« 椛1号銅鐸-田原市博物館夏季企画展示 | トップページ | 企画展「土佐発掘物語II-謎!弥生時代の青銅器 発見と発掘-」 »

2008年7月19日 (土)

「高地性集落からみた弥生社会と銅鐸(森岡秀人氏講演会)」

Photo6/28の銅鐸博物館での森岡秀人さんの講演会について、興味深い内容だったので紹介しておきたい。

森岡さんといえば弥生時代の研究者として有名な方だが、最近は大阪城の石切場調査なども手がけており、地元芦屋市で調査対象となった遺跡や遺物に対して果敢に挑戦を続けられている。ご本人は「人間活動に興味がある」と至って冷静だが、専門外の分野でも専門家になってしまう希有な考古学者。

森岡さんは地元芦屋市の会下山遺跡の調査にたずさわったことから「高地性集落」を専門分野の一つとされているが、今回のテーマである「高地性集落と銅鐸」という題名の論文を1975年(森岡さんが弱冠23才の時)に地元の考古学研究誌『芦の芽』に書いている。

東六甲山系に銅鐸が集中して見つかっていることはよく知られているが、森岡さんは75年の論文で以下のように指摘されている。
「銅鐸の埋納は必ずしもその銅鐸の祭祀圏内で行われたとは限らない。むしろ銅鐸の製作地-使用場所-埋納地の相互の関係は遠隔地の場合の方が多いのではないか」

当時は銅鐸が各集落に1個ずつあるというような考え(埋納地点=銅鐸所有集落の近傍)が一般的であったので、森岡さんの指摘は斬新な問題提議だった。その後「遠隔地埋納」「境界埋納」論は春成秀爾さんや酒井龍一さんも主張され、80年代の銅鐸論の新しい潮流となっていくが、そのオリジンは森岡論文だったことを知った(春成さんは森岡論文を絶讃されたが『芦の芽』がガリ版刷りだったことから正式な論文とは認められないとされたそうだ。そういえば78年の春成さんの「銅鐸の埋納と分布の意味」『歴史公論』4-3の註・参考文献には森岡論文が載っていない。いかがなものだろうか…)

30年経ったいま、森岡さんがどのような銅鐸論を展開されるのか興味津々だったが、考え方自体は基本的に75年論文と大きく変わっていない。森岡さんは小林行雄さんや田中琢さんに代表される従来の考え方は銅鐸の祭祀圏の中に製作地も埋納地も含まれるという考えであり、大量・集中埋納については各集落の統合の結果として集められたと解釈していた。75年論文はそれに対する懐疑論として書いたという。

Photo_2東六甲(地図1)と和歌山(地図2)の銅鐸分布と集落の関係を例として説明し、高地性集落と銅鐸埋納地の立地が似ていること、また時期の点でも重なるとされる。ただし、高地性集落の眺望の良さに対して、銅鐸埋納地は尾根筋から下がった眺望の悪いところが多い。ただし埋納坑の地点からの眺望はよくないが少し離れるとよい場合も多いと指摘されていた。

時期について、高地性集落も銅鐸埋納も、(1)中期後半(中期末)と(2)庄内期の前(後期末)の二つの時期に集中すると言われているが、森岡さんは(1)の画期としては中期末ではなくむしろ後期初頭(紀元1世紀第1四半期末)が重要だとする。

詳しい説明は時間の関係でなかったが、森岡さんは複数埋納銅鐸の伴出パターンについて、A~Jの9つに分類し、EとF間に大きな断絶があり、それが「聞く銅鐸(~突線鈕1式)」→「見る銅鐸(突線鈕2式~)」に相当するという。また発掘によって出土した銅鐸の埋納時期の暦年代観からも後期初頭の再評価を促された。

また六甲山系の高地性集落では、河内の土器(チョコレート色)が出ており、高地性集落の性格は閉鎖的なものではないとされる。会下山の場合、河内系3%、田能(猪名川)10%もあることや外来系文物の先取り(先導性)から高地性集落の“市場”的側面が窺われるという。

また近江系の土器や文物の移動と高地性集落の東海地方での出現、中国地方で突線鈕銅鐸と高地性集落が消滅という東西の動きは互いに関係があり、V-1期=後期初頭に当たると指摘する。関東・北陸では、高地性集落の跡地に前期古墳が造られる事例が多く、「高地性集落の出現と廃絶・青銅器祭祀の盛行と終焉・古墳の出現-これらのタイムスパンが東に行くほど短くなっていく」という言葉は印象的だった。

この辺りの動向を森岡さんの論考から抜粋すると、
「旧銅鐸群およびそれらと組成する機会のあった武器形青銅器が埋められたことを契機として高地性集落や丘陵性集落が急増したり、より盛行する地域が確かに存在する。大量埋納遺跡を有する摂津の六甲山系や出雲の宍道周辺の丘陵はその典型例で、集落の結合単位に大きな変動をきたし、古い青銅器群の埋棄を誘致するとともに社会構造が刷新されたことと連動する…」(森岡秀人2004a p.184)

「二世紀後半に起こった倭国大乱は、その行き着くところに生じた鉄争奪戦の内容を根底に備え、三世紀には東国弥生社会を終焉へと向かわせるエネルギーとなって東伝する。高地性集落分布の重心もそれを教えるように、北陸へ、北関東へと移動している…」(森岡1993 p.38)

Photo森岡さんは講演の最後の方で、埋納=抜魂の儀式という「新説?」を少し披露されていたが、これはちょっと?という感じだ。「抜魂」とは普通、仏像や墓石などを移動や修理する際に行う儀式のこと。森岡さんによると、ここでいう魂というのは“霊力”というような意味のようだが、近畿中央部の大集落でマツリをやって、銅鐸に魂を入れそれを遠隔地(例えば和歌山南部)に運んで、そこで魂を抜いて地中に埋めるとの説明だった。あくまで祭祀主体は近畿中央の勢力で遠隔地の集落所在地は祭祀の場所ではないということのようだ。高地性集落の人々は銅鐸埋納に関与はしたけれども、銅鐸を所有し祭祀を行った主体ではないと考える…そこには「銅鐸祭祀の主宰者は水田農耕を基調とする平地の大集落だ」とする根強い見方がある。

青銅器の遠隔地への埋納の意義に関しては最近の論考ではこう述べられている。
「この段階は青銅器の生産管理と集中生産が行われた形跡が各地で認められるが、流通を含む統一的な差配機構や権力機関が西日本に胚胎した節はなく、祭祀形態の選択対象に応じた移動圏が生じるとともに、それが経済的性格ではなく、祭祀圏の誇示といった社会レベルで形成されたと考えられる。

この点、一概に出土地が青銅祭器を活発に受容したとは言い難く、分布地と日常の祭りに青銅器を積極的に導入した場所とは当面隔離しておくべきであろう。青銅器を全く保持していない地域に遠隔搬入された銅鐸や武器形青銅器があったことは想像されてよく、最終の分布状態の意味するところはそう単純ではない。

したがって、青銅器に対し安易に流通網の組織的形成を考えるのは危険であり、埋納を観念された土地へ各種青銅器を選別して運び込む行為にこそ共同体を越えた人々の運搬と結集を読みとらねばならない。」(森岡2004a p.184)

埋納を観念された土地=聖地というような意味だろうか?いずれにしても森岡さんの語る弥生社会は極めて呪術的なイメージがただよう。

文様・形態研究とも分布論とも違う、非常にエキサイティングな問題提起ばかりだった。

参考文献
・森岡秀人1975「高地性集落と銅鐸」『芦の芽』27
・森岡秀人1993「高地性集落は倭国大乱とどう関係するのか」『新視点日本の歴史2(古代編1古墳~飛鳥時代)』(新人物往来社)
・森岡秀人2004a「西日本における青銅器の受容と実相」『伊勢湾岸における弥生時代後期を巡る諸問題 山中式の成立と解体』(第11回東海考古学フォーラム三重大会実行委員会)
・森岡秀人2004b「銅鐸の埋納行為と弥生人」『季刊 考古学』86(特集・弥生時代の祭り)

写真・図版出典
・『特別展 弥生争乱-山のムラの謎-』(1992/芦屋市立美術博物館)
和歌山県立博物館HP-銅鐸の祭り

|

« 椛1号銅鐸-田原市博物館夏季企画展示 | トップページ | 企画展「土佐発掘物語II-謎!弥生時代の青銅器 発見と発掘-」 »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1000613/22394016

この記事へのトラックバック一覧です: 「高地性集落からみた弥生社会と銅鐸(森岡秀人氏講演会)」:

« 椛1号銅鐸-田原市博物館夏季企画展示 | トップページ | 企画展「土佐発掘物語II-謎!弥生時代の青銅器 発見と発掘-」 »