり別個体とみられている(写真1)。
左のは左右方向に湾曲しており1m級の大型銅鐸の中央縦突線部分
右上は平たいし突線も太いので鰭の下端部
右下は突線部分にも斜格子文が入った珍しいタイプ(こんな銅鐸あったかな?)

・鋳造片(1個は銅鏃?の未製品)の成分は純銅に近い。
すると後期銅鐸と類似した成分比となり、銅鐸片で銅鏃を鋳造していたと言ってもよさそう。こういうことは鉛同位体比を調べれば一発でわかるのだが、久野雄一朗さんとの関係で橿考研は鉛同位体比に批判的かもしれない…

・銅鐸片が出土した建物は調査区唯一の多角形建物で最も大きい。
これは速報展の説明中にも書かれていた。他の住居跡は方形ですが、この建物だけひときわ大きいのは何らかの意味があるのだろう。この建物自体が鋳造施設ではないが…

・時期は庄内式だが細かな時期は意見が別れているらしい。
石塚の時期、ホケノ山の時期、箸墓の時期… 時期によっては銅鐸片の意味も変わってくるが、報道では3世紀初頭と言っているし、いくらなんでも布留式までは下らないだろう。

Photo_11・鋳型片は写真が掲載されている格子状刻みが入ったものだけではなく、形は不正形だが数点出ている。
このような鋳型は最近発見例が多くなっている土製鋳型の破片で、格子状の刻み目は粘土の貼り付きをよくするため。滋賀県能登川町の石田遺跡でも出ているが連鋳式の銅鏃の鋳型らしい(写真2)。

・辰砂のスリ石はL字杵じゃなく、普通の小さなスリ石だった。
西分増井遺跡でもそうだが、青銅器関連の遺物の出るような場所は何らかの“工房区”の一角なのだろう。

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2008年1月14日 (月)

韓国・国立全州博物館-上林里銅剣

S昨年5月にソウルの中央博でどっさりと韓国青銅器文化の名品を見ていたので、全州博の展示はちょっと見劣りしたが、上林里の銅剣(写真)には注目!

全羅北道完山郡の上林里というところ(全州~金堤の中間)で出土したものだが、丘の南斜面になんと26本も埋納されていた。このうち博物館には16本展示されていた。この銅剣は形式からすると「中国式銅剣(桃氏剣)」と呼ばれるもの。朝鮮半島では遼寧式銅剣(琵琶型銅剣)が広く分布し有名だが、中国式銅剣も少ないながら分布している。この上林里銅剣は日本で細形銅剣が出現する以前の朝鮮半島での確実な埋納例として注目されており、鋒(切っ先)を東に向け、束ねていたように整然と東西に水平に置かれていたという。

写真をよくみてもらうとわかるが、この銅剣の刃部は鋳造時のバリが付いたままで全く研磨されていない。また長さは46cmもあるのに重量は400g以下。軽くペラペラで実用品の半分以下。このことから中国式といっても韓国でのボウ製品-儀器化した祭器と考えられている。韓国の青銅器としては珍しく鉛同位体比分析もされており、鉛同位体比はラインDを示している。ラインDは日本出土の朝鮮半島系遺物の鉛同位体比だが、上林里のような故地での出土品とも一致することは興味深い。また26個中、同笵(同型)品はひとつもない。これは鋳型が土製だったのか、それとも同笵品は他所へ搬出されたことを示すのだろうか… 桃氏剣は日本でも出土しており、前原市や甘木市など北部九州で事例がある。

青銅器を埋納する社会→古墳を築く社会へと発展していくという図式で考えるなら、韓国での青銅器埋納事例は日本よりも古く遡る…細形銅剣の段階(BC2世紀)これは「首長層の成長と共同体の統合が日本よりもかなり早い」ことを示し、またそれ故に三国の鼎立-特に半島南部で百済・伽耶・新羅と分立しての国家形成の遠因となったのだろうか?

参考文献:
『韓国の青銅器文化』国立中央博物館・国立光州博物館(韓国・汎友社/1992)
全栄来(後藤直・訳)1982「完州上林里出土中国式銅剣に関して」『古文化談叢』9
武末純一2002「弥生文化と朝鮮半島の初期農耕文化」『古代を考える-稲・金属・戦争-弥生-』(吉川弘文館)
岩永省三2002「青銅武器儀器化の比較研究-韓と倭-」『韓半島考古学論叢』(すずさわ書店)
廣坂美穂2007「古代青銅器の産地推定についての一考察-朝鮮半島系遺物領域Dについて-」『考古学と自然科学』55(日本文化財科学会)

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韓国・国立全州博物館-シャーマン推定像

Photo写真は韓国・全州博物館に展示されている紀元前2世紀のシャーマン(呪術者・巫女)の推定復元像。頭には鹿角、首から多鈕細文鏡を吊り下げ、手には八珠鈴や双頭鈴を持つ。腕や腰には朝鮮式小銅鐸をたくさんぶら下げ、銅剣を帯びている。

このシャーマン像…岩永省三さんの『歴史発掘7-金属器登場』(講談社/1997)で紹介されていたので、正月の韓国旅行-南原からの帰り、全州の名物ビビンバを食べるついでに寄ってきた。残念ながら推定像は写真だったが、当時の青銅器の使い方がわかりやすく説明されていた。シャーマンの衣装というと九州国立博物館にもツングース系の民俗展示がある。金属の円盤などジャラジャラと身に着けており、踊ると凄まじい音がしたことだろう。魏志韓伝に伝える「鐸舞」とはこんな姿だったのだろうか…

韓国の青銅器は、衛氏朝鮮や楽浪郡があった大同江流域やソウル周辺ではなく忠清道や全羅道-いわゆる馬韓の地域でたくさん見つかっている。青銅器など威信財-お宝は文化の中心地に-という考えからすると、ちょっと意外だが、鉄器時代に入りつつあった当時としては青銅器は実用の道具ではない。「青銅器は「僻地の有力者」の地位と威信を誇示するもの」という大林太良さんの言葉を思い出す。

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