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2008年8月

2008年8月28日 (木)

「奴国の生産遺跡」講演会の講師決定!

先日のブログ(08/8/13)で紹介した春日市の奴国の丘歴史資料館・開館10周年記念企画展「奴国の生産遺跡」の講演会の講師が決まっていた。どうも講師の方の都合なのか、13日と27日の講演が入れ替わったようだ。

●講演会「奴国の青銅器・ガラス玉生産」
[日時]
9月13日(土) 午後2時~4時
[講師]
柳田康雄(やなぎだ やすお)さん(國學院大學教授)

●講演会「青銅器の鋳造技術」
(講師:九州産業大学非常勤講師 遠藤 喜代志さん)
[日時]
9月27日(土) 午後2時~4時
[講師]
遠藤喜代志(えんどう きよし)さん(九州産業大学非常勤講師)

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2008年8月24日 (日)

志谷奥と荒神谷-出雲の銅鐸出土地

17/20 松江市から北に車で20分ほど行った佐陀本郷の鹿島地区にある志谷奥遺跡を訪れた(写真1)。朝日山(標高342m)の北側に開く比較的大きな谷の入口で車から降りると、マンション(写真右の赤い屋根の建物)横に遺跡の説明板が立っている。ここから谷を登っていくと民家があり、犬小屋と民家の間の道をさらに登ると、道の左手脇に「銅剣・銅鐸出土地」の標柱がある(写真2の左)。

2Photo_2 埋納坑があった場所は標柱から約1m下の斜面で標高は35.5m、1974年同地在住の安達茂幸さんが柿ノ木への施肥作業中に銅鐸2、銅剣6が発見されたという。埋納地点はこの谷の入口に近い場所だが、現在ここから先の道はブッシュで通行できなくなっていた。犬小屋横の谷川沿いの道は歩いていないので不明だが、報告書によると清流が流れているらしい。埋納地点から眺望は谷の入口付近の平野と対岸の山が見えるだけで、何も見えないわけで はないが眺望がよい地点とは言えそうにない(写真3)。南側も谷奥が迫っており朝日山などは見えない。

43帰りは鹿島支所前のバス停まで歩いたが、途中佐陀川が意外と幅広いことに驚いた。海岸からはかなり入った地点だが船泊まで設けられている(写真4)。『出雲国風土記』によれば、この辺りには「恵曇の坡(つつみ)」と呼ばれる水面が広がっていたとされ、青銅器が埋納された当時も現在とは違い海が大きく湾入していたと想像される。

鹿島地区からは出土地点の谷の背後にひときわ高く幽貝山(朝日山の支峰)が見える(写真1)。海岸から見ると、どう見えるかわからないが、山麓の埋納地点と背後の山という“山当て”的な組み合わせは讃岐の青銅器埋納地と似ているかもしれない。

1_2前日の7/19は荒神谷遺跡を数年ぶりに訪れた(写真5/出土地は写真中央の谷奥左)。358本の銅剣と銅鐸・銅矛の埋納地点はレプリカで発掘された状態そっくりに復元されている。現在、博物館の東側に古代ハスの池となっている谷があるが、埋納地点はその谷の支谷-谷奥から北に入った小さな谷間の北斜面にある(写真6)。以前にもここは見たはずだが、こんな小空間だったとは…奥行きは15m程、幅は10mに満たない…やはり遺跡を観察する関心度や観点が違っていたのだろう(見ていても見えていない…よくあることだが自戒したい)。それにしてもこの谷間によくトレンチを設定したものだと思う。路傍で採集された須恵器片を手掛かりに当初、窯址の存在が想定されていたというが信じがたい。それほど小さな谷間なのだ。
2_2 Photo_3







Photo_4この谷間から仏経山(標高366m)が遠望できるという話はいろいろな本で紹介されている(写真7/発掘時)。しかしここが選ばれた理由は仏経山とは関係はないように思う。荒神谷の埋納地点からは正直何も見えないし、外部からも埋納地点を窺うことはほぼ不可能に近い(写真8/出土地の小谷間から出たところ)。谷奥の隠されたこの地点が選ばれた理由もそこにあるのだろう。荒神谷遺跡北側の宍道湖畔の平野からは斐川三山の中央-高瀬山(標高305m)がひときわ高く見える。志谷奥で見た幽貝山とよく似ている。39個の銅鐸が出土した加茂岩倉遺跡はこの高瀬山の東南麓に当たる。

3_2埋納地点のルールとして「山麓からよく見える山の山麓からは見えない地点に埋納する」ということを神戸桜ヶ丘や八尾恩智銅鐸の出土地で指摘したが、出雲の青銅器埋納地点にも通じるものがあるようだ。


参考文献:
『志谷奥遺跡 銅鐸・銅剣出土地』1976年/島根県鹿島町教育委員会
『荒神谷遺跡 銅剣発掘調査概報』1985年/島根県教育委員会
『荒神谷遺跡/加茂岩倉遺跡-青銅器大量埋納の遺跡-』2002年/島根県埋蔵文化財調査センター

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2008年8月21日 (木)

加茂岩倉遺跡の銅鐸-いかに集められたか

13_2加茂岩倉出土銅鐸は39個という数に圧倒されて、ただただ多いという印象が強かったが、今回の「加茂岩倉銅鐸の世界展」をほぼ一日中見ていて、自分なりの整理ができてきた。

これまでも多くの研究者の方々が指摘していることだが、
・外縁付鈕I式が非常に多い(19個)
・サイズが小-30cm、大-45cmと揃いすぎている
・同笵銅鐸のセットが多い(7セット)
確かに、人為的に集められた感が強い。

しかしその反面、同笵銅鐸のセットが並ぶ中に、見たこともないような銅鐸が混じっている。ただ単に掻き集められたわけではなさそうだ。扁平鈕式新段階の銅鐸9個については、“出雲型”と言われるほど変わっているので別個に扱うとして、レアもの銅鐸としては、前ブログ(08/8/19)で紹介した37号、同じくらい特徴的な13号(写真)、12号、36号などが上げられる。そしてその同笵鐸は鳥取下坂(13号)、美作念仏塚(36号)など比較的近県に分布している。変わり種の筆頭である37号にも実は類縁銅鐸が存在しており、同じ出雲の志谷奥1号石見・上條2号など、こちらも山陰に分布が限られる。

Photo同笵鐸セットの方は和歌山、岐阜、奈良、兵庫、徳島、大阪、福井など比較的広範囲に分布していて、製作地についても河内・和泉が有力視されている(兄弟銅鐸分布図)。上記のレアものが袈裟襷文だったのに対して、こちらは流水文ばかり(特に横型流水文のみ)。

39個は外縁付鈕1式~2式と扁平鈕式新段階の新旧二つのグループに分けられると言われているが、旧式鐸も、外縁付鈕2式は流通量の多い同笵鐸セットと山陰・中国地方に偏在する特殊なデザインの銅鐸の二種類で構成されている点は、これまであまり注目されていない。

加茂岩倉銅鐸については、
①出雲各地から一度に集められた(いろいろな方)
②近畿中央部(河内・大和)から一度に運ばれてきた(酒井龍一さん、森岡秀人さん他)
③出雲の単独集団によって特定の工房から順次集められた(難波洋三さん)
などいろいろな説が提起されているが、酒井龍一さんが指摘される通り、「意味不明の考古学的現象」に対して何とか理解しようと様々な仮説が作られている。

加茂岩倉の山中に集積されたことは事実だが、
(1)1つ目は、メジャーなデザインの同笵鐸が大量に運び込まれていること
(2)2つ目のパターンとして、レアな珍しいデザインのものが少数来ていること
この二つの現象をどう理解したらいいのだろうか?

難波さんが言う通り、出雲の各地から集められたのなら2つ目のパターンは説明できるかもしれないが、同笵鐸の大量搬入はうまく説明できない。また近畿から一度に運び込まれたのなら、同笵鐸の大量搬入については説明しやすいが、2つ目がうまく説明できない。受け取った側は一つ、運び込んだ側は複数、しかし工房数は限定されるという③説は、単純にモノとしての観察としては無難な結論だが、モノの製作された意味や送り込まれた背景の読み込み-特に2つ目のパターンに対する説明が弱い。

同笵鐸の製作個数が5個程度というのも、あくまで現存しているものからの推定であり、加茂岩倉での同笵鐸セットをみる限り、本来もっと数多く製作された同笵鐸グループから分配されている可能性がある。加茂岩倉にやって来た同笵鐸セットは再分配されずに埋められたが、他地域に運ばれた同笵鐸セットはさらに再分配され、最終的な埋納時に1個となったと考えてはどうだろうか。レア品の一群も同様に考えることは可能だが、こちらはもともと製作された個数が少なかったとみた方が矛盾が少ない。宮崎泰史さんはこれら山陰に偏在分布する一群の銅鐸について出雲産の可能性を説くが、分布論だけで製作地は論じられない。

“贈り物”という観点からみた場合、1つ目の大量の同笵鐸セットは「量」、2つ目のレアものは「質」という点で評価・解釈できるのではないだろうか。背景に送り手の側の事情-青銅原料の確保のような-が絡んでいるかもしれないが、量と質というのは贈与戦略的には甲乙つけがたい。

Photo岩永省三さんが「銅鐸の(編年)組列はいまだ仮説にとどまる」と喝破しているが、確かにその通りであって、佐原・難波編年はあくまで型式学的方法から導き出された“ひとつの解釈”に過ぎない。大局的にみて「銅鐸の製作順カタログ」としては間違いはないと思うが、各々の銅鐸が地上に存在し、そしてある時埋納された年代を示すものではない。共伴は同時性を示すというのは考古学の常識だが、こと青銅器に関する限りこの常識は荒神谷で覆されている。銅鐸に伝世がなく次々と作られては埋められたとすれば、そのこと自体が不思議な感さえある。

③説では、加茂岩倉の銅鐸は出雲の地で伝世・集積されたと考えられているが、中期後半までの銅鐸の保有形態は、想像を超えた数の銅鐸が近畿各所の大集落に所有されていたとする想定も可能である。寺沢薫さんは畿内の「銅鐸保管神庫」に保管されていた可能性を仮定しているが、現象の理解としてはありえる仮説だと思う。出雲に銅鐸がもたらされた理由や史的背景を銅鐸そのものから読みとることは難しいが、何らかの状況下で-おそらく送り手側の意向の元に-人為的に選択して送られてきたことは間違いない。しかし各地に大量に搬出され始めた銅鐸の運命は受け手側に委ねられたと考えるべきで、埋納されるものもあれば、再分配されるものもあり、最終的には改鋳されて新式鐸や別の青銅製品へと生まれ変わった場合も想定しなければならないのだろう。

参考文献:
難波洋三2005「神庭荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡」『日本の考古学(ドイツ展記念概説)』上巻
足立克己2004「荒神谷と加茂岩倉」『季刊考古学』第86号(特集・弥生時代の祭り)雄山閣
宮崎泰史2000「青銅祭祀のひろがり」『神々の源流-出雲・石見・隠岐の弥生文化』(大阪府立弥生文化博物館平成12年春季特別展図録)
酒井龍一1997「加茂岩倉遺跡の銅鐸」『弥生の世界(歴史発掘6)』講談社
寺沢薫1989「青銅器埋納の意義-神庭荒神谷遺跡の理解をめぐって-」『季刊考古学』第27号(特集・青銅器と弥生社会)雄山閣
島根県教育委員会・加茂町教育委員会2002『加茂岩倉遺跡』
岩永省三2003「武器形青銅器の型式学」『考古資料大観』6(小学館)

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2008年8月19日 (火)

雲南市・加茂岩倉37号銅鐸(島根8, 外縁付鈕2式, 4区袈裟襷文, 45.4cm)

37bs6/29 島根県立古代出雲歴博で「加茂岩倉銅鐸の世界」展を見学した。全て実物の銅鐸が1個1個並べて展示されており、個別に詳しい説明が付されている。中でも以前のブログ(07/12/4)で紹介した37号銅鐸(写真はB面)は「見どころ満載の隠れた逸品」として別個のケースで展示されていた。37号銅鐸はちょっと見た感じは、鋳上がりも悪く、特に変わった銅鐸には見えない。しかし、もう少し細かく観察すると、見たこともないデザインの銅鐸であることがわかる。

まず全体のフォルムだが、スラッとした銅鐸に見える。ただし各部の寸法・比率を比較してみると他の外縁付鈕2式銅鐸(II-2式)とさほど変わらない。おそらく鈕高が少し高い(頭でっかち)ため、背高な印象を受けるのだろう。鈕の外縁-菱環外斜面の幅が広くB面では2帯となっている。A面では、III-1式段階で出てくる三日月文様帯に似た細い帯状部分に、小さな連続渦文を配置するが、左右には鹿が二頭ずつ描かれている(言われないとほとんどわからない)。また渦文の巻き数も同時期の流水文鐸と比較して多いようだ。

鐸身の文様はこの時期の銅鐸としては珍しい四区袈裟襷文。II-2式は流水文が非常に多く、加茂岩倉でもII-2式鐸9個中7個が流水文である。A面の袈裟襷文は通常の斜格子だが、B面は「網代文」を使用しており、さらに下辺横帯は複合鋸歯文となっている。また袈裟襷の界線が複線となっている点も、II-2式段階では類例が非常に少ない(界線が複線化するのは扁平鈕新段階(III-2式)以降の特徴)

鰭の鋸歯文はA面がL、B面がRと使い分けられている。通常鋸歯文は鰭の下端まで続くものだが、37号では下辺横帯下界線のところで鋸歯文が止められており、一番下端の鋸歯文は半分に断ち割られている。この銅鐸もII式段階までは多い「四辺区画装飾面(身の装飾面が左右の鰭まで及ばず、鰭との間に隙間がある)」であるが、鰭の鋸歯文までそれを意識したデザインとなっているようだ。飾耳は鐸身上部に1対あるが、足もなくシルエットだけの耳で鰭部分は鋸歯文で埋められている。

網代文は恩智垣内山鐸などで使われているので、この文様に注目すると摂津産の銅鐸かもしれない。鐸身の反りが直線的な点も摂津産と似ている。いずれにしても、II-2式段階では他に類例のない-新しいデザイン要素をつぎ込んだ一点もののような-レアな銅鐸であることは間違いない。

写真出典:
『銅鐸の謎 加茂岩倉遺跡』(1997年/河出書房新社)

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2008年8月13日 (水)

銅鐸博物館開館20周年記念「銅鐸シンポジウム-銅鐸の始まりと終わり-」

Photo_2先日神戸三ノ宮駅で配布されていた「近江の歴史見聞録」というパンフを見ていて、11/3(祝)に銅鐸博物館で20周年の記念シンポジウムが開催されることを知った。
野洲市の公式H.Pにはまだ出ていないが、おそらく特別展も開催されるのだろう。講師はお馴染みのキャスティングで、これでは話の内容がわかってしまう、もう少し若手の方か、寺沢薫さんや岩永省三さんも加えて欲しかった。

■銅鐸博物館20周年記念「銅鐸シンポジウム-銅鐸の始まりと終わり-」

銅鐸研究の第一人者を招聘し、銅鐸の誕生と系譜、最古の銅鐸、銅鐸の地域性、青銅器の多数埋納、破片出土の銅鐸と土製鋳型による鋳造など銅鐸の始まりと終わりにかかわる諸問題について、最新の研究成果をお話しいただきます。

・開催場所/銅鐸博物館(野洲市歴史民俗博物館)研修室
・開催時間/10:00~16:00(予定) 定員/120名
・申込方法/往復ハガキによる事前申込制 参加費用/入館料および資料代

講師:
春成秀爾氏(前国立歴史民俗博物館教授)
松本岩雄氏(島根県立古代出雲歴史博物館学芸課長)
難波洋三氏(奈良文化財研究所考古第一研究室長)

銅鐸博物館
〒520-2315
滋賀県野洲市辻町57番地1
Tel:077-587-4410 Fax:077-587-4413

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企画展「奴国の生産遺跡展」

Photo来月6日から福岡県春日市の奴国の丘歴史資料館で企画展「奴国の生産遺跡展」が開催される。

■企画展「奴国の生産遺跡展」
須玖岡本遺跡群の青銅器・鉄器・ガラスの生産に関する遺跡・遺物から、奴国の強大さを検証し、市民とともに須玖岡本遺跡の保存・活用の必要性を考えます。入場は無料です。

[期間]
9月6日(土)~10月26日(日)
[時間]
午前9時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
[場所]
奴国の丘歴史資料館 特別展示室(春日市岡本3-57) 

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講演会情報

●講演会(1回目)
「青銅器の生産」について、第一線の研究者の分析とともに、青銅器・生産工房等について考えます。

[日時]
9月13日(土) 午後2時~4時
[場所]
奴国の丘歴史資料館 研修室
[申込方法]
8月13日(水)以降に、電話かファックス、Eメール、または直接窓口で住所、氏名、年齢を伝える

●講演会(2回目)
「奴国王権とテクノポリス」について、第一線の研究者の見解をもとに、須玖岡本遺跡群の様相に迫ります。

[日時]
9月27日(土) 午後2時~4時
[場所]
奴国の丘歴史資料館 研修室
[申込方法]
8月27日(水)以降に、電話かファックス、Eメール、または直接窓口で住所、氏名、年齢を伝える

いずれも定員は80人(申込先着順)、講師は未定

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[申込・問い合わせ先]
 奴国の丘歴史資料館(春日市岡本3-57)
 電話 092-501-1144
 ファックス 092-573-1077

※写真は板橋旺爾『奴国発掘』(1973年/学生社)

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