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2008年6月22日 (日)

恩智銅鐸出土地-大阪府八尾市

D10000073/9八尾市の恩智銅鐸の出土地を訪れた。

AM中、八尾市歴史民俗資料館で跡部銅鐸と恩智都塚山の銅鐸を見て、PM、現地へ向かう。恩智の銅鐸出土地は生駒山系から舌状に突き出した小丘陵-垣内山で標高は97~123m(写真1/写D1000012 真中央の家の背後が出土地)。現在安養寺の毘沙門堂背後の97mピークに「銅鐸出土之山」の石碑(写真2)が立っているが、ここは出土地ではない。1921年(大正10)の出土地点は安養寺の背後-垣内山の北側斜面とされる。

梅原末治『銅鐸の研究』によれば、「山の尾の北西端に大師堂がある。堂から東へ13間(25m)で山腹の上部に山崩れのある部分に達するが、それが鐸の発見地点なのである」と書かれている。現在、大師堂(標高約80m)の東へ小径が続いているが山崩れの痕跡は既にない(写真3)。小径は垣内山の北側の谷奥まで伸びて、谷奥には井戸がある。恩 智垣内山では、1949年(昭和24)にも銅鐸が発見されている。こちらは都塚山銅鐸と呼ばれているが、大正の出土地点と同じ丘陵の尾根続きの123mピーク(ここが都D1000015塚山か?)から少し北に下った地点らしい。正確な地点は今回確かめられなかったが、垣内山の北側の谷を東へ40m程登った地点に当たる。恩智の銅鐸出土地は、同じ丘陵の少し離れた地点から銅鐸が出土した「近接埋納」の事例として注目される。垣内山には発見されずまだ眠っている銅鐸があるかもしれない。

Photo近鉄恩智駅への帰りに「天王の杜」に寄った。ここは弥生中期を中心とする恩智遺跡のあった場所で、銅鐸発見当初から銅鐸埋納と関連がある集落と推定されている。確かに天王の杜から垣内山を見ると、生駒山系をバックに垣内山が三角形の形で浮かび上がって見える。集落と垣内山の距離は約500m。天王の杜から見て気づいたのだが、銅鐸の埋納地点そのものは集落からはちょうど山の影になり見えない。銅鐸埋納地点は眺望がよくない場所-眺望がよい山であるにもかかわらず、あえてよくない地点を選んで埋めている-ことが多いが、恩智の場合、さらに集落から見えない場所という理解ができる。集落から仰ぎ見る山の集落から見えない地点に銅鐸を埋める-埋納行為の謎を解く鍵の一つかもしれない。

垣内山の南側の大きな谷の奥には式内社「恩智神社」があるが、元の鎮座地は天王の杜だという。

参考文献
梅原末治1937『銅鐸の研究』

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