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2008年6月

2008年6月27日 (金)

メトロポリタン美術館の銅鐸解説

Photo_8メトロポリタン美術館HPの説明文を訳してみると…

ベル(銅鐸), 弥生時代後期(ca. 紀元前4C-紀元3C), 1-2C
日本
青銅; 高さ43 1/2 in.(109.2cm)
ロジャース基金, 1918 (18.68)

(この銅鐸は)弥生時代後期に作られたもの。“銅鐸”と呼ばれる日本特有の青銅ベルは馬や家畜に付けたより小さい韓国の小銅鐸を起源とすると考えられている。この銅鐸は知られている中で最もすばらしいもののものの1つで、1814年に兵庫県三日月町下本郷(原文はShimogoは誤記)で見つけられたと現在信じられている。水平なバンドの列が中央で縦の列によって分割されている状態(袈裟襷文)で、円錐の上部を切ったように形成されたボディー(鐸身)が飾り付けされている。精巧な出縁(鰭)は、のこぎり歯デザイン(鋸歯文)でいっぱいにされ、飛び出した渦巻き(双頭渦文飾耳)でさらに誇張され、(鐸身の)両側に沿って伸び、先端(鈕)はアーチ状に渡されている。

銅鐸の最初の発見記録は西暦662年に滋賀県の寺で見つかった。高さ4-51インチ(10-130cm)の範囲で、400以上の銅鐸が今日知られている。 大部分は京都-奈良の地域から出土している。 初期のベル(銅鐸)は砂岩の鋳型で作られ、小さくて、厚い。舌か棒で打たれると、あるものはガラガラと音を出す。 他のものは舌を中に吊り下げている。 後の、より大きくて、より薄いベルは、より精緻な細部を再現するため粘土製の鋳型で作られた。大きい方が機能的であったという証拠は全くない。それらは純粋に儀式的な物であったと考えられる。

銅鐸は単独で(あるいは)2個ペアで、そして(まれに)大きなグループ(大量埋納)で、時折-青銅の鏡や武器といっしょに-埋められている。(銅鐸は)孤立した場所や、しばしば丘の上に埋められている。それらは墓や集落の近くで発見されたことがない。それらの置かれた状態(埋納状態)は、それらが個人によって所有されたというよりむしろ共同体の財産であったことを示唆している。これらのベル(銅鐸)の埋葬(埋納)の論理的な根拠については、それらが共同体の農業肥沃(豊作)を保証するための儀礼の一環だったと推定されることが多いが、不明瞭なままだ。

「銅鐸の大部分が京都・奈良で出土している」というのは「近畿を中心に分布している」ことの誤解だと思われるが、短い文章の中で、銅鐸の発見、大きさと数、銅鐸の変遷、鋳型の違い、埋納状態や埋納場所とその目的など、おおむね日本での学説がちゃんと理解されているようだ。

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2008年6月26日 (木)

海外美術館の銅鐸(米国編)

インターネットで検索してみると、海外の美術館で展示されている銅鐸を見ることができる。米国編、欧州編にわけて検索された20例程を紹介したい。

Photo_4まずは米国から。なんと10箇所もの美術館に日本の銅鐸が所蔵されている。

メトロポリタン美術館 (The Metropolitan Museum of Art)
高さ1mを越える近畿式の巨大な銅鐸(写真1)、双頭の飾耳をつなぐ連結部が付くタイプ。この形の飾耳を持つ銅鐸は珍しく天理大所蔵銅鐸など5点程しかない。最近天理大の置田雅昭さんの研究によって兵庫県佐用郡三日月町出土の銅鐸と判明した。
銅鐸のページ


Photo_3ボストン美術館
(Museum of Fine Arts, Boston)
仁徳天皇陵出土品も所蔵するボストン美術館だが銅鐸もしかっり持っている。大阪市大淀区長柄出土の銅鐸と伝えられるもの(写真2)。扁平鈕式~突線鈕式への過渡期の銅鐸で、近畿式の祖型。
銅鐸のページ





Photo_5クリーブランド美術館 (The Cleaveland Museum of Art)
高さ97.8cmで三遠式銅鐸の中では最大級の銅鐸(写真3)。島根県埋文センターの銅鐸地名表には載っていないが、『考古資料大観』第6巻(2003年/小学館)には写真あり。
銅鐸のページ
展示室写真出典



S_2サンフランシスコ・アジア美術館 Asian Art Museum of San Francisco)
こちらは近畿式銅鐸で、滋賀県野洲市の大岩山明治14年出土銅鐸の一つと推定されている(写真4)。この銅鐸は野洲市の銅鐸博物館にレプリカがある。
展示室写真出典



Photo_6ロサンゼルス・カウンティ美術館 (Los Angeles County Museum of Art)
伊藤若冲など江戸絵画のコレクションで有名なブライスコレクションの一つ。メトロポリタンの近畿式銅鐸に似ている(写真5)。破損しているが、海外流失銅鐸の中では大英博物館所蔵銅鐸と並んで最大級(109.2cm)。展示室の様子(写真7下↓)だとガラス越しではなく、かなり近づいて観察できるようだ。大阪府高槻市の天神山出土銅鐸と伝えられている。
銅鐸のページ
展示室写真出典



S_3ピーボディ・エセックス美術館
(Peabody Essex Museum)
扁平鈕式の六区袈裟襷文銅鐸。堺市博の浜寺銅鐸などに似ている。美術館HPの写真(写真6)は何故か上半分だけ。




島根県埋文センターの「銅鐸出土地名表」や『考古資料大観』第6巻によると、ミネアポリス美術研究所ウースター美術館シアトル美術館にも銅鐸があるとされるが、美術館HPの日本コレクションの紹介ページには掲載されていなかった。またワシントン・スミソニアン, フリーア美術館&アーサー・M・サックラー美術館にも所蔵されているようだが、こちらもHPの蔵品検索では詳細はわからなかった。

Photo_7米国に流失した銅鐸は巨大な突線鈕式の銅鐸が多い。幸いこれらの銅鐸は日本コレクションの目玉として常設展示されているものも多く、見学することができるが、おそらく古美術商などを介して売却され、海外コレクターに秘蔵されている銅鐸はもっとあるのではないだろうか?米国の主要な大都市の美術館には銅鐸があるようで、アメリカ人にも銅鐸は人気があるらしい?。英語では銅鐸は「dotaku」もしくは単に「bell」、「ritual bell」「ceremonial bell」(=儀式用のベル)などと表記している。

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2008年6月22日 (日)

恩智銅鐸出土地-大阪府八尾市

D10000073/9八尾市の恩智銅鐸の出土地を訪れた。

AM中、八尾市歴史民俗資料館で跡部銅鐸と恩智都塚山の銅鐸を見て、PM、現地へ向かう。恩智の銅鐸出土地は生駒山系から舌状に突き出した小丘陵-垣内山で標高は97~123m(写真1/写D1000012 真中央の家の背後が出土地)。現在安養寺の毘沙門堂背後の97mピークに「銅鐸出土之山」の石碑(写真2)が立っているが、ここは出土地ではない。1921年(大正10)の出土地点は安養寺の背後-垣内山の北側斜面とされる。

梅原末治『銅鐸の研究』によれば、「山の尾の北西端に大師堂がある。堂から東へ13間(25m)で山腹の上部に山崩れのある部分に達するが、それが鐸の発見地点なのである」と書かれている。現在、大師堂(標高約80m)の東へ小径が続いているが山崩れの痕跡は既にない(写真3)。小径は垣内山の北側の谷奥まで伸びて、谷奥には井戸がある。恩 智垣内山では、1949年(昭和24)にも銅鐸が発見されている。こちらは都塚山銅鐸と呼ばれているが、大正の出土地点と同じ丘陵の尾根続きの123mピーク(ここが都D1000015塚山か?)から少し北に下った地点らしい。正確な地点は今回確かめられなかったが、垣内山の北側の谷を東へ40m程登った地点に当たる。恩智の銅鐸出土地は、同じ丘陵の少し離れた地点から銅鐸が出土した「近接埋納」の事例として注目される。垣内山には発見されずまだ眠っている銅鐸があるかもしれない。

Photo近鉄恩智駅への帰りに「天王の杜」に寄った。ここは弥生中期を中心とする恩智遺跡のあった場所で、銅鐸発見当初から銅鐸埋納と関連がある集落と推定されている。確かに天王の杜から垣内山を見ると、生駒山系をバックに垣内山が三角形の形で浮かび上がって見える。集落と垣内山の距離は約500m。天王の杜から見て気づいたのだが、銅鐸の埋納地点そのものは集落からはちょうど山の影になり見えない。銅鐸埋納地点は眺望がよくない場所-眺望がよい山であるにもかかわらず、あえてよくない地点を選んで埋めている-ことが多いが、恩智の場合、さらに集落から見えない場所という理解ができる。集落から仰ぎ見る山の集落から見えない地点に銅鐸を埋める-埋納行為の謎を解く鍵の一つかもしれない。

垣内山の南側の大きな谷の奥には式内社「恩智神社」があるが、元の鎮座地は天王の杜だという。

参考文献
梅原末治1937『銅鐸の研究』

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2008年6月18日 (水)

鈴鹿市磯山銅鐸(三重9, 外縁付鈕2式, 4区袈裟襷文, 39.4cm)

Photo_2東京国立博物館では半年毎に常設展示を入れ替えているが、6/10~磯山銅鐸が展示されている。

外縁付鈕式の2式(II-2式)に分類され、三対耳四区袈裟襷文と呼ばれるデザイン。袈裟襷の内区には四頭渦文が配され、その周囲に動物が描き込まれている。猪列が身裾にも描かれているらしいが、判別が難しい。

四区袈裟襷の縦帯が横帯に優先していて、通常の銅鐸のデザインルールを守っていない。四頭渦文は1本の線で描かれたものと二重線で構成されているタイプの両方あり。

鈕は兜型で菱環部が幅広く緩やかな傾斜を持っていて、菱環部に渦巻文を描く。鈕の外縁、鰭共に鋳上がり悪く、文様が不鮮明で鰭に鋸歯文があるかどうか不明。耳は2個セットで形はクリップ状、A面(写真)右では内部に綾杉文がある。鈕の左右にも2箇所耳がある。

鋳型がB面が左上方に若干ズレており、その影響かA面右の鰭の身と接する部位に膨らみがある。鈕の舞と接する部分は凹みがあり、舞も型持穴の周囲を除いて凹みが激しい。これは石製鋳型の特徴。身裾にシワ状の傷があるが、これも内面突帯の影響か?。

型持孔は円形、裾の型持孔は小さい台形。全体的に色は黒光りしている。
(08/06/14観察)

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2008年6月17日 (火)

明治大学3号銅鐸(不明22, 突線鈕1式, 4区袈裟襷文, 41cm)

3明治大学博物館に常設展示されている3個のうちの一つ。

横帯分割型(瀬戸内渦巻派)では珍しい四区袈裟襷文だが、中央横帯の斜格子と連続渦文の間に2本の軸突線が入る。ちょうど扁平鈕式から突線鈕式への移行が始まった最初の銅鐸として、編年研究上、重要とされている。突線は横軸のみ3箇所で、縦軸はなく、その他の界線は複線。突線は鰭まで及ばない。身上縁の突線は2本、下辺横帯下の突線は3本。

残念ながら出土地不明。破損の状態から、A面(写真)の右側鰭を上にした埋納位置が推定される。B面の破損が著しい。

渦巻きは二重の線が中心部でつながるタイプ。1段、2段は8個 3段目は中央部の鋳上がり悪く正確な数は不明。全体的に鋳上がり悪く文様が不鮮明な箇所が多い。

鈕のデザインは扁平な菱環部の外側に広い綾杉文帯が付き、外周は鋸歯文。型持穴は円形で裾の型持は太い長方形。破損孔から見た内面突帯は蒲鉾型で1本巡る。

全体のフォルムはかなり扁平(66%)で、横方向からみると身の上半部が若干内湾する。また3段目の横帯でB面が若干上方にズレる。
(08/06/14観察)

銅鐸観察ノートも2冊目となったので、ブログに観察所見を残すことにした。
タイトルのデータは島根県埋文センターの銅鐸出土地名表による。

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2008年6月10日 (火)

第60回銅鐸研究会「高地性集落からみた弥生社会と銅鐸」

引き続いて銅鐸関連イベントのニュース。野洲市の銅鐸博物館(歴史民俗博物館)で恒例の銅鐸研究会が今月末の6/28に開催される。

今回は森岡秀人さんが講師。高地性集落の付近には何故か銅鐸の出土が多い。最近の調査では高地性集落自体からも銅鐸片が出土している事例(四日市市)もある。森岡さんの高地性集落研究と銅鐸…どんなお話になるか今から楽しみ。

第60回銅鐸研究会
日時:平成20年6月28日(土)14:00~16:00 
演題:「高地性集落からみた弥生社会と銅鐸」  
講師:森岡秀人氏(芦屋市教育委員会)

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国宝指定記念特別陳列「加茂岩倉銅鐸の世界」

Kamoiwakura加茂岩倉銅鐸が国宝に指定されるのを記念した企画展「加茂岩倉銅鐸の世界展」が島根県立古代出雲歴史博物館で開かれている。先月末~バタバタしていてすっかり忘れていた。常設展では照明を暗くした部屋で神秘的な雰囲気の中で展示されているので、残念ながら細かい文様などが観察しづらい。会場の写真を見ると銅鐸1個ずつが明るい部屋で展示されている…銅鐸観察にはうれしい展示。会期は5/31~7/6まで

関連イベントとして、下記の講演会とツアーが企画されている(聴講無料だが、事前予約が必要)
6/15(日)連続講座1「加茂岩倉銅鐸発見の意義」奈良文化財研究所 難波洋三氏(古代出雲歴史博物館講義室/100名)

6/22(日)連続講座2「加茂岩倉銅鐸の保存修復」奈良文化財研究所 肥塚隆保氏(古代出雲歴史博物館講義室・先着100名)

遺跡探訪バスツアー「青銅器出土地を訪ねて」6/8(日)、7/6(日)

中国新聞(08/6/1)

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2008年6月 8日 (日)

速報写真グラフ「北信濃 柳沢遺跡の銅戈・銅鐸」発刊

Photo先月26日の考古学協会の大会で、長野県柳沢遺跡の銅鐸・銅戈のグラフ本「北信濃 柳沢遺跡の銅戈・銅鐸」が販売されていたので早速購入。発掘の成果については第二会場でも長野県埋文センター職員の上田典男さんが発表されていた。

今回知ったこととして、
・銅戈の向きが同じ方向(青銅器の埋納ではよく互い違いにしていることがいる)
・銅鐸はユンボで掘削された際、壊されてしまったらしい(現在、排土をフルイにかけて銅鐸片を探している)
・埋納年代は覆土の時期より、弥生中期~後期中と少し幅を持って想定されている(銅戈の年代が銅鐸より新しい)
・九州型銅戈の柄の部分に鉤文様が鋳出されている(鉤文様は九州の土器や青銅器に多い)
・埋納地点は千曲川に支流が流れ込む場所で弥生時代の水田が近接する。

長野県歴史館での特展は終了したが、7/10~8/3に今度は長野県伊那文化会館(長野県の遺跡発掘2008)で公開されるらしい。

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