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2008年3月16日 (日)

銅鐸は誰が見るためのものか

Photo先日、銅鐸の文様(鳥取県高住銅鐸の迷路派流水文)をデスクトップの壁紙にしてみたのだが、どうも調子が悪い。画面を見ていると目がチラチラしてくる。どうしたものかと逡巡していたが、辰馬考古資料館の平成13年度秋季展『銅鐸を観察する』を読んでいて次のような文章を見つけた。

「流水紋には(中略)いずれも、条線が流れる方向を辿っていくうちに目が回ってくる。それでなくとも、この紋様を凝視するだけで、目がチカチカしてくる。つまり、この紋様には幻惑作用があるのだ」

私だけではなかったのだと安心したが、PCの作業中に気分が悪くなってはたまらないので、早速壁紙を屋久島の“シシガミの森”の写真に差し替えてしまった。

後期の銅鐸は「見る銅鐸」だと言われるが、さて誰が見るものだったのだろうか…博物館や図録などの説明ではよく銅鐸を祭壇のようなものに置いてその前で巫女と思しき女性とムラ?の人々が銅鐸を拝んでいる姿が描かれているが、本当だろうか。最近出た石野博信さんの『楽しい考古学-遺跡の中で見る夢』(2007年/大和書房)でも、「(銅鐸)を壊すということは、近畿弥生社会の「カミ」を否定するということである(P.36)」とか「高倉に宿るカミ」とキャプションを入れて高床式倉庫に近畿式銅鐸を合成した写真(P.42)を掲載している。いつからか銅鐸は神様になったらしい。

シャーマンがトランス状態に入るには、音、踊り、幻覚剤などいろいろな方法があるという。銅鐸の文様に幻惑作用があるのだとしたら、銅鐸もトランス状態導入のツールのひとつとして使われたのかもしれない…この場合銅鐸は「カミと交信するための一種の呪物」に過ぎない。

参考文献・写真出典
橋本裕行2001「銅鐸に描かれた生き物たち」『銅鐸を観察する』辰馬考古資料館平成13年度秋季展(展観の栞27)
佐原眞1979『日本の原始美術7 銅鐸』講談社P.23

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