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2008年5月

2008年5月26日 (月)

滝峯の谷銅鐸出土地-静岡県浜松市北区(旧細江町)

Photo2/23「浜松の銅鐸展」の見学の折り、「銅鐸の谷」として有名な滝峯の谷をようやく訪れることができた。以前ブログで大野さんの著書を紹介した際(07/10/30)にも滝峯の谷については書いたが、この狭い谷から7個もの銅鐸が発見されている。図(田村隆太郎2003)でもわかると思うが、長さ2.5km、幅120m程しかない浸食谷のあちこちに銅鐸が埋められている。谷奥、丘陵先端、斜面など埋納地点そのものには一見共通性がないようにみえるが、大野さんによると青粘土層(佐浜泥層)から湧き出る「湧水点」と関係があるらしい。

Photo_2滝峯の谷には、89年頃、テクノランド細江という工業団地が建設されたと聞いていたが、谷の全てが破壊されたわけではなく、工場になっているのは谷の北側で南側は比較的昔の状態を保っている。谷に入ってすぐ右手の丘陵先端は有名な「悪ヶ谷銅鐸」の出土地で道路脇に説明板が立っている(写真1)。残念ながら出土地点はミカン園造成や採土のため削られて残っていない。悪ヶ谷銅鐸の実物は東京国立博物館に展示されている。谷奥の支谷-才四郎谷では、89年に銅鐸研究家の羽間義夫さんが金属探知器で銅鐸を発見している。どんなところか非常に興味があったのだが、出土地点は「どうたく公園」という道路沿いの小Photo_3公園 として整備されている(写真2)。覆屋の下にレプリカの銅鐸で出土状態が再現されている(写真3)。現地はなんの変哲もない道路脇の斜面で特に削平されてもいない。「こんなところで?」という感じの場所だった。滝峯の谷の銅鐸出土地点には不動平、穴ノ谷、コツサガヤのように支谷に入ったところもあるが、悪ヶ谷や七曲がりのように丘陵先端や斜面もあり、才四郎谷もどちらかというと小丘陵の先端に当たる。

Photo_4遠江の中でも最多の銅鐸集中埋納地点である滝峯の谷だが、意外なことに三遠式銅鐸よりも近畿式銅鐸の出土が多い。三遠式銅鐸が衰えた後、畿内勢力によって近畿式銅鐸がこの地域に進出してきたという説(北島大輔2002)や三遠式銅鐸と近畿式銅鐸の埋納地が近接していても同じ埋納坑に埋められることがないことから両者は異なった取扱いがなされていたとする説(進藤武2002)もある。しかし滝峯の谷に限って言えば近畿式銅鐸は三遠式銅鐸と比べて新しいものではなく、滝峯の谷に銅鐸を埋めた埋納主体は同一集団と想定されることなど(石橋茂登2004)、滝峯の谷の銅鐸は、対立的図式で説明されがちな三遠式銅鐸と近畿式銅鐸の関係を再考させるものがある。滝峯の谷の入口には岡の平遺跡など同時代の集落遺跡がある。位置的にこれらの集落が銅鐸埋納に関与していたことは十分考えられるが、残念ながら調査が進んでいない。

Photo_5滝峯の谷見学の最後に滝峯不動(写真4)を訪れた。ここは銅鐸出土地点ではないが、小さな滝-「湧水」が祭祀の対象となっている。ここの湧水はいかなる干ばつでも涸れたことはないという。滝峯の谷の銅鐸について「水のマツリ」との関係を指摘したのは大野さんが最初と思いきや、今回、辰巳和弘さんが1982年『日本の古代遺跡 1静岡』(保育社)P.212で「こうした埋納地の共通性は、銅鐸が水に関する祭器であること、川神や水神をまつる農耕儀礼に使われた祭器であり…」と書かれているのを知った。辰巳さんは引佐町の天白磐座遺跡など古墳時代・井伊氏による水(井泉)の祭祀の研究で知られるが、銅鐸についてはその後何故か言及されていない。滝峯の谷の祭祀が古墳時代には場所を都田川北側の井伊谷に移して続けられたのだろうか?

参考文献・図版出典
北島大輔2002「弥生青銅器の生産と流通-伊勢湾沿岸を舞台として-」『川から海へ1-人が動く、モノが運ばれる-(平成14年度秋季特別展図録)』一宮市博物館
進藤武2002「近畿式銅鐸と三遠式銅鐸」『銅鐸から描く弥生時代』(佐原真・金関恕編/学生社)
田村隆太郎2003「滝峯の谷にみる銅鐸埋納と祭祀-銅鐸の出土状況・埋納姿勢の復元とその傾向-」『静岡県考古学研究』No.35
石橋茂登2004「東海地方の突線鈕式銅鐸について」『八賀先生古希記念論文集』三星出版

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2008年5月20日 (火)

大福遺跡の破砕銅鐸

Photo昨年暮れに奈良県桜井市脇本遺跡で銅鐸片が出土し「リサイクル工房か?」とニュースとなったが、今度はすぐ近くの大福遺跡でも「銅鐸片」が鋳型やフイゴなど鋳造関連遺物と共伴した。旅行していてニュースを知ったのは連休明けのこと、ちょっと遅くなったがやはりブログで取り上げないわけにはいかない話題である。
「銅鐸リサイクル」の跡、国内2例目 奈良で破片や鋳型(2008/4/30 朝日新聞)
銅鐸片出土、リサイクル用に壊す? 奈良・大福遺跡で見つかる(2008/4/30 産経新聞)

今回の調査区では、弥生時代中期中頃の方形周溝墓群の間に弥生時代後期(1世紀後半~2世紀中ごろ)の溝が4本あり、そのうち1本からは、溝が埋没した後に掘られた深さ3mほどの土坑が2ヶ所あった。銅鐸片が見つかったのはこの土坑からで、銅鐸片は5.9cm×4.6cm、厚さ2mm程。銅鐸の鐸身部分の一部で、壊されたときについたような歪みがあるという。同じ土坑から、炉に差し込む送風管の一部、鋳型外枠片2個も出土していることから、銅鐸片を別の青銅製品に再利用していた可能性があるとみられている。

今回の銅鐸片で重要なポイントは4点。
・一つ目は破砕銅鐸の事例の少なかった奈良県で纒向、脇本に続いて見つかったこと。
・しかも、青銅器鋳造関連の遺物と伴出したこと。
・三つ目は埋められた年代がわかる事例であること。
・そして四つ目は大福遺跡からは埋納された銅鐸が見つかっていること。
特に大福遺跡では、完形銅鐸の埋納年代と銅鐸片の埋没年代が弥生後期後半とほぼ一致している点が興味深い。

銅鐸片の写真を見たが、今回も脇本遺跡同様、5cm角に割られた形状。このような形の破片を“久田谷型”とでも呼びたいが、原材料として再利用しやすいように、小さなスラブ・ビレット状にされたのだろう。突線が2本みえるがこれだけでは後期の銅鐸であることがわかるだけで詳しい型式までは判別できない。ただし突線の幅などから考えると、中型クラスの銅鐸ではないので-近畿式の新段階(突線鈕4・5式)とみられる。

Photo_2完形銅鐸の方は1985年に大福小学校建設予定地の発掘現場から出土した。こちらも方形周溝墓(2号墓)の溝底近くに銅鐸埋納坑が掘られていた(図版)。遺構の切り合い関係から方形周溝墓は弥生時代後期よりも新しい時代に造られており、銅鐸の埋められた時期の上限は弥生時代後期となる(もう少し絞り込むと2号墓周溝の出土土器から弥生時代後期中頃~終わり頃以降)。2号墓に隣接する1号墓の周溝からは古墳時代前期初め頃の土器が出ているので、弥生時代後期の終わり頃~古墳時代前期初め頃にかけて、2号墓→銅鐸埋納坑→1号墓の順になるという。

完形銅鐸は以前のブログ(2007/10/03)でも紹介した通り、難波洋三氏によると、突線鈕1/2式の「大福型」と呼ばれる銅鐸で、製作時期は弥生時代中期末~後期初め。完形銅鐸は弥生時代後期後半まで使用されて方形周溝墓底に埋納、銅鐸片の方は弥生時代後期後半に作られ、比較的短期間で破壊され他の青銅器に改鋳されたらしい。

破砕銅鐸については、弥生時代の終わり(古墳時代の初め?)に銅鐸を奉ずる人々が征服され(もしくは宗教の一大変革が起こり)、埋納された銅鐸も含め強制的に回収、破壊され、銅鏡など新たな青銅器の原料として鋳つぶされたという説が書籍やネット上などあちこちで真しやかに語られている。このような“銅鐸の最期”は古くは原田大六氏や森秀人氏によって提唱されたもので、古代史ファンにとっては魅力的なストーリーなのだろう。
はたして真実はどのようなものだったのか…上記説の信奉者らは今回の大福遺跡における銅鐸片と完形銅鐸の埋納年代の一致をいかに解釈するのだろうか?

図版出典
萩原儀征1990「大福遺跡の出土銅鐸」『銅鐸講演会記録集(八尾市跡部銅鐸出土銅鐸特別公開記念)』(財)八尾市文化財調査研究会

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2008年5月 1日 (木)

貨幣博物館テーマ展「2500年の伝統と技 -中国の鋳銭技術-」

Photo先日の4/27 貨幣博物館で「2500年の伝統と技 -中国の鋳銭技術-」 (2008/3/13~4/27開催)を見学してきた。
弥生青銅器に興味を持ちはじめてから、その原料とも推定されている中国の銅貨についてもいくつか参考文献を読んでいたが、春秋戦国~魏晋南北朝までの鋳型などが展示されると聞いて興味がそそられた。展示はささやかなものだったが、小さな展示ケースに時代別に鋳型と銭貨がわかりやすく展示されていた。

Photo_3貨幣の鋳型というと、富本銭などの枝銭(写真1)がすぐ思い浮かぶが、中国では前漢代に「畳鋳式」と呼ばれる何枚も鋳型を縦に重ねて中央を貫く湯口から銅を流し込む方式が開発されている。これに対し、枝銭と呼ばれる鋳型は「縦式」という(写真2)。
また展示をみて気づいたのだが、春秋戦国~秦代までは「石の鋳型」だが、前漢に入ると“原母笵”を原型にして、粘土で鋳型を作成している。これによって一つの原型から複数個の鋳型を作成できるようになった。漢代に作られた銭貨はなんと260億個というが、多量の銭貨需要にも驚くが、その需要に応えた技術が「同一原型から複製を作る土の鋳型」だったわけだ。
魏晋南北朝以降、鋳型が発見されなくなるのは「土の鋳型」→「砂型」へ移行したためと考えられている。この辺りは他の青銅器の鋳造技法の変遷を考える上でも興味深い。原母笵も出土しないところをみると、精巧な原母笵を作らないで鋳型を複製する方法-銅貨の実物を原型にするようなやり方が想定されるのだろう(鏡でいう踏み返し)。

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