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2008年1月29日 (火)

「銅鐸の時代」を読んで(その2)

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II章はいわゆる分布論。銅鐸の保有形態…ムラ単位なのか、クニ単位なのか、もっと広域の単位なのか…従来の根強い考え方として「銅鐸は各ムラに1個、それが長い間伝世して使われ、銅鐸祭祀の終焉と共に埋められた」というものがあったが、春成さんは「銅鐸が事あるごとに次から次へと埋納された」と考える。そして「各型式がほぼ一そろい出土した範囲をもって一祭祀単位と想定することができるかもしれない」とされ、これまで「農業共同体」程度のひろがり(クニ単位)が想定されていたのに比して、もっと広い範囲を想定せざるを得ないとする。

この点について春成さんは吉備地方の銅鐸で具体的に検討し「吉備の中心部への入口に銅鐸が埋納されている傾向は否定できない」とされる。なるほどI章で「邪霊の侵入路での祭祀」という言葉がでてきた根拠はこれだったようだ。しかしこのあと、銅鐸の総数(未発見も含む)を1000~1500個の間に入ると試算、弥生中期の大集落や古墳前期の首長墓系列と銅鐸出土地を対応させて「基本的には一農業共同体につき1~2個の銅鐸が保有されていた」とも書かれており、結論としてはクニ単位の保有を想定しようと読み取れる。

神戸市桜ヶ丘の複数個埋納については「別個」の解釈が必要とされ、西摂だけでなく北摂まで含めた「多数の共同体の利害にかかわる性格を有していた」と推察している。この辺りはその後の出雲での大量出土に対しても同じ観点から解釈されている。II章でも出てくる“銅鐸は高価なもの”というイメージが保有単位の検討に影響を与えていることは間違いない。

II章では鋳造地と配布についても論じている。銅鐸の型式別分布状況から鋳造地を推定しているが、この時はまだ「銅鐸群」まで細分して議論されていない。その後春成さんは92年に「銅鐸の製作工人」『考古学研究』39-2という論文を発表され、弥生中期の工房系列を具体的に想定している。

「銅鐸の配布」に関してはいくつか気になる考え方が示されている。
・稲魂を守り豊饒と繁栄をもたらす機能を具備する点から…大変な価値を有していた。
・銅鐸が各地の特産物資…と直接的・等価的交換品となることが容易ではなかったとすれば…配布集団側を上位とし被配布集団側を下位とする贈答形式を原則とし…対等の交換形式をとっていなかった。
・銅鐸の配布が製作共同体の威信を高める。
・配布は…呪器と祭祀体系を共有する関係を創出する。
・鋳造集団と被配布集団との間の交通が首長を介して行われた。
銅鐸の製作と配布が「畿内の集団」によって、あたかも三角縁神獣鏡の配布のように行われたイメージなのだ。

さらに「見る銅鐸」の分布が紀伊南部、阿波南部、土佐東部など、可耕地の狭い、有力な前期古墳も築かれない“後進地方”に集中する現象に対して「鋳造集団である畿内の集団が関与して行なった祭祀」であり、畿内の境界を呪的に守護するために、「畿内中枢部の特定集団のもとに保有」されていた銅鐸が「埋納を伴う祭祀の際に…運搬されてきたとみるべき」とする。

春成さんは銅鐸の交換物として「精神的なもの」もしくは「生口」を上げるが、それでは「銅鐸の鋳造集団」はどうやって銅鐸の原料や鋳型の石材を入手したというのだろうか?青銅原料や鋳型の材料は通常の交換で入手可能だが、ひとたび銅鐸に加工されると“超貴重品”となるというのもどこか無理がある。青銅器生産が九州が先か近畿が先か議論は続いているが、最近の発掘で菱環鈕式銅鐸の製作が愛知や福井といった近畿周辺部で始まった可能性が説かれ、扁平鈕II式段階末~突線鈕I/II式段階に鋳造地が再び近畿周辺に拡散していくという。配布集団VS被配布集団といった図式で捉えられないのは明らかなのだ。

最後のIII章では銅鐸祭祀終焉の状況が論じられている。銅鐸祭祀の廃絶の理由は「首長霊祭祀の成立が銅鐸祭祀を止揚した」という言葉に尽きるのだが、ここでも「穀霊」が重要な役割をはたしている。「豊饒の象徴である初穂を食べることが首長の霊に一層の活力を与え共同体を強化するという」儀礼の成立と普及によって、銅鐸による稲魂祭祀は意味を失ったする。稲魂を守護していた銅鐸の役割を「神格化された首長」が継承したとも読めるが、稲魂を守護する「聞く銅鐸」の廃絶=古墳被葬者としての首長の誕生でないことは春成さんも認めており、聞く銅鐸がなくなっても「稲魂を守護する宗教的な装置まで不要になったとは考えにくい」し、古墳被葬者としての「首長が出現するまでには、まだ時間はある」という。

そこで春成さんは「鏡」と「見る銅鐸」に注目する。銅鏡については、「銅鐸(聞く銅鐸)を失なって鏡(漢中期の鏡)を有する地域と、新式鐸(見る銅鐸)を有する地域とが、遅くとも後期には併存していた」という川西宏氏の「伝世鏡」論を“傾聴に値する意見”と評価し、鏡の入手による影響が稲魂の守護方法に何らかの変革を引き起こしたと想定する。破鏡や小型ボウ製鏡についてはこの時点ではまだ触れられていないが、弥生後期の「鏡」の普及が首長霊祭祀と関係があることは認めてもいいだろう。問題は見る銅鐸の位置づけと終焉をどう考えるかである。

見る銅鐸については、「銅鐸がその形骸をとどめながらも、農業共同体レベルの呪器ではなくなり、より上位の社会集団に帰属する呪器に変化している」として、見る銅鐸は「畿内社会を守護する神器として位置づけられる」とされる。それ故に西方では九州・吉備勢力、東方では東海勢力に対して「境界で祭祀が行われ、銅鐸が埋納されたのである」と雄大な構想で締めくくられている。

春成さんは、銅鐸のような難物には「個別実証主義的な攻め方」ではなく「想像に走ることを気にしながらも」、「大ワクをつくって」おくことが重要で「仮説が成立しうるか否か」は「論理的整合性が認められるかどうかにかかっている」という。しかし、「銅鐸稲魂守護説」にしても、「銅鐸配布集団上位説」にしても、そして「「見る銅鐸」が「聞く銅鐸」とは異なる原理にもとづいて埋納されている」とすることも、個別実証的に「部分部分の推論・実証の当否」を問わなければ、どこまでも“仮説”に過ぎない。

破砕銅鐸ひとつとっても問題は複雑である。春成さんも但馬・久田谷鐸の破片(写真)の解釈をめぐって、ご自身の「見る銅鐸」仮説との齟齬に少々困惑されている。これなども「部分部分の推論・実証」が重要であることを示唆しているように思う。

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