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2008年8月21日 (木)

加茂岩倉遺跡の銅鐸-いかに集められたか

13_2加茂岩倉出土銅鐸は39個という数に圧倒されて、ただただ多いという印象が強かったが、今回の「加茂岩倉銅鐸の世界展」をほぼ一日中見ていて、自分なりの整理ができてきた。

これまでも多くの研究者の方々が指摘していることだが、
・外縁付鈕I式が非常に多い(19個)
・サイズが小-30cm、大-45cmと揃いすぎている
・同笵銅鐸のセットが多い(7セット)
確かに、人為的に集められた感が強い。

しかしその反面、同笵銅鐸のセットが並ぶ中に、見たこともないような銅鐸が混じっている。ただ単に掻き集められたわけではなさそうだ。扁平鈕式新段階の銅鐸9個については、“出雲型”と言われるほど変わっているので別個に扱うとして、レアもの銅鐸としては、前ブログ(08/8/19)で紹介した37号、同じくらい特徴的な13号(写真)、12号、36号などが上げられる。そしてその同笵鐸は鳥取下坂(13号)、美作念仏塚(36号)など比較的近県に分布している。変わり種の筆頭である37号にも実は類縁銅鐸が存在しており、同じ出雲の志谷奥1号石見・上條2号など、こちらも山陰に分布が限られる。

Photo同笵鐸セットの方は和歌山、岐阜、奈良、兵庫、徳島、大阪、福井など比較的広範囲に分布していて、製作地についても河内・和泉が有力視されている(兄弟銅鐸分布図)。上記のレアものが袈裟襷文だったのに対して、こちらは流水文ばかり(特に横型流水文のみ)。

39個は外縁付鈕1式~2式と扁平鈕式新段階の新旧二つのグループに分けられると言われているが、旧式鐸も、外縁付鈕2式は流通量の多い同笵鐸セットと山陰・中国地方に偏在する特殊なデザインの銅鐸の二種類で構成されている点は、これまであまり注目されていない。

加茂岩倉銅鐸については、
①出雲各地から一度に集められた(いろいろな方)
②近畿中央部(河内・大和)から一度に運ばれてきた(酒井龍一さん、森岡秀人さん他)
③出雲の単独集団によって特定の工房から順次集められた(難波洋三さん)
などいろいろな説が提起されているが、酒井龍一さんが指摘される通り、「意味不明の考古学的現象」に対して何とか理解しようと様々な仮説が作られている。

加茂岩倉の山中に集積されたことは事実だが、
(1)1つ目は、メジャーなデザインの同笵鐸が大量に運び込まれていること
(2)2つ目のパターンとして、レアな珍しいデザインのものが少数来ていること
この二つの現象をどう理解したらいいのだろうか?

難波さんが言う通り、出雲の各地から集められたのなら2つ目のパターンは説明できるかもしれないが、同笵鐸の大量搬入はうまく説明できない。また近畿から一度に運び込まれたのなら、同笵鐸の大量搬入については説明しやすいが、2つ目がうまく説明できない。受け取った側は一つ、運び込んだ側は複数、しかし工房数は限定されるという③説は、単純にモノとしての観察としては無難な結論だが、モノの製作された意味や送り込まれた背景の読み込み-特に2つ目のパターンに対する説明が弱い。

同笵鐸の製作個数が5個程度というのも、あくまで現存しているものからの推定であり、加茂岩倉での同笵鐸セットをみる限り、本来もっと数多く製作された同笵鐸グループから分配されている可能性がある。加茂岩倉にやって来た同笵鐸セットは再分配されずに埋められたが、他地域に運ばれた同笵鐸セットはさらに再分配され、最終的な埋納時に1個となったと考えてはどうだろうか。レア品の一群も同様に考えることは可能だが、こちらはもともと製作された個数が少なかったとみた方が矛盾が少ない。宮崎泰史さんはこれら山陰に偏在分布する一群の銅鐸について出雲産の可能性を説くが、分布論だけで製作地は論じられない。

“贈り物”という観点からみた場合、1つ目の大量の同笵鐸セットは「量」、2つ目のレアものは「質」という点で評価・解釈できるのではないだろうか。背景に送り手の側の事情-青銅原料の確保のような-が絡んでいるかもしれないが、量と質というのは贈与戦略的には甲乙つけがたい。

Photo岩永省三さんが「銅鐸の(編年)組列はいまだ仮説にとどまる」と喝破しているが、確かにその通りであって、佐原・難波編年はあくまで型式学的方法から導き出された“ひとつの解釈”に過ぎない。大局的にみて「銅鐸の製作順カタログ」としては間違いはないと思うが、各々の銅鐸が地上に存在し、そしてある時埋納された年代を示すものではない。共伴は同時性を示すというのは考古学の常識だが、こと青銅器に関する限りこの常識は荒神谷で覆されている。銅鐸に伝世がなく次々と作られては埋められたとすれば、そのこと自体が不思議な感さえある。

③説では、加茂岩倉の銅鐸は出雲の地で伝世・集積されたと考えられているが、中期後半までの銅鐸の保有形態は、想像を超えた数の銅鐸が近畿各所の大集落に所有されていたとする想定も可能である。寺沢薫さんは畿内の「銅鐸保管神庫」に保管されていた可能性を仮定しているが、現象の理解としてはありえる仮説だと思う。出雲に銅鐸がもたらされた理由や史的背景を銅鐸そのものから読みとることは難しいが、何らかの状況下で-おそらく送り手側の意向の元に-人為的に選択して送られてきたことは間違いない。しかし各地に大量に搬出され始めた銅鐸の運命は受け手側に委ねられたと考えるべきで、埋納されるものもあれば、再分配されるものもあり、最終的には改鋳されて新式鐸や別の青銅製品へと生まれ変わった場合も想定しなければならないのだろう。

参考文献:
難波洋三2005「神庭荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡」『日本の考古学(ドイツ展記念概説)』上巻
足立克己2004「荒神谷と加茂岩倉」『季刊考古学』第86号(特集・弥生時代の祭り)雄山閣
宮崎泰史2000「青銅祭祀のひろがり」『神々の源流-出雲・石見・隠岐の弥生文化』(大阪府立弥生文化博物館平成12年春季特別展図録)
酒井龍一1997「加茂岩倉遺跡の銅鐸」『弥生の世界(歴史発掘6)』講談社
寺沢薫1989「青銅器埋納の意義-神庭荒神谷遺跡の理解をめぐって-」『季刊考古学』第27号(特集・青銅器と弥生社会)雄山閣
島根県教育委員会・加茂町教育委員会2002『加茂岩倉遺跡』
岩永省三2003「武器形青銅器の型式学」『考古資料大観』6(小学館)

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