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2008年3月

2008年3月27日 (木)

青銅器は貴族の考古学?

Photo先日3/8、歴博で春成さんの講演会を聴いた時の話だが、青銅器は“貴族の考古学”なんだそうだ。昔は青銅器を収集・コレクションできるのは大金持ち。それを観察・研究できるのは帝国大学の先生か国立博物館の学芸員。今でもたぶん貴族の考古学なんだろう。自分でもやっかいなもの好きになったなぁと思っている。

こうした青銅器研究の壁を少しでもなんとかしようと、春成さんは歴博でせっせと銅鐸のレプリカを作成していたらしい。その数およそ80個(それも学史的に重要なもの厳選して)歴博ではこのレプリカコレクションの写真・実測図完備の全カタログを現在作成中で、来年度いよいよ発刊されるという。

最近読んだ寺澤薫さんの論文「銅鐸の二面性-その内なる二元的世界-」『橿原考古学研究所紀要 考古学論攷』第30冊(2007年)-15年かけて412個の銅鐸を観察した結果によると、あとがきに書いてあった。私の銅鐸観察はもっぱらガラス越し。寺澤さんの場合、ほとんど全て熟覧なので私など足下にも及ばないが、銅鐸研究の難しさはこういうところにあるなぁと痛感している。

春成さんの講演会は「日本の銅鐸と北米の銅板」という題名だったので、銅鐸と銅板(図参照)の比較論など聴けるのではないかと楽しみにしていたが、話の内容は春成さん版「私の履歴書」だった。少年時代を過ごした明石海岸での化石発掘、銅鐸との出会い、岡山大学助教授時代、北米の銅板の実測調査旅行のことなど。明石原人の調査をされたのもちゃんと理由があったんだと長年の疑問が解けた。ご自分の銅鐸研究史についてもひとつひとつ紹介されていた。最初は銅鐸が観察できないので、埋納地研究をやったこと、80~90年前半までは銅鐸祭祀に関しても、銅鐸観察でも最前線で学会を主導していたが、生来の浮気性のため、銅鐸の神様にはなれなかったと告白されていた(春成さんによると、先代の銅鐸の神様は佐原先生で現在は京博の難波さん)。

銅鐸の話で興味深かったのは、銅鐸の値段-バブルの頃は1億円もしたらしいが、さすがに最近は5000万円くらいに落ち着いてきているらしい。銅鐸は貴重な考古資料であるが、高価な古美術品の顔も持っている。銅鐸を扱う古美術商が裏の世界で暗躍する話は「ギャラリーフェイク」さながらだった。春成さんの話では、高さ1.5mもある銅鐸が実在するそうで、かつて古美術商を通じてコンタクトを試みたが見ることは叶わなかったと後悔されていた。1.5mというと日本最大の大岩山銅鐸の134cmを大きく上回る超大型銅鐸。今もどこかの資産家の屋敷か蔵にでも眠っているのだろう。

春成さんはこの講演会を最後にこの3月末で定年退官されると聞いてちょっとびっくりした(もっとお若いと思っていたら今年で65歳)。縄文ランドスケープ論についてブログ(08/03/23)で紹介した國學院の小林達雄さんも今年で退官。先日もこの春で定年になるある先生の退職パーティに参加したが、考古学の世界にも「2007年問題」はあるようだ。

図版出典
春成秀爾「銅鐸と社会」2002『古代を考える 稲・金属・戦争-弥生-』(佐原眞編/吉川弘文館)

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2008年3月23日 (日)

平成19年度フォーラム「祭祀遺跡に見るモノと心」

Photo3/1、國學院大で開催された「祭祀遺跡に見るモノと心」…興味深い講演が多かったが、その中から二つを紹介。

まず今年定年退官された小林達雄先生のお話から。第二の道具(石棒など祭祀用の石器)の話も興味深かったが、後半は「縄文ランドスケープ論」を熱く語られていた。

・秋田県・大湯の環状列石
万座・野中堂と呼ばれている二つの環状列石の中にある「日時計」と呼ばれる立石の位置を結ぶ線は、夏至の時に太陽が沈む方角を示している。
・山梨県・牛石遺跡
遺跡から見た春分の日の日没は三峰山の山頂に沈んでいく。
・茨城県・寺野東遺跡
95年に見つかった縄文時代の環状盛土遺構。この遺跡からは冬至の日に遺跡の東方に聳える筑波山の山裾からの日の出を拝することが出来る。
・青森県・三内丸山遺跡
有名な六本柱の間から夏至の日の出が登ってくる(写真1)

小林先生さんが上記のような縄文遺跡と方位の話をすると、佐原先生は「考古学者が天文学を始めちゃダメですよ」と批判されたらしい。佐原先生も意外と了見の狭い人だったんだなと驚いたが、小林先生曰く「これは天文学ではない(=縄文人が天体観測していたと言ってるのではない)」「このような方位の場所に祭祀遺跡を造っている(セトルメントしている)ことに意味がある」そうだ。

遺跡と太陽方位というと「レイ(レイライン)・ハンティング」といって、欧米(特にイギリス)では盛んだが、日本では結構胡散臭いと思っている人が多いと思う。どのようにして縄文人たちが正確な方位を知ったのかわからないが、事実は遺跡そのものが語っている。巨大古墳の位置決定についても同じような話を昔読んだことがあるが(原島礼二『大王と古墳』1971年/学生社)、青銅器埋納地などもレイライン的視点で見直してみる必要はあると思う。埋納された場所や山がどこでもよかったはずはないのだから…

もうひとつは小林青樹さんの「弥生青銅器祭祀の起源と遼寧青銅器文化」。歴博のAMSによる新弥生開始年代論の発表以来、中国考古学を研究する日本人研究者の間でオーソドックスな考古学的方法で弥生青銅器の渡来年代を検証する動きが盛んだ。小林青樹さんはその中でも若手のホープとも言える存在で近年関係論文を次々と発表されている。

Photo_2小林さんの説をここで詳しく紹介する余裕はないが、ポイントをいくつか上げておきたい。まず年代の分かる中国中原青銅器と遼寧~朝鮮~日本の青銅器をつないでいく研究の中で最近注目されているのは「遼西式銅戈(写真2)の発見」だという。これまで朝鮮式銅戈のルーツは燕の銅戈だといわれいたが、むしろ遼西式銅戈こそルーツであり、この発見が朝鮮式銅戈の出現年代や銅戈を使った祭祀の系譜を解明する重要な鍵となるらしい。

小林さんは多鈕鏡に関しても興味深い見解を述べられていた。朝鮮半島の青銅器文化には多鈕細文鏡という特異な銅鏡があるが、小林さんは多鈕細文鏡の非常に細かい複合鋸歯文の原型が遼西の十二台営子の銅鏡などのZとS字連続文(雷文)にあるとして、連続Z字文から星形文への変遷過程を図解された。さらに日本の銅鐸の複合鋸歯文のルーツも遼西多鈕鏡の連続Z字文にあるとされ、日本の銅鐸文様は縄文起源の流水文と大陸からの連続Z字文の融合したものであるという。

Photo_3発表時間の関係で銅鐸に関しては詳しい説明はなかったものの、遼西の三官甸遺跡の銅鈴(中国では鐸とは言わない/図参照)の写真をはじめて見た。年代的にも位置的にも朝鮮式小銅鐸のルーツに当たるものだが、型持孔の位置が全く違うのには驚かされた。朝鮮式小銅鐸は鐸身の前後、左右側面に計4個の型持孔があるのに対し、三官甸遺跡の銅鈴の型持孔は鐸身には一つもなく、なんと舞に2個孔が開いている。日本の銅鐸は最古の菱環鈕1式段階で舞に型持孔を持っており、三官甸の銅鈴には内面突帯もあるということなのでこの点も日本の銅鐸と似ている。

小林さんのお話で最も印象的だったのは、最後に駆け足で述べられた剣・矛祭祀と戈・鏡・鐸祭祀の対立図式。朝鮮半島では遼寧式銅剣文化段階から剣・矛祭祀が優勢であり、これが九州~中四国など近畿以西の地域で銅剣・銅矛を特別視する背景となったとする。近畿以東では銅鐸と銅戈が中心となるが、戈・鏡・鐸の3点セットが中原系祭祀の影響を強く受けたものであることが、より東方へ拡散した理由だという。

日本の弥生青銅器を勉強している者としては、九州における銅矛・銅剣・銅戈の階層性や銅戈がいくら東方へ拡散すると言われても基本的には近畿以東に武器形祭祀は拡がらないので、上記の説明には首を傾げてしまう(長野・柳沢遺跡の銅鐸・銅戈をえらく強調されていたが…)。また多鈕細文鏡は日本国内での生産を待たずに消滅してしまうし、小銅鐸は九州・中四国にもあるので、本当に戈・鏡・鐸がセット関係を持っているのかどうか…

確かに日本の弥生青銅器の変容は起源地と比較すると甚だしいものがある。大陸青銅器文化から器物に付与された祭祀の象徴的な意味を探るという視点も重要といえるのだろう。

参考文献
小林青樹 2008「弥生文化と東アジア像の転換」『東アジアの古代文化』134号(2008冬)
大貫静夫 2005「最近の弥生時代年代論について」『Anthropological Science(Japanese Series)』Vol.113
岩永省三 2005「弥生時代開始年代再考-青銅器年代論から見る-」『九州大学総合研究博物館研究報告』No.3

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2008年3月21日 (金)

長野・柳沢遺跡の銅鐸

A長野県埋蔵文化財センターのH.Pで柳沢遺跡の銅鐸の写真がUPされている。
はじめて大きな写真が公開され、菱環部の外側に鰭から続く幅の狭い外縁が付く「外縁付鈕式」(おそらくII-1式)とわかった。全体的に鋳上がりが悪く、文様がわからない部分が多いが、身の鰭に接する部位に流水文があるのがわかる。大きさはやはり20cmぐらいのようだ。鰭の鋸歯文は一部だけかもしれないが外向き。外縁付鈕式で似たものを探すと、愛知県一宮市で96年に出土した八王子銅鐸(図参照)が上げられる。大きさや鋳上がりの状態、流水文、鈕部分に紐摺れのような痕跡が残っている点などもよく似ている。

Photo3/15に長野県立歴史館で開催された特別考古学講座「シンポジウム 柳沢遺跡を考える」に関する信濃毎日ニュース記事によると、柳沢遺跡調査指導委員のディスカッションの中で興味深い指摘がなされている。

吉田広・愛媛大准教授
6本の「大阪湾型」銅戈について、「毛色が違うものがあり、細かく分類できるかもしれない」と指摘した。

難波洋三・京都国立博物館情報管理室長
新潟県上越市の吹上遺跡で見つかった銅鐸を模した土製品に触れ、北信地方や吹上遺跡などで出土する「栗林式土器」の分布地域には、「銅鐸がある程度入ってきて、祭祀に使われていた可能性がある」と推測。「流入する道筋が出来上がっていたかもしれない」と述べた。

柳沢遺跡の銅鐸・銅戈は、速報展「長野県の遺跡発掘2008(3/15~5/11)で展示されており、同速報展では、長野県出土の弥生青銅器として、塩尻市の柴宮銅鐸(三遠式銅鐸)や小谷村出土と伝えられる海ノ口諏訪神社の銅戈(大阪湾型)などのレプリカも同時に展示されているらしい。

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2008年3月16日 (日)

銅鐸は誰が見るためのものか

Photo先日、銅鐸の文様(鳥取県高住銅鐸の迷路派流水文)をデスクトップの壁紙にしてみたのだが、どうも調子が悪い。画面を見ていると目がチラチラしてくる。どうしたものかと逡巡していたが、辰馬考古資料館の平成13年度秋季展『銅鐸を観察する』を読んでいて次のような文章を見つけた。

「流水紋には(中略)いずれも、条線が流れる方向を辿っていくうちに目が回ってくる。それでなくとも、この紋様を凝視するだけで、目がチカチカしてくる。つまり、この紋様には幻惑作用があるのだ」

私だけではなかったのだと安心したが、PCの作業中に気分が悪くなってはたまらないので、早速壁紙を屋久島の“シシガミの森”の写真に差し替えてしまった。

後期の銅鐸は「見る銅鐸」だと言われるが、さて誰が見るものだったのだろうか…博物館や図録などの説明ではよく銅鐸を祭壇のようなものに置いてその前で巫女と思しき女性とムラ?の人々が銅鐸を拝んでいる姿が描かれているが、本当だろうか。最近出た石野博信さんの『楽しい考古学-遺跡の中で見る夢』(2007年/大和書房)でも、「(銅鐸)を壊すということは、近畿弥生社会の「カミ」を否定するということである(P.36)」とか「高倉に宿るカミ」とキャプションを入れて高床式倉庫に近畿式銅鐸を合成した写真(P.42)を掲載している。いつからか銅鐸は神様になったらしい。

シャーマンがトランス状態に入るには、音、踊り、幻覚剤などいろいろな方法があるという。銅鐸の文様に幻惑作用があるのだとしたら、銅鐸もトランス状態導入のツールのひとつとして使われたのかもしれない…この場合銅鐸は「カミと交信するための一種の呪物」に過ぎない。

参考文献・写真出典
橋本裕行2001「銅鐸に描かれた生き物たち」『銅鐸を観察する』辰馬考古資料館平成13年度秋季展(展観の栞27)
佐原眞1979『日本の原始美術7 銅鐸』講談社P.23

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2008年3月11日 (火)

東海派の銅鐸

2東海派(東海袈裟襷派)と呼ばれる一群の銅鐸がある。弥生中期後半、正統派六区袈裟襷文銅鐸から派生する形で様々な銅鐸群が生まれたが、東海派もそのひとつ。従来の銅鐸の文様構成ルール(横帯優先)を無視したり、例を見ない文様(木の葉文)を使用したりといった進取の精神に富んだなかなかユニークな銅鐸たちなのだ。

先日2/9野洲の銅鐸博での講演会に行く前に岐阜県博物館に寄って、飛騨・上呂2号銅鐸(レプリカ/写真1)を見てきたのだが、東海派のバリエーションの多さに少々困惑ぎみだ。今まで見た東海派銅鐸というと、田峯銅鐸や朝日遺跡銅鐸それから林昌寺銅鐸(信達鐸)がある。鯖江市新町銅鐸や明治大3号鐸も見たことがあるが、こちらは横帯分割型の袈裟襷縦横帯中央に軸突線と呼ばれる突線が入っていくグループ(まあ広義にはこのグループも三遠式成立に関係しているらしいのだが…)。東海派と呼ばれる銅鐸の中でも上呂2号は鈕の星マークといい鰭の刻み目といい一番の変わり種。最近青谷上寺地遺跡出土の銅鐸片に上呂2号とよく似た星マークがあることを知った。東海派の分布は鳥取にも及んでいたらしい。新しい意匠をどんどん導入する東海派のはちゃめちゃさは出雲型とも仮称される加茂岩倉のIII-2式にも通じるものがある。

Photo難波洋三さんは『銅鐸から描く弥生社会』(学生社/2002年)で東海派から三遠式への変遷図(図参照)をまとめているが、正直1個1個の変差が大きくてこんなに綺麗に並べていいのかと思うぐらい。こういうところが同一工房の製品=銅鐸群としてではなく「派」と呼ばれている所以なのだろう。

さて東海派は瀬戸内東部にアトリエがあったとされる「横帯分割型」と統合して三遠式になったという。三遠式のアトリエは名古屋の朝日遺跡と目されているが、それでは東海派も朝日遺跡で製作されたかというとそうでもないらしい。そもそも東海派の分布は和泉、淡路、近江、飛騨、三河と分散傾向にあり、三河・遠江に集中的に分布する三遠式とはだいぶ違う。むしろその分布は「正統派六区袈裟襷文銅鐸」から分かれた一分派と見た方がいいのではないだろうか?難波さんも東海派を新旧二つに分け、A1類製作地を近畿としA2類の段階で東海へ拠点移動したとする。進藤武さんも東海派の変遷図を作っているが、扁平鈕式~突線鈕1式前半段階に東海派の中に変化が現れるとされる。ちょうど朝日銅鐸と田峯銅鐸の辺りがそれに当たる。

Photo_2また三遠式の直接的な祖型は、フォルム、文様両面からみて田峯銅鐸(写真2)がいちおしだが、この段階(突線鈕1式)で既に三遠式の厳密な文様構成上のルールが成立している感がある(しかしいまだ三遠式の特徴である軸突線は導入されていない)。このように三遠式は交互鋸歯文の使用など文様ルールの規制がきつい型式である点が特徴とされるが、東海派の文様構成のルーズさとは相容れないものも感じる。いったい三遠式はどのような工人集団によって創作されたのだろうか?

参考文献
難波洋三 2006 「近畿式・三遠式銅鐸の成立」『古代アジアの青銅器文化と社会-起源・年代・流通・儀礼-』歴博国際シンポジウム発表要旨集
進藤武 2004 「三遠式銅鐸の成立と解体」『伊勢湾岸における弥生時代後期を巡る諸問題 山中式の成立と解体』第11回東海考古学フォーラム三重大会

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2008年3月 6日 (木)

源氏ヶ峯と我拝師山銅鐸出土地

Photo1/26~27、香川県の銅鐸出土地を友人のGさんと訪れた。昨年は博物館で銅鐸ばかり見ていたが、今年はできるだけ出土地も歩こうと思っている。

源氏ヶ峯は高松市東郊-旧牟礼町牟礼、八栗寺で有名な五剣山の南東峰続き、標高217mのピーク。源平合戦の時、源義経が陣を置いたという他はそれほど目立つ山ではない。出土地までは車で行ける。途中ブッシュが激しく断念しそうになりながら、ようやく山頂北側の池(写真1)にたどり着いた。明治37年(1904)源氏ヶ峯北裏の俗称ノタバ(野田場)と呼ばれる谷間から銅鐸が出土したという-おそらく当時池はなかったと思われ、八栗寺へ通じる山道(現車道)の開通に伴い源氏ヶ峯の山頂周辺にも開墾の手が入ったのではないだろうか(源氏ヶ峯銅鐸は山麓の六萬寺の所蔵だったが、現在香川県歴博に寄託/博物館NEWS Vol.32.2007秋PDF)。池の西方谷頭付近は現在ブッシュで覆われているが人手の痕跡があり、明治の銅鐸出土はこの辺りかと思われる。付近からは弥生土器、石器(石鏃・石斧)が出土したということなので、高地性集落があったと考えられている。源氏ヶ峯山頂(写真右手)からは眺望は開けるだろうが、この谷間からは何も見えない-これも銅鐸出土地点の共通項のひとつ。

翌日、我拝師山に行く前に瓦谷遺跡の出土地へ立ち寄る。松本豊胤さんは、善光寺周辺の青銅器出土地について「大池の周辺部からは銅鐸二口、銅剣・鉾など十五点という多数の青銅器が出土し(中略)そしてそれぞれの出土地点が弘田川の水源地帯を占拠していることも注目される」と書いている(※松本豊胤 1978「香川の池」『池』社会思想社)。瓦谷遺跡からは銅鐸は出土していないものの、中細銅剣5、広形銅剣2、中細銅矛1が一括出土した。大麻山北麓の緩傾斜地-標高100m付近で現地には史跡標注が立っている。出土地点の東側には小尾根が伸び、池もあり谷地形状をなしている。現在京博所蔵(元多和文庫蔵)となっている大麻山銅鐸は瓦谷遺跡からみて大池の対岸-北原シンネバエ出土の一口とする説もあるらしい(写真2は瓦谷遺跡からみた我拝師山、中央が大池、北原銅鐸出土地は写真右我拝師山から伸びる低丘陵)。

Photo_2東奈良遺跡(大阪府茨木市)で石製鋳型が出土したことで有名な我拝師山銅鐸は、瓦谷遺跡などのある大池の北側にそびえる我拝師山の北麓から出土している。1965年開墾時に銅鐸が出土した地点(C地点)は現在ミカン畑となっており、標注が見つからず場所を特定できなかったが、銅鐸出土地点の東西から平形銅剣5本(A地点4,B地点1)が出土しており、我拝師山北麓もいわゆる近接埋納地として注目される場所。同行のGさんはミカン畑で弥生土器片を見つけたがここも広義の高地性集落と重なっているらしい。水分神社や大塚池の存在から我拝師山の青銅器出土地も湧水との関係が指摘されているが(※前記松本豊胤論文、大野勝美 1994『銅鐸の谷』)、湧水だけでなくその背後の我拝師山の存在も無視できない。これは瓦谷遺跡の背後の大麻山も同様で、民俗学でいうところの「山当て」的な意識を感じる。

Photo_3高地性集落と銅鐸-讃岐の銅鐸出土地を巡って最初に感じた共通項だ。青銅器埋納地近傍には土器はおろか集落遺跡もないというのが常識のはずだが、どうも違う。讃岐の銅鐸というと有名な伝香川県銅鐸が思い浮かぶが、この出土伝承地は讃岐富士とも呼ばれる飯野山。実はここも山頂部に弥生土器散布地があるという。源氏ヶ峯の南方、三木町の白山(写真3)からも銅鐸が出土しているが、ここも山頂部に散布地、山麓丘陵上に弥生集落跡が確認されている(銅鐸は集落跡に近い見通しのきかない谷頭から出たらしい)。白山も秀麗な神奈備型の山だが、飯野山と白山の山頂部散布地は集落跡ではなく“祭祀的”な遺跡ではないかとみられている。これについては、後で松本武彦さんが興味深い説を出雲の田和山遺跡の講演会で述べられているのを知った。
>「高地に所在する祭祀遺跡で環壕を巡らせた例はまだ見つかっていないが、香川県の飯野山(讃岐富士)と白山では、山頂で弥生中期の祭祀土器がみつかっており、今後もし環壕などが発見されれば、田和山タイプの祭祀遺跡への認識は深まるだろう」

高地性集落が弥生時代祭祀とどう関わってくる遺跡なのかまだわからないが、従来言われてきた「戦争との関係」ではない側面があることを青銅器出土は伝えているのだと思う。

Hiragatadoken帰宅後、旅行中入手したパンフ類を整理していたら「天霧城跡」のパンフの地図に「水場」のマークを見つけた(水場はどんな渇水時にも枯れたことがなく、常に岩の間から真水が湧出する場所だという)。ここは弥谷寺の平形銅剣(写真4)の出土地に当たる。弥谷寺の銅剣の出土地は厳密には特定できないし、三豊平野~丸亀平野を結ぶ峠に注目する説-いわゆる境界祭祀説-もあるようだが、弥谷寺・弥谷山との関係は無視できない。やはり「湧水」は銅鐸だけでなく、広く青銅器埋納地点共通の“キーワード”になりそうである。

参考文献
丹羽祐一・藤井雄三著 1988『高松の古代文化(市民文庫シリーズ14)』高松市立図書館
高山 剛・吉田広 1999「三豊郡三野町大見弥谷寺蔵銅剣について」『香川考古』第7号

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2008年3月 1日 (土)

長野・柳沢遺跡-「九州型」「大阪湾型」銅戈、同時に出土

Photo昨年銅鐸と銅戈が見つかった長野県中野市の柳沢遺跡の新情報。7本の銅戈のうち、1本が北部九州を中心に分布する「九州型」と判明したと長野県埋蔵文化財センターが29日に発表した(朝日新聞/08/02/29)

残りの6本の銅戈は近畿地方を中心とする「大阪湾型」。九州型と大阪湾型が同時に見つかったのも初めて。九州型のは銅戈はひときわ大きく長さ約34cm。「綾杉文」と呼ばれる杉の葉のような文様がある。

新聞報道では「九州型の銅戈が中国地方より東で出土したのは初めて」となっているが、群馬県甘楽町三ツ俣遺跡からは古墳時代の遺構からだが、北部九州型銅戈が出ている。※岩永省三1997『金属器登場(歴史発掘7)』p.110(講談社)九州の武器形青銅器のなかでも銅戈が最も東方へ拡散しているし、大阪湾型のルーツも九州型だろうから、長野で出てもおかしくないが…それにしても何が出てくるかわからない。

写真には銅鐸も写っている。どうも鈕のところが残り、鐸身の下半分は失われているようだ。

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