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2008年7月

2008年7月23日 (水)

弥生時代の考古学7『儀礼と権力』

Photo_2先週本屋で下記の本見かけ、ちょっと高かったが衝動買いしてしまった。

設楽博己・藤尾慎一郎・松木武彦編 『弥生時代の考古学7 儀礼と権力』 (2008年5月/同成社)

全9巻でこれから隔月で刊行されるシリーズの第一回配本

辰巳和弘さんの「水と井戸の祭り」、
石村 智さんの「威信財交換と儀礼」、
吉田 広さんらの「青銅祭器の対立構造」、
大久保徹也さんの「儀礼の場としての墳丘墓と古墳」など
新進気鋭の若手研究者の面白そうな題名の論文ばかり…

特に水の祭祀研究で有名な辰巳さんが「銅鐸と水神」について初めて詳論されている。
これまで境界祭祀や穀霊祭祀一辺倒だった銅鐸祭祀論。
「水神祭祀」説が見直される契機となるかどうか… 

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企画展「土佐発掘物語II-謎!弥生時代の青銅器 発見と発掘-」

Photo7/18~高知県立歴史民俗資料館で弥生青銅器の特別展がはじまった。

企画展「土佐発掘物語Ⅱ―謎!弥生時代の青銅器 発見と発掘―」
             
2008年7月18日(金)~8月31日(日)
弥生時代の銅剣・銅矛・銅戈・銅鐸・銅鏡の発見と発掘の歴史についてみてみたいと思います。江戸時代の人は、青銅の銅鐸を発見してどのように感じたのか、そんな心の中ものぞいてみます。重要文化財の展示も予定しています。

会期中、講演会も開催される。 
・講演会 要申込、先着100名
8月2日(土)14:00~16:00
吉田広氏(愛媛大学准教授)「青銅器発見物語―出雲荒神谷から信濃柳沢、そして土佐の青銅器―」 
・れきみん講座 要申込、先着100名
8月9日(土)14:00~15:30
学芸課長 岡本桂典「土佐考古学史II」
・展示室トーク
7月26日(土)8月16日(土)13:00~14:00

高知県立歴史民俗資料館
〒783-0044 南国市岡豊町八幡1099-1
Tel:088-862-2211

土佐の青銅器というと、西からの広形銅矛、東からは近畿式銅鐸という東西の青銅器文化が対照的な分布をしている地域として注目されている。さすがに総出土数51本といわれる銅矛関係の展示が多い。土佐の銅鐸が一堂に並ぶかと期待したが、銅鐸関連では、土佐町の琴平神社の銅鐸が町外では初の公開となる(高知県の銅鐸は10個出土しているが大半が行方不明か県外流出しており、県内に残るものも神社の神宝となって非公開のものばかり)。

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2008年7月19日 (土)

「高地性集落からみた弥生社会と銅鐸(森岡秀人氏講演会)」

Photo6/28の銅鐸博物館での森岡秀人さんの講演会について、興味深い内容だったので紹介しておきたい。

森岡さんといえば弥生時代の研究者として有名な方だが、最近は大阪城の石切場調査なども手がけており、地元芦屋市で調査対象となった遺跡や遺物に対して果敢に挑戦を続けられている。ご本人は「人間活動に興味がある」と至って冷静だが、専門外の分野でも専門家になってしまう希有な考古学者。

森岡さんは地元芦屋市の会下山遺跡の調査にたずさわったことから「高地性集落」を専門分野の一つとされているが、今回のテーマである「高地性集落と銅鐸」という題名の論文を1975年(森岡さんが弱冠23才の時)に地元の考古学研究誌『芦の芽』に書いている。

東六甲山系に銅鐸が集中して見つかっていることはよく知られているが、森岡さんは75年の論文で以下のように指摘されている。
「銅鐸の埋納は必ずしもその銅鐸の祭祀圏内で行われたとは限らない。むしろ銅鐸の製作地-使用場所-埋納地の相互の関係は遠隔地の場合の方が多いのではないか」

当時は銅鐸が各集落に1個ずつあるというような考え(埋納地点=銅鐸所有集落の近傍)が一般的であったので、森岡さんの指摘は斬新な問題提議だった。その後「遠隔地埋納」「境界埋納」論は春成秀爾さんや酒井龍一さんも主張され、80年代の銅鐸論の新しい潮流となっていくが、そのオリジンは森岡論文だったことを知った(春成さんは森岡論文を絶讃されたが『芦の芽』がガリ版刷りだったことから正式な論文とは認められないとされたそうだ。そういえば78年の春成さんの「銅鐸の埋納と分布の意味」『歴史公論』4-3の註・参考文献には森岡論文が載っていない。いかがなものだろうか…)

30年経ったいま、森岡さんがどのような銅鐸論を展開されるのか興味津々だったが、考え方自体は基本的に75年論文と大きく変わっていない。森岡さんは小林行雄さんや田中琢さんに代表される従来の考え方は銅鐸の祭祀圏の中に製作地も埋納地も含まれるという考えであり、大量・集中埋納については各集落の統合の結果として集められたと解釈していた。75年論文はそれに対する懐疑論として書いたという。

Photo_2東六甲(地図1)と和歌山(地図2)の銅鐸分布と集落の関係を例として説明し、高地性集落と銅鐸埋納地の立地が似ていること、また時期の点でも重なるとされる。ただし、高地性集落の眺望の良さに対して、銅鐸埋納地は尾根筋から下がった眺望の悪いところが多い。ただし埋納坑の地点からの眺望はよくないが少し離れるとよい場合も多いと指摘されていた。

時期について、高地性集落も銅鐸埋納も、(1)中期後半(中期末)と(2)庄内期の前(後期末)の二つの時期に集中すると言われているが、森岡さんは(1)の画期としては中期末ではなくむしろ後期初頭(紀元1世紀第1四半期末)が重要だとする。

詳しい説明は時間の関係でなかったが、森岡さんは複数埋納銅鐸の伴出パターンについて、A~Jの9つに分類し、EとF間に大きな断絶があり、それが「聞く銅鐸(~突線鈕1式)」→「見る銅鐸(突線鈕2式~)」に相当するという。また発掘によって出土した銅鐸の埋納時期の暦年代観からも後期初頭の再評価を促された。

また六甲山系の高地性集落では、河内の土器(チョコレート色)が出ており、高地性集落の性格は閉鎖的なものではないとされる。会下山の場合、河内系3%、田能(猪名川)10%もあることや外来系文物の先取り(先導性)から高地性集落の“市場”的側面が窺われるという。

また近江系の土器や文物の移動と高地性集落の東海地方での出現、中国地方で突線鈕銅鐸と高地性集落が消滅という東西の動きは互いに関係があり、V-1期=後期初頭に当たると指摘する。関東・北陸では、高地性集落の跡地に前期古墳が造られる事例が多く、「高地性集落の出現と廃絶・青銅器祭祀の盛行と終焉・古墳の出現-これらのタイムスパンが東に行くほど短くなっていく」という言葉は印象的だった。

この辺りの動向を森岡さんの論考から抜粋すると、
「旧銅鐸群およびそれらと組成する機会のあった武器形青銅器が埋められたことを契機として高地性集落や丘陵性集落が急増したり、より盛行する地域が確かに存在する。大量埋納遺跡を有する摂津の六甲山系や出雲の宍道周辺の丘陵はその典型例で、集落の結合単位に大きな変動をきたし、古い青銅器群の埋棄を誘致するとともに社会構造が刷新されたことと連動する…」(森岡秀人2004a p.184)

「二世紀後半に起こった倭国大乱は、その行き着くところに生じた鉄争奪戦の内容を根底に備え、三世紀には東国弥生社会を終焉へと向かわせるエネルギーとなって東伝する。高地性集落分布の重心もそれを教えるように、北陸へ、北関東へと移動している…」(森岡1993 p.38)

Photo森岡さんは講演の最後の方で、埋納=抜魂の儀式という「新説?」を少し披露されていたが、これはちょっと?という感じだ。「抜魂」とは普通、仏像や墓石などを移動や修理する際に行う儀式のこと。森岡さんによると、ここでいう魂というのは“霊力”というような意味のようだが、近畿中央部の大集落でマツリをやって、銅鐸に魂を入れそれを遠隔地(例えば和歌山南部)に運んで、そこで魂を抜いて地中に埋めるとの説明だった。あくまで祭祀主体は近畿中央の勢力で遠隔地の集落所在地は祭祀の場所ではないということのようだ。高地性集落の人々は銅鐸埋納に関与はしたけれども、銅鐸を所有し祭祀を行った主体ではないと考える…そこには「銅鐸祭祀の主宰者は水田農耕を基調とする平地の大集落だ」とする根強い見方がある。

青銅器の遠隔地への埋納の意義に関しては最近の論考ではこう述べられている。
「この段階は青銅器の生産管理と集中生産が行われた形跡が各地で認められるが、流通を含む統一的な差配機構や権力機関が西日本に胚胎した節はなく、祭祀形態の選択対象に応じた移動圏が生じるとともに、それが経済的性格ではなく、祭祀圏の誇示といった社会レベルで形成されたと考えられる。

この点、一概に出土地が青銅祭器を活発に受容したとは言い難く、分布地と日常の祭りに青銅器を積極的に導入した場所とは当面隔離しておくべきであろう。青銅器を全く保持していない地域に遠隔搬入された銅鐸や武器形青銅器があったことは想像されてよく、最終の分布状態の意味するところはそう単純ではない。

したがって、青銅器に対し安易に流通網の組織的形成を考えるのは危険であり、埋納を観念された土地へ各種青銅器を選別して運び込む行為にこそ共同体を越えた人々の運搬と結集を読みとらねばならない。」(森岡2004a p.184)

埋納を観念された土地=聖地というような意味だろうか?いずれにしても森岡さんの語る弥生社会は極めて呪術的なイメージがただよう。

文様・形態研究とも分布論とも違う、非常にエキサイティングな問題提起ばかりだった。

参考文献
・森岡秀人1975「高地性集落と銅鐸」『芦の芽』27
・森岡秀人1993「高地性集落は倭国大乱とどう関係するのか」『新視点日本の歴史2(古代編1古墳~飛鳥時代)』(新人物往来社)
・森岡秀人2004a「西日本における青銅器の受容と実相」『伊勢湾岸における弥生時代後期を巡る諸問題 山中式の成立と解体』(第11回東海考古学フォーラム三重大会実行委員会)
・森岡秀人2004b「銅鐸の埋納行為と弥生人」『季刊 考古学』86(特集・弥生時代の祭り)

写真・図版出典
・『特別展 弥生争乱-山のムラの謎-』(1992/芦屋市立美術博物館)
和歌山県立博物館HP-銅鐸の祭り

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2008年7月17日 (木)

椛1号銅鐸-田原市博物館夏季企画展示

Nagusa1dotaku昨日某SNWを検索していたら、1m大の破砕銅鐸の写真があった。どうも学芸員のバイトさんが書き込んでおられるようで、展示替えではじめて銅鐸に触ったとか書いてある。場所も博物館名も伏せられているが、どうも愛知県田原市の椛(ナグサ)1号銅鐸らしい。

ネットで検索してみたが、田原市博物館のHPでは下記の企画展開催の情報しかなく
展示品の詳細がわからない。

平成20年7月11日(金)~9月28日(日)
◆渥美半島の歴史 考古 - 発見の歴史
(田原市博物館:企画展示室2)
吉胡・保美・伊川津貝塚、東大寺瓦をはじめ学会に影響を与えた遺物を展示します。

電話で問い合わせしてところ、やはり椛1号銅鐸が展示されていることがわかった。この銅鐸は、雨乞山の山麓の谷-旧渥美町で圃場整備工事中に出土したもので、普段は展示されていない。昨夏、椛2号と堀山田銅鐸を見に行った時、1号は見られなかったので、今回はチャンスである。田原市博物館は渡辺華山など近世を中心とした博物館で考古資料については常設展示すらない。

ちなみに2号銅鐸は田原市渥美郷土資料館で常設展示されている。できれば出土地にも近いこちらの資料館で二つ並べて展示して欲しい…

渥美半島は銅鐸の集中地域でそれも近畿式銅鐸ばかり、また銅鐸がたくさん出ているにもかかわらず前期古墳がひとつもない…渥美半島で古墳が造られるのは後期古墳の時代からなのだ。

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2008年7月10日 (木)

桜ヶ丘銅鐸出土地-兵庫県神戸市

Photo5/6 ある研究会の打合せで神戸に行くことあり、打合せ前に近くの桜ヶ丘銅鐸の出土地に登ってきた。桜ヶ丘は1964年(昭和39)に14個の銅鐸と銅戈(大阪湾型)7本が発見された有名な銅鐸出土地。

Photo_2出土地は灘区と東灘区の境の坊主山(標高376m)から南へ伸びる支脈にある。高羽付近から見ると主峰より出土地点のピークの方が目立つ感じがする。阪急六甲からバスに乗り高羽で下車。バス停近くの陸橋の下に「国宝桜ヶ丘銅鐸・銅戈」の記念碑がある(写真2)。出土地は記念碑が立つ場所から北に1.2km程入った山中。ここから石屋川に沿って登っていくと神戸大のグランドに出る。グランド東側のマンション裏の小さな橋を渡ると山道となる(写真1)。この辺りの景観は石屋川の源流に近づいてきた趣がある。

Sここからは細い尾根上を歩いて行くのだが、真砂の風化土壌のため滑りやすく、また崖のようになっているところもあった。途中から急坂となり最初の鉄塔を過ぎると標高246.6mのピークに達する。ここにも鉄塔が立っている。地図1をみると出土地点はピークの東側少し尾根を下ったところ-240m付近らしい。現在の町名を取って「桜ヶ丘遺跡」と命名されたが、本来の山名は「神岡(カミカ)」だったという。神庭、神於山など銅鐸出土地には何故か「神」という字がついた地名が多い。

Photo_3出土地点はその後の土採りでなくなっているようだが、現在も鉄塔のあるピークの東斜面は砂地がデコボコとして草木もあまり生えておらず、土採り場であった状況が生々しく残る(写真3)。




Photo_4モノクロの写真4は銅鐸出土当時の写真だが、このピークの東側斜面全体が土採り場になっていたことがわかる。銅鐸は×印の地点から出土したという。

Gis最近吉田広さんらの「弥生銅鐸のGIS解析」を読んだ。各地の銅鐸出土地点からの眺望をGISを用いて分析されたもの。桜ヶ丘出土地点については「可視領域は、六甲山南麓の神戸市域ほぼ全域に及び、眼下に六甲山南麓の遺跡群を俯瞰的に見下ろす格好である。大量埋納であっても、荒神谷遺跡等と異なり、広い可視領域を誇る例である」と述べられているが(地図2参照)、実際に現地を歩いてみると出土地点からの眺望ははっきり言ってよくない。西側の鉄塔のあるピークとそこから東南に伸びる尾根が視界を遮ってしまう。八尾市恩智銅鐸の出土地点で指摘した「山麓からよく見える山の山麓からは見えない地点に埋納する」という埋納地のルールみたいなものがここでも当てはまりそうだ。

Photo_5確かに鉄塔のある246mピークからの眺望は吉田さんらの指摘に近いが、このピークからもどちらかというと西側の眺望が開けているが、東側は十文字山の山塊が視界を遮って、大阪湾型銅戈が出土した保久良山や生駒銅鐸出土地(神戸薬科大)は見えない(写真5)。また桜ヶ丘の足下の渦ヶ森銅鐸出土地も見えそうで見えない。お世辞にも“広い可視領域を誇る”などとは言えそうにない(※参照)。また東六甲山系の青銅器出土地が近接していながら互いに見えないというのも何か示唆的である。

東六甲山系には渦ヶ森、生駒、森など銅鐸出土地が多く、高地性集落との関係も指摘されているが、桜ヶ丘の出土地点も南に伸びる尾根上に桜ヶ丘B地点遺跡と呼ばれる集落跡が発掘調査で確認され、時期的にも一致することから出土地点と何らかの関係があることが指摘されている。

※吉田さんも上記論文の追記で、「数値地図の精度(50mメッシュ)では微妙な地形を反映できない点や実際は植生の関係で視界がより狭くなること」などを指摘されている。「埋納遺跡の性格から、埋納地点からの可視範囲よりも埋納地点を大まかに視認できる範囲の提示が適当だった」と述べられている。GIS分析の限界…現地踏査の重要性を痛感せざるを得ない。

参考文献
写真4出展:森浩一・石野博信 『[対論]銅鐸』(1994/学生社)p.15
地図1出展:『国宝桜ヶ丘銅鐸・銅戈-神戸市立博物館-』(2000)p.58
地図2出展:吉田広・増田浩太・山口欧志 2005 「弥生銅鐸のGIS解析-密度分布と埋納地からの可視領域-」『世界の歴史空間を読む-GISを用いた文化・文明研究-』(宇野隆夫編/国際日本文化研究センター)

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2008年7月 7日 (月)

復刻『荒神谷遺跡/加茂岩倉遺跡 青銅器大量埋納の遺跡』

Photo_2 島根県立古代出雲歴史博物館では、国宝指定記念特別陳列「加茂岩倉銅鐸の世界」を記念して、『荒神谷遺跡/加茂岩倉遺跡 青銅器大量埋納の遺跡』(2002年刊行)が復刊された。

ミュージアムショップで販売されている。 1冊1,000円。

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2008年7月 6日 (日)

加古川市・望塚銅鐸(兵庫8, 扁平鈕式, 6区袈裟襷文, 42.5cm)

2兵庫県立考古博の企画展「開館記念展III 光は西から-弥生人、文明との出会い-」で「望塚銅鐸」が40年ぶりに公開された。

望塚銅鐸は、扁平鈕式新段階(III-2式)の六区袈裟襷文銅鐸。瀬戸内袈裟襷正統派(正統派)と呼ばれるもので銅鐸のデザインとしては非常に多いタイプ。特徴のあまりない銅鐸だが、菱環文様帯や縦帯/横帯指数、飾耳などいくつか観察のポイントがある。

難波洋三氏によると、正統派は1a式、1b式、2式に分類される。望塚鐸は菱環文様帯の綾杉文が舞と接する部分に平行線がない点と菱環文様帯が二区構成なので、1a式となる。望塚鐸の袈裟襷文は横帯が縦帯より細い。この特徴も難波分類では1a式のもので、1b~2式になると横帯と縦帯の幅が等しくなっていくという。下辺横帯下の界線数も1b~2式になると3条から4条に増加するということなので、この点も望塚鐸は3条で、1a~1b式となる。

鋸歯文に関しては、1a式はR鋸歯文とL鋸歯文を混用しているが1b~2式になるにしたがってR鋸歯文のみとなるという。望塚鐸は全体的にはR鋸歯文使用だが、鈕の一部にL鋸歯文が認められる。また難波分類では、1a式には飾耳を持つ例はなく、3対耳が1b式~、1対耳が2式~とされるので、飾耳からみると、望塚鐸は2式となる。

望塚鐸は新旧両方の特徴を持っており位置付けが難しいが、1式~2式への過渡的な銅鐸と考えておきたい。

鋳上がりが悪いのか発掘時の破損かよくわからないが、A面左の鰭と鈕の外縁が破損している。発掘時のものだとすると、土の付着具合などからA面右鰭を下にした埋納姿勢が復元できそうだ。
(08/06/28観察)

写真出典
展示解説図録『光は西から-弥生人、文明との出会い-』(2008/兵庫県立考古博物館)p.13

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2008年7月 3日 (木)

辰馬考古資料館夏季展「なぞ解き考古学2008」

2008辰馬考古資料館は、春、夏、秋の年3回季節展を開催しているが
今年の夏は下記のような子供向けイベントが開催されている。
※春は毎年、富岡鉄齋の企画展が開催される。

なぞ解き考古学2008
6/14~8/31
館蔵品を用いたクイズ形式の展示

開館時間:午前10時~午後4時30分(入館は午後4時まで)
休館日:月曜日(但し、7/21は開館し7/22を休館日とします)
辰馬考古資料館
西宮市松下町2-28
TEL 0798-34-0130

銅鐸は4点出展されている。
袈裟襷文銅鐸(辰馬418/矢負の鹿)
袈裟襷文銅鐸(辰馬432/三重県磯山同笵品)
袈裟襷文銅鐸(辰馬423/伝 滋賀県)
袈裟襷文銅鐸(辰馬443/名東型)

辰馬考古資料館は、東京の某国立博物館と違って
毎回別の銅鐸を展示してくれるので嬉しい。

秋季展は30周年記念展「銅鐸から銅鏡へ」が開催される予定
今年は野洲の銅鐸博物館も20周年で特別展が企画されていると聞く。
秋は青銅器関係の特別展が目白押しになりそうな気配だ。

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2008年7月 2日 (水)

特別展「荒神谷の銅矛」

Photoこちらも出雲で入手した特別展情報
荒神谷博物館
夏季恒例の青銅器企画展-第三弾の今年のテーマは「銅矛」

平成20年度特別展
荒神谷の銅矛~祭器から神話へ~
平成20年7月12日(土)~8月31日(日)

特別講演会
下條信行「武器型青銅器・銅矛を考える」
平成20年7月19日(土) 午後1時30分~

井上義也・藤田三郎「東西の青銅器鋳造工房を語る」
平成20年8月23日(土) 午後1時~

参加費無料 資料代300円

荒神谷博物館   
〒699-0503
島根県簸川郡斐川町大字神庭873番地8
TEL 0853-72-9044
FAX 0853-72-7695

銅鐸とちがっていまいち人気のない銅矛だが
弥生中期~後期、銅鐸同様、祭器として、巨大化し、地中に埋納され
古墳時代が始まる前に姿を消す。
銅鐸を考える上でも銅矛は無視できない。

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2008年7月 1日 (火)

銅鐸作りイベント「輝く銅鐸を作ろう」

Photo古代出雲歴博で来月「銅鐸作りイベント」があることを知った。
最近は銅剣作り(弥生博、兵庫県考古博)や銅鏡作り(西都原考古博、岐阜市歴博)など鋳造体験のイベントが各地の博物館などで開催されるようになってきたと思っていたら、とうとう銅鐸まで!
中が中空な銅鐸は難しそうだが、うまくできるだろうか…

第45回文化財講座 いにしえ倶楽部 「輝く銅鐸を作ろう」
日時:平成20年7月20日(日) 13:00~16:30
会場:島根県立古代出雲歴史博物館 体験工房
募集定員: 40名(※先着順 定員になり次第締め切ります)
参加費: 500円(銅鐸作りの材料を当日購入していただきます)
内容:
・講座 古代の鋳造技術について解説します。
・体験 融点の低い合金を素材に、
  石膏の鋳型を用いて手のひらサイズの「銅鐸」を鋳造体験します。
  完成品は記念にお持ち帰りできます。
申し込み締め切り:7月15日(火)

問い合わせ先・申し込み先:
島根県埋蔵文化財調査センター
企画調整スタッフ 「いにしえ倶楽部」担当者宛
〒690-0131 松江市打出町33番地
電話 0852-36-8608
FAX 0852-36-8025

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