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2008年3月 6日 (木)

源氏ヶ峯と我拝師山銅鐸出土地

Photo1/26~27、香川県の銅鐸出土地を友人のGさんと訪れた。昨年は博物館で銅鐸ばかり見ていたが、今年はできるだけ出土地も歩こうと思っている。

源氏ヶ峯は高松市東郊-旧牟礼町牟礼、八栗寺で有名な五剣山の南東峰続き、標高217mのピーク。源平合戦の時、源義経が陣を置いたという他はそれほど目立つ山ではない。出土地までは車で行ける。途中ブッシュが激しく断念しそうになりながら、ようやく山頂北側の池(写真1)にたどり着いた。明治37年(1904)源氏ヶ峯北裏の俗称ノタバ(野田場)と呼ばれる谷間から銅鐸が出土したという-おそらく当時池はなかったと思われ、八栗寺へ通じる山道(現車道)の開通に伴い源氏ヶ峯の山頂周辺にも開墾の手が入ったのではないだろうか(源氏ヶ峯銅鐸は山麓の六萬寺の所蔵だったが、現在香川県歴博に寄託/博物館NEWS Vol.32.2007秋PDF)。池の西方谷頭付近は現在ブッシュで覆われているが人手の痕跡があり、明治の銅鐸出土はこの辺りかと思われる。付近からは弥生土器、石器(石鏃・石斧)が出土したということなので、高地性集落があったと考えられている。源氏ヶ峯山頂(写真右手)からは眺望は開けるだろうが、この谷間からは何も見えない-これも銅鐸出土地点の共通項のひとつ。

翌日、我拝師山に行く前に瓦谷遺跡の出土地へ立ち寄る。松本豊胤さんは、善光寺周辺の青銅器出土地について「大池の周辺部からは銅鐸二口、銅剣・鉾など十五点という多数の青銅器が出土し(中略)そしてそれぞれの出土地点が弘田川の水源地帯を占拠していることも注目される」と書いている(※松本豊胤 1978「香川の池」『池』社会思想社)。瓦谷遺跡からは銅鐸は出土していないものの、中細銅剣5、広形銅剣2、中細銅矛1が一括出土した。大麻山北麓の緩傾斜地-標高100m付近で現地には史跡標注が立っている。出土地点の東側には小尾根が伸び、池もあり谷地形状をなしている。現在京博所蔵(元多和文庫蔵)となっている大麻山銅鐸は瓦谷遺跡からみて大池の対岸-北原シンネバエ出土の一口とする説もあるらしい(写真2は瓦谷遺跡からみた我拝師山、中央が大池、北原銅鐸出土地は写真右我拝師山から伸びる低丘陵)。

Photo_2東奈良遺跡(大阪府茨木市)で石製鋳型が出土したことで有名な我拝師山銅鐸は、瓦谷遺跡などのある大池の北側にそびえる我拝師山の北麓から出土している。1965年開墾時に銅鐸が出土した地点(C地点)は現在ミカン畑となっており、標注が見つからず場所を特定できなかったが、銅鐸出土地点の東西から平形銅剣5本(A地点4,B地点1)が出土しており、我拝師山北麓もいわゆる近接埋納地として注目される場所。同行のGさんはミカン畑で弥生土器片を見つけたがここも広義の高地性集落と重なっているらしい。水分神社や大塚池の存在から我拝師山の青銅器出土地も湧水との関係が指摘されているが(※前記松本豊胤論文、大野勝美 1994『銅鐸の谷』)、湧水だけでなくその背後の我拝師山の存在も無視できない。これは瓦谷遺跡の背後の大麻山も同様で、民俗学でいうところの「山当て」的な意識を感じる。

Photo_3高地性集落と銅鐸-讃岐の銅鐸出土地を巡って最初に感じた共通項だ。青銅器埋納地近傍には土器はおろか集落遺跡もないというのが常識のはずだが、どうも違う。讃岐の銅鐸というと有名な伝香川県銅鐸が思い浮かぶが、この出土伝承地は讃岐富士とも呼ばれる飯野山。実はここも山頂部に弥生土器散布地があるという。源氏ヶ峯の南方、三木町の白山(写真3)からも銅鐸が出土しているが、ここも山頂部に散布地、山麓丘陵上に弥生集落跡が確認されている(銅鐸は集落跡に近い見通しのきかない谷頭から出たらしい)。白山も秀麗な神奈備型の山だが、飯野山と白山の山頂部散布地は集落跡ではなく“祭祀的”な遺跡ではないかとみられている。これについては、後で松本武彦さんが興味深い説を出雲の田和山遺跡の講演会で述べられているのを知った。
>「高地に所在する祭祀遺跡で環壕を巡らせた例はまだ見つかっていないが、香川県の飯野山(讃岐富士)と白山では、山頂で弥生中期の祭祀土器がみつかっており、今後もし環壕などが発見されれば、田和山タイプの祭祀遺跡への認識は深まるだろう」

高地性集落が弥生時代祭祀とどう関わってくる遺跡なのかまだわからないが、従来言われてきた「戦争との関係」ではない側面があることを青銅器出土は伝えているのだと思う。

Hiragatadoken帰宅後、旅行中入手したパンフ類を整理していたら「天霧城跡」のパンフの地図に「水場」のマークを見つけた(水場はどんな渇水時にも枯れたことがなく、常に岩の間から真水が湧出する場所だという)。ここは弥谷寺の平形銅剣(写真4)の出土地に当たる。弥谷寺の銅剣の出土地は厳密には特定できないし、三豊平野~丸亀平野を結ぶ峠に注目する説-いわゆる境界祭祀説-もあるようだが、弥谷寺・弥谷山との関係は無視できない。やはり「湧水」は銅鐸だけでなく、広く青銅器埋納地点共通の“キーワード”になりそうである。

参考文献
丹羽祐一・藤井雄三著 1988『高松の古代文化(市民文庫シリーズ14)』高松市立図書館
高山 剛・吉田広 1999「三豊郡三野町大見弥谷寺蔵銅剣について」『香川考古』第7号

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