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2008年3月23日 (日)

平成19年度フォーラム「祭祀遺跡に見るモノと心」

Photo3/1、國學院大で開催された「祭祀遺跡に見るモノと心」…興味深い講演が多かったが、その中から二つを紹介。

まず今年定年退官された小林達雄先生のお話から。第二の道具(石棒など祭祀用の石器)の話も興味深かったが、後半は「縄文ランドスケープ論」を熱く語られていた。

・秋田県・大湯の環状列石
万座・野中堂と呼ばれている二つの環状列石の中にある「日時計」と呼ばれる立石の位置を結ぶ線は、夏至の時に太陽が沈む方角を示している。
・山梨県・牛石遺跡
遺跡から見た春分の日の日没は三峰山の山頂に沈んでいく。
・茨城県・寺野東遺跡
95年に見つかった縄文時代の環状盛土遺構。この遺跡からは冬至の日に遺跡の東方に聳える筑波山の山裾からの日の出を拝することが出来る。
・青森県・三内丸山遺跡
有名な六本柱の間から夏至の日の出が登ってくる(写真1)

小林先生さんが上記のような縄文遺跡と方位の話をすると、佐原先生は「考古学者が天文学を始めちゃダメですよ」と批判されたらしい。佐原先生も意外と了見の狭い人だったんだなと驚いたが、小林先生曰く「これは天文学ではない(=縄文人が天体観測していたと言ってるのではない)」「このような方位の場所に祭祀遺跡を造っている(セトルメントしている)ことに意味がある」そうだ。

遺跡と太陽方位というと「レイ(レイライン)・ハンティング」といって、欧米(特にイギリス)では盛んだが、日本では結構胡散臭いと思っている人が多いと思う。どのようにして縄文人たちが正確な方位を知ったのかわからないが、事実は遺跡そのものが語っている。巨大古墳の位置決定についても同じような話を昔読んだことがあるが(原島礼二『大王と古墳』1971年/学生社)、青銅器埋納地などもレイライン的視点で見直してみる必要はあると思う。埋納された場所や山がどこでもよかったはずはないのだから…

もうひとつは小林青樹さんの「弥生青銅器祭祀の起源と遼寧青銅器文化」。歴博のAMSによる新弥生開始年代論の発表以来、中国考古学を研究する日本人研究者の間でオーソドックスな考古学的方法で弥生青銅器の渡来年代を検証する動きが盛んだ。小林青樹さんはその中でも若手のホープとも言える存在で近年関係論文を次々と発表されている。

Photo_2小林さんの説をここで詳しく紹介する余裕はないが、ポイントをいくつか上げておきたい。まず年代の分かる中国中原青銅器と遼寧~朝鮮~日本の青銅器をつないでいく研究の中で最近注目されているのは「遼西式銅戈(写真2)の発見」だという。これまで朝鮮式銅戈のルーツは燕の銅戈だといわれいたが、むしろ遼西式銅戈こそルーツであり、この発見が朝鮮式銅戈の出現年代や銅戈を使った祭祀の系譜を解明する重要な鍵となるらしい。

小林さんは多鈕鏡に関しても興味深い見解を述べられていた。朝鮮半島の青銅器文化には多鈕細文鏡という特異な銅鏡があるが、小林さんは多鈕細文鏡の非常に細かい複合鋸歯文の原型が遼西の十二台営子の銅鏡などのZとS字連続文(雷文)にあるとして、連続Z字文から星形文への変遷過程を図解された。さらに日本の銅鐸の複合鋸歯文のルーツも遼西多鈕鏡の連続Z字文にあるとされ、日本の銅鐸文様は縄文起源の流水文と大陸からの連続Z字文の融合したものであるという。

Photo_3発表時間の関係で銅鐸に関しては詳しい説明はなかったものの、遼西の三官甸遺跡の銅鈴(中国では鐸とは言わない/図参照)の写真をはじめて見た。年代的にも位置的にも朝鮮式小銅鐸のルーツに当たるものだが、型持孔の位置が全く違うのには驚かされた。朝鮮式小銅鐸は鐸身の前後、左右側面に計4個の型持孔があるのに対し、三官甸遺跡の銅鈴の型持孔は鐸身には一つもなく、なんと舞に2個孔が開いている。日本の銅鐸は最古の菱環鈕1式段階で舞に型持孔を持っており、三官甸の銅鈴には内面突帯もあるということなのでこの点も日本の銅鐸と似ている。

小林さんのお話で最も印象的だったのは、最後に駆け足で述べられた剣・矛祭祀と戈・鏡・鐸祭祀の対立図式。朝鮮半島では遼寧式銅剣文化段階から剣・矛祭祀が優勢であり、これが九州~中四国など近畿以西の地域で銅剣・銅矛を特別視する背景となったとする。近畿以東では銅鐸と銅戈が中心となるが、戈・鏡・鐸の3点セットが中原系祭祀の影響を強く受けたものであることが、より東方へ拡散した理由だという。

日本の弥生青銅器を勉強している者としては、九州における銅矛・銅剣・銅戈の階層性や銅戈がいくら東方へ拡散すると言われても基本的には近畿以東に武器形祭祀は拡がらないので、上記の説明には首を傾げてしまう(長野・柳沢遺跡の銅鐸・銅戈をえらく強調されていたが…)。また多鈕細文鏡は日本国内での生産を待たずに消滅してしまうし、小銅鐸は九州・中四国にもあるので、本当に戈・鏡・鐸がセット関係を持っているのかどうか…

確かに日本の弥生青銅器の変容は起源地と比較すると甚だしいものがある。大陸青銅器文化から器物に付与された祭祀の象徴的な意味を探るという視点も重要といえるのだろう。

参考文献
小林青樹 2008「弥生文化と東アジア像の転換」『東アジアの古代文化』134号(2008冬)
大貫静夫 2005「最近の弥生時代年代論について」『Anthropological Science(Japanese Series)』Vol.113
岩永省三 2005「弥生時代開始年代再考-青銅器年代論から見る-」『九州大学総合研究博物館研究報告』No.3

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