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2008年8月24日 (日)

志谷奥と荒神谷-出雲の銅鐸出土地

17/20 松江市から北に車で20分ほど行った佐陀本郷の鹿島地区にある志谷奥遺跡を訪れた(写真1)。朝日山(標高342m)の北側に開く比較的大きな谷の入口で車から降りると、マンション(写真右の赤い屋根の建物)横に遺跡の説明板が立っている。ここから谷を登っていくと民家があり、犬小屋と民家の間の道をさらに登ると、道の左手脇に「銅剣・銅鐸出土地」の標柱がある(写真2の左)。

2Photo_2 埋納坑があった場所は標柱から約1m下の斜面で標高は35.5m、1974年同地在住の安達茂幸さんが柿ノ木への施肥作業中に銅鐸2、銅剣6が発見されたという。埋納地点はこの谷の入口に近い場所だが、現在ここから先の道はブッシュで通行できなくなっていた。犬小屋横の谷川沿いの道は歩いていないので不明だが、報告書によると清流が流れているらしい。埋納地点から眺望は谷の入口付近の平野と対岸の山が見えるだけで、何も見えないわけで はないが眺望がよい地点とは言えそうにない(写真3)。南側も谷奥が迫っており朝日山などは見えない。

43帰りは鹿島支所前のバス停まで歩いたが、途中佐陀川が意外と幅広いことに驚いた。海岸からはかなり入った地点だが船泊まで設けられている(写真4)。『出雲国風土記』によれば、この辺りには「恵曇の坡(つつみ)」と呼ばれる水面が広がっていたとされ、青銅器が埋納された当時も現在とは違い海が大きく湾入していたと想像される。

鹿島地区からは出土地点の谷の背後にひときわ高く幽貝山(朝日山の支峰)が見える(写真1)。海岸から見ると、どう見えるかわからないが、山麓の埋納地点と背後の山という“山当て”的な組み合わせは讃岐の青銅器埋納地と似ているかもしれない。

1_2前日の7/19は荒神谷遺跡を数年ぶりに訪れた(写真5/出土地は写真中央の谷奥左)。358本の銅剣と銅鐸・銅矛の埋納地点はレプリカで発掘された状態そっくりに復元されている。現在、博物館の東側に古代ハスの池となっている谷があるが、埋納地点はその谷の支谷-谷奥から北に入った小さな谷間の北斜面にある(写真6)。以前にもここは見たはずだが、こんな小空間だったとは…奥行きは15m程、幅は10mに満たない…やはり遺跡を観察する関心度や観点が違っていたのだろう(見ていても見えていない…よくあることだが自戒したい)。それにしてもこの谷間によくトレンチを設定したものだと思う。路傍で採集された須恵器片を手掛かりに当初、窯址の存在が想定されていたというが信じがたい。それほど小さな谷間なのだ。
2_2 Photo_3







Photo_4この谷間から仏経山(標高366m)が遠望できるという話はいろいろな本で紹介されている(写真7/発掘時)。しかしここが選ばれた理由は仏経山とは関係はないように思う。荒神谷の埋納地点からは正直何も見えないし、外部からも埋納地点を窺うことはほぼ不可能に近い(写真8/出土地の小谷間から出たところ)。谷奥の隠されたこの地点が選ばれた理由もそこにあるのだろう。荒神谷遺跡北側の宍道湖畔の平野からは斐川三山の中央-高瀬山(標高305m)がひときわ高く見える。志谷奥で見た幽貝山とよく似ている。39個の銅鐸が出土した加茂岩倉遺跡はこの高瀬山の東南麓に当たる。

3_2埋納地点のルールとして「山麓からよく見える山の山麓からは見えない地点に埋納する」ということを神戸桜ヶ丘や八尾恩智銅鐸の出土地で指摘したが、出雲の青銅器埋納地点にも通じるものがあるようだ。


参考文献:
『志谷奥遺跡 銅鐸・銅剣出土地』1976年/島根県鹿島町教育委員会
『荒神谷遺跡 銅剣発掘調査概報』1985年/島根県教育委員会
『荒神谷遺跡/加茂岩倉遺跡-青銅器大量埋納の遺跡-』2002年/島根県埋蔵文化財調査センター

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