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2008年3月11日 (火)

東海派の銅鐸

2東海派(東海袈裟襷派)と呼ばれる一群の銅鐸がある。弥生中期後半、正統派六区袈裟襷文銅鐸から派生する形で様々な銅鐸群が生まれたが、東海派もそのひとつ。従来の銅鐸の文様構成ルール(横帯優先)を無視したり、例を見ない文様(木の葉文)を使用したりといった進取の精神に富んだなかなかユニークな銅鐸たちなのだ。

先日2/9野洲の銅鐸博での講演会に行く前に岐阜県博物館に寄って、飛騨・上呂2号銅鐸(レプリカ/写真1)を見てきたのだが、東海派のバリエーションの多さに少々困惑ぎみだ。今まで見た東海派銅鐸というと、田峯銅鐸や朝日遺跡銅鐸それから林昌寺銅鐸(信達鐸)がある。鯖江市新町銅鐸や明治大3号鐸も見たことがあるが、こちらは横帯分割型の袈裟襷縦横帯中央に軸突線と呼ばれる突線が入っていくグループ(まあ広義にはこのグループも三遠式成立に関係しているらしいのだが…)。東海派と呼ばれる銅鐸の中でも上呂2号は鈕の星マークといい鰭の刻み目といい一番の変わり種。最近青谷上寺地遺跡出土の銅鐸片に上呂2号とよく似た星マークがあることを知った。東海派の分布は鳥取にも及んでいたらしい。新しい意匠をどんどん導入する東海派のはちゃめちゃさは出雲型とも仮称される加茂岩倉のIII-2式にも通じるものがある。

Photo難波洋三さんは『銅鐸から描く弥生社会』(学生社/2002年)で東海派から三遠式への変遷図(図参照)をまとめているが、正直1個1個の変差が大きくてこんなに綺麗に並べていいのかと思うぐらい。こういうところが同一工房の製品=銅鐸群としてではなく「派」と呼ばれている所以なのだろう。

さて東海派は瀬戸内東部にアトリエがあったとされる「横帯分割型」と統合して三遠式になったという。三遠式のアトリエは名古屋の朝日遺跡と目されているが、それでは東海派も朝日遺跡で製作されたかというとそうでもないらしい。そもそも東海派の分布は和泉、淡路、近江、飛騨、三河と分散傾向にあり、三河・遠江に集中的に分布する三遠式とはだいぶ違う。むしろその分布は「正統派六区袈裟襷文銅鐸」から分かれた一分派と見た方がいいのではないだろうか?難波さんも東海派を新旧二つに分け、A1類製作地を近畿としA2類の段階で東海へ拠点移動したとする。進藤武さんも東海派の変遷図を作っているが、扁平鈕式~突線鈕1式前半段階に東海派の中に変化が現れるとされる。ちょうど朝日銅鐸と田峯銅鐸の辺りがそれに当たる。

Photo_2また三遠式の直接的な祖型は、フォルム、文様両面からみて田峯銅鐸(写真2)がいちおしだが、この段階(突線鈕1式)で既に三遠式の厳密な文様構成上のルールが成立している感がある(しかしいまだ三遠式の特徴である軸突線は導入されていない)。このように三遠式は交互鋸歯文の使用など文様ルールの規制がきつい型式である点が特徴とされるが、東海派の文様構成のルーズさとは相容れないものも感じる。いったい三遠式はどのような工人集団によって創作されたのだろうか?

参考文献
難波洋三 2006 「近畿式・三遠式銅鐸の成立」『古代アジアの青銅器文化と社会-起源・年代・流通・儀礼-』歴博国際シンポジウム発表要旨集
進藤武 2004 「三遠式銅鐸の成立と解体」『伊勢湾岸における弥生時代後期を巡る諸問題 山中式の成立と解体』第11回東海考古学フォーラム三重大会

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