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2008年9月

2008年9月18日 (木)

特別展「摂津三島の遺宝-考古資料精選-」天神山銅鐸が里帰り

Photo来週の9/27から高槻市しろあと歴史館で開催される特別展「摂津三島の遺宝-考古資料精選-」で、55年ぶりに天神山遺跡出土の銅鐸が里帰り展示されることを知った。

天神山遺跡からは2個の銅鐸が出土しているが、今回展示されるのは、東京大学教養学部美術博物館に所蔵されている突線鈕2式の近畿式銅鐸(写真/もう一つはロサンゼルス・カウンティ美術館が所蔵 08/06/26
この銅鐸-編年研究において重要な銅鐸だが、東大美術博物館では常設展示されておらず、ほんとんど公開されたことがない。今回見学を逃すと見られないかもしれない…

10/4には記念講演会も開催される予定で、茨木市立文化財資料館の奥井哲秀さんが「摂津三島の弥生社会~なぜ銅鐸がつくられたのか」の演題で講演される。

Poster_mishima20高槻市市制施行65周年記念・しろあと歴史館開館5周年記念特別展
「摂津三島の遺宝-考古資料精選-」

会期:平成20年9月27日(土)~11月24日(月・祝)
場所:しろあと歴史館 企画展示室
開館時間:午前10時~午後5時(入館は午後4時30分まで)
休館日:月曜日・祝日の翌日(祝日は開館) 
観覧料:一般/200円  小中学生/100円
主な内容
三島地域は、悠久の大河・淀川と陸の大動脈・山陽道(今の西国街道)という二大交通路を擁し、日本の東西を結ぶ文化・経済の回廊として日本史上に大きな役割を果たしてきました。北摂の山々から流れ出る幾多の河川がもたらした肥沃な平野を舞台として、豊かな実りを背景に弥生文化が華開き、邪馬台国の時代には安満宮山古墳が築かれました。古墳時代には、わが国有数の三島古墳群が造営され、継体天皇の真の陵墓とされる今城塚古墳や藤原鎌足の墓ともいわれる阿武山古墳など、著名な古墳が目白押しです。奈良・平安時代についても嶋上郡衙跡、芥川廃寺など、古代の日本を語るうえで特筆すべき歴史遺産が数多く残されています。
本展では、開館5周年を記念して国宝「石川年足墓誌」をはじめとする国指定文化財や、55 年ぶりの里帰りとなる天神山遺跡出土の銅鐸など、三島を代表する国宝・重要文化財を含む考古資料を一堂に展覧し、三島の古代に思いを馳せます。


しろあと歴史館開館5周年記念講演会
「摂津三島の古代に挑む」

日時:平成20年10月4日(土)                                                     時間:午後1時~4時30分まで        
場所:現代劇場中ホール
定員:先着500人 ※開場:12時30分 
参加費:無料 
※申し込みは不要です。当日直接会場へお越しください。 
内容: 
・「摂津三島の発掘がもたらしたもの」水野正好氏[(財)大阪府文化財センター理事長]
・「摂津三島の弥生社会~なぜ銅鐸がつくられたのか」奥井哲秀氏[茨木市立文化財資料館館長]
・「古代淀川の水運をみつめて」森田克行館長[高槻市立しろあと歴史館館長]
鼎談:「摂津三島の古代に挑む」水野正好氏、奥井哲秀氏、森田館長
 

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2008年9月16日 (火)

柳沢遺跡で新たに銅鐸3個見つかる!!

昨年から話題になっている柳沢遺跡で、重機で掘って埋納坑を破壊した際に混じった青銅器片がないか掘りあげた土砂をフルイにかけて探していたが、やはりあった!-それも銅鐸が新たに3個も…
今度は外縁付紐2式だということだが、どんな文様の銅鐸か楽しみである。長野県埋文センターのHPによると、9/20~21に現地説明会が行われ、銅鐸も公開されるらしい。

柳沢遺跡の銅鐸計4個に 弥生のクニ、原型裏付け 
下野新聞(08/9/12
Photo長野県埋蔵文化財センターは12日、昨年に東日本で初めて弥生時代の青銅器「銅鐸」と「銅戈」が一緒に出土した柳沢遺跡(同県中野市)で、新たに弥生中期ごろの銅鐸の破片が出土し、最低でも3個分あることが分かったと発表した。
同遺跡で出土した銅鐸は合計で少なくとも4個になった。奈良文化財研究所の難波洋三考古第1研究室長は「銅鐸が4個以上出土した遺跡は全国で10例もなく驚きだ」と話している。
柳沢遺跡では昨年、祭器として使われた銅鐸と銅戈7本(大阪湾型6本、九州型1本)が同時出土。東日本の長野に、弥生時代のクニの原型になる有力な集団が存在していたことを示す発見として注目を集めた。
大阪府立狭山池博物館の工楽善通館長(考古学)は「考えていたよりも、さらに強力な集団がいたことを意味付ける成果だ」と指摘している。
※写真=柳沢遺跡で新たに出土した銅鐸の破片


銅戈と同時出土の中野市の柳沢遺跡から新たに銅鐸片3個
信濃毎日新聞(08/9/13
2県埋蔵文化財センター(長野市)は12日、昨年に東日本で初めて弥生時代中期の祭器「銅戈(どうか)」と「銅鐸(どうたく)」が一緒に出土した中野市の柳沢遺跡で、新たに銅鐸の破片18点が見つかったと発表した。うち3点は昨年出土した銅鐸の一部。ほかの破片でさらに3個分になるという。同遺跡調査指導委員会の笹沢浩委員長によると、同じ遺跡から複数の銅戈と銅鐸が見つかったのは、神戸市の桜ケ丘遺跡に次いで全国で2例目。
15点の破片は、銅鐸の「紐(ちゅう)」と呼ばれる上部や、すそに当たる部分などで、長さは数センチから10センチ程度。近畿地方を中心に出土している僧侶の袈裟(けさ)に似た形の文様「袈裟襷文(だすきもん)」を確認できる破片もあり、これらは比較的古い型の「外縁付紐(がいえんつきちゅう)2式」の一部とみられ、近畿でつくられた可能性が高いという。

昨年見つかった銅鐸は流水文があり、さらに古い「外縁付紐1式」。異なる時代の銅鐸が存在していたことになり、同遺跡調査指導委員会委員の難波洋三・奈良文化財研究所考古第一研究室長は「この地域は長い間にわたって、近畿地方と濃密なつながりがあったみられる」と指摘した。
同センターは、排水路を設けるため昨年度に重機で掘った土の中に、ほかの青銅器が含まれている可能性があるとみて調べていた。20、21日のともに午前10時から現地説明会を開く。
※写真=昨年見つかった銅鐸片(左)の一部と見られる今年見つかった破片(右の3点)

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2008年9月15日 (月)

中国式銅剣の鋳型出土-中国式といってもメイド・イン・ジャパン

S中国式銅剣というと、九州では朝倉市(旧甘木市)中寒水出土の桃氏剣(写真)など少ないながら数例が知られている。中国からはるばる海を渡ってきた銅剣かと思いきや、春日市立石遺跡出土の中国式銅剣(戦国式)の鉛同位体比の分析結果などから、どうも日本製らしいと知った。今回の鋳型の発見はそれを裏付ける資料となりそうだ。

朝鮮半島で定型化した細形銅剣(韓国式銅剣)と呼ばれる型式の銅剣の他に、多樋式、深樋式など-いくつかの特殊な型式の銅剣が日本でも出土しており、少し風変わりなタイプの銅剣を製作していた工房が御陵遺跡周辺にあったのかもしれない。新聞記事の写真をみると、中央の銅剣は立石銅剣らしい。通常の中国式銅剣の大きさの二倍くらいあるだろうか…

写真1出典:『あおの輝き-弥生時代の青銅器-(平成17年度北筑後文化財フェスタ)』(小郡市埋蔵文化財センター/2006)


福岡の遺跡から中国式銅剣の鋳型出土
産経新聞(08/09/01
Photo_5出土した「中国式」に形状が近い銅剣の石製鋳型(左)。中央は中国式銅剣の複製、右は弥生時代の細形銅剣の複製=1日午後、福岡県春日市の「奴国の丘歴史資料館」 福岡県春日市教育委員会は1日、同市須玖北の弥生時代後期(一世紀)の「御陵遺跡」から、中国や朝鮮半島に由来する「中国式」に形状が近い銅剣の鋳型が出土したと発表した。
市教委文化財課によると、中国式銅剣とみられる鋳型が出土したのは全国初。担当者は「中国式銅剣が、国内でも生産されていた可能性を示すものだ」と話している。
出土した鋳型は石製で長さ約30センチ、幅約10センチ、厚さ約6センチの直方体。先端部分は欠損している。竪穴住居跡から青銅かすとともに出土したことから、青銅器の工房跡と考えられるという。
弥生時代の銅剣は「脊(むね)」と呼ばれる芯がある細形がほとんどで、断面が偏平(へんぺい)な中国式の出土例は少ない。細形銅剣の鋳型は弥生時代の青銅器の生産地とされる同市の須玖岡本遺跡群などで多数出土している。

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2008年9月14日 (日)

宗像市・田熊石畑遺跡で銅剣や銅戈出土-弥生時代の王墓

Photo_6九州で弥生時代の銅剣などがたくさん副葬された墓が見つかると「王墓」と呼ばれる。奴国の須玖岡本遺跡や伊都国の三雲・井原鑓溝遺跡、吉野ヶ里遺跡の墳丘墓は有名だし、日本最大のボウ製鏡が出土した平原遺跡に到っては“卑弥呼の墓”という人までいる。近年見つかった王墓だと、福岡市西区の吉武高木遺跡と吉武大石遺跡がよく知られている。他にも、佐賀県唐津市の宇木汲田遺跡、福岡県古賀市の馬渡束ヶ浦遺跡、昨年ニュースとなった遺跡だと唐津市の桜馬場遺跡(読売新聞07/11/22)がある。

先日の講演会(08/07/19)で、下條信行先生から「弥生時代の青銅製武器の格付けは、銅矛>銅戈>銅剣となっており、その証拠に、墓の副葬品の数は銅剣が最も多く、銅戈、銅矛の順に少なくなる」と教えられた。今回の田熊石畑遺跡の青銅武器も銅剣4本、銅戈1本が出土しており、下條理論がきれいに当てはまる。

弥生中期の青銅武器が宗像の遺跡で出土、有力首長の墓か
読売新聞(08/06/21)西日本新聞(08/07/02, 08/07/15
田熊石畑遺跡から出土した銅剣や銅戈(21日午前10時9分、福岡県宗像市で)=高梨忍撮影 福岡県宗像市は21日、田熊(たぐま)石畑(いしはた)遺跡(宗像市田熊2)の墓から、青銅武器の銅剣4本、銅戈(どうか)1本が出土したと発表した。弥生時代中期前半(紀元前2世紀)の墓から出土した青銅武器としては最も数が多く、市教委は「一帯を治めた有力首長の墓だろう」としている。
4月から行っている発掘調査で見つかった。銅剣は長さ27~43センチ、銅戈は同24センチ。いずれも細形で被葬者の胸付近にそれぞれ切っ先を足元に向けて置かれていたとみられる。ほかに、装身具として管玉(くだたま)十数点、ヒスイ製の垂飾(すいしょく)1点が出土しており、これらは髪飾りだった可能性がある。
北部九州では、弥生時代中期から青銅武器が副葬され始める。この時代の墓ではこれまで、福岡市の吉武(よしたけ)高木(たかぎ)遺跡と福岡県古賀市の馬渡(まわたり)束ヶ浦(そくがうら)遺跡から銅剣など4本が出土している。

中国の歴史書「漢書地理誌」はこの時代から1世紀ほど後の倭に〈百余国〉が存在したと記す。弥生時代の首長墓変遷に詳しい柳田康雄・国学院大教授(考古学)は「吉武高木遺跡の墓と違って鏡こそ出ていないが、馬渡束ヶ浦遺跡とともに3者はほぼ同等のランクと考えられる。この時期にはすでに、福岡平野に限らず玄界灘沿岸で突出した首長を抱くクニが成立していたのだろう」と話している。

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2008年9月13日 (土)

さぬき市・森広遺跡の巴形銅器-奴国の流通圏

最近の九州における青銅器関連のニュースを三つほどご紹介したい。

Photo_7巴形銅器の鋳型といえば、吉野ヶ里遺跡で見つかったのが初例(写真1/88年と99年)。今回の鋳型が発見されたのは九大筑紫キャンパス建設地の発掘調査で出土したもので、奴国の中心地-須玖岡本遺跡の近傍に当たる。新聞記事には「弥生時代の青銅器で鋳型と製品が一致した例は、銅鐸以外では初めて」とあるが、福岡県古賀市の夜臼・三代地区遺跡群の筒形銅製品(用途不明)の事例(新宮町立歴史資料館)もある。
Photo_9また、これも最近ニュース(西日本新聞 08/03/26)となっていたが、福岡県春日市の大谷遺跡の銅矛鋳型(写真2)の場合は、70年代に大谷遺跡から鋳型が発掘された当時、立岩堀田遺跡出土の銅矛の形状と一致したことから、奴国で鋳造されて飯塚まで運ばれた可能性が高いと考えられていたが、今回の鋳型破片の接続によって、立岩堀田の銅矛と一致しないことが判明した。

最近の発掘調査で鋳型もかなり発見されているが、なかなか鋳型と製品が一致することはない。我々が今見ているのは当時作られた製品のごく一部であるということなのだろう。

福岡で鋳造と判明-さぬき市森広遺跡の巴形銅器
四国新聞(08/04/18
Photo_8さぬき市の森広遺跡で明治時代に出土した巴形[ともえがた]銅器3点が、福岡県春日市の九州大筑紫地区遺跡群で1998年に出土した弥生時代後期(2世紀)の石製の鋳型で鋳造されていたことが分かり、九州大埋蔵文化財調査室が17日、発表した。
同調査室によると、弥生時代の青銅器で鋳型と製品が一致した例は、銅鐸[どうたく]以外では初めて。祭祀[さいし]などに使われたと考えられる青銅器が、九州から四国へ運ばれていたことを示す物証といえる。同調査室の田尻義了学術研究員は「弥生時代の政治状況や経済交流が垣間見える貴重な発見だ」と話している。
また、青銅器は同じ鋳型で何回も鋳造されたとこれまでも推定されていたが、3点の巴形銅器が鋳型と一致したことで、複数回の鋳造が現物資料によって裏付けられた。
さぬき市教委によると、森広遺跡では弥生時代に属する巴形銅器が計8点出土。現在は、すべて東京国立博物館が所蔵しており、同市の寒川町図書館にレプリカを展示しているという。巴形銅器は、脚が7本で、脚を含めた直径が約12センチ。九州大所蔵の鋳型は銅器全体の約4分の1の破片だが、田尻学術研究員が1月、東京国立博物館所蔵の銅器と重ねたところ、脚の形や相互間の寸法、裏面の文様がすべて一致したという。

西谷正・九州大名誉教授(考古学)は「青銅器の生産と流通の状況が分かる興味深い発見。九州の巴形銅器が四国で流通した背景が、今後の研究課題となる」と話している。
巴形銅器 弥生時代から古墳時代にかけて作られた青銅器。半球状の中心部の周りに、かぎ形の突起が渦巻き状に付いている。甕棺墓(かめかんぼ)や古墳の副葬品として出土する例が多い。裏側にひもを通す仕掛けがあり、古墳時代の出土例から、主に盾に装着したとみられる。南西諸島で魔よけや火よけのため玄関につるすスイジガイと形が似ているため、弥生時代も魔よけや敵の攻撃を避ける意味があったと考えられている。

写真は森広遺跡の巴形銅器:出典は『日本の古代遺跡』8香川(保育社/1983)

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2008年9月 9日 (火)

第2回 アジア鋳造技術史学会福岡大会

企画展『奴国の生産遺跡』開催の奴国の丘歴史資料館で、下記のような研究会が開催されることを知った。かなり専門的な研究会で学会員限定だが、内容は弥生青銅器を学ぶ上で興味深いものばかり。南河内考古学研究所情報掲示板より

第2回 アジア鋳造技術史学会福岡大会のご案内
○2008年9月20日(土) 春日市奴国の丘歴史資料館
・13:00~15:15 総 会                
・15:15~15:30 休 憩                    
・15:30~16:10 研究発表「芦屋釜の製作工程」 遠藤喜代志(遠藤鋳金工房)
(*21日の発表数が予定より多く特別に20日に発表していただきます)
・16:10~17:00 考古資料見学 
奴国の丘歴史資料館で企画展『奴国の生産遺跡』が開催中です。春日市から出土した弥生時代の考古資料を展示していますので、見学しながら自由に討論や春日市職員に質問をしていただきます。また、展示からもれた資料の見学についても調整中です。
・18:00~懇親会一品香(いーぴんしゃん)雑餉隈店
*9月20日の「総会」は学会員のみ、以後の「研究発表」、「考古資料見学」、「懇親会」は学会員および研究発表の共同発表者等のみが参加可です。入会は随時受け付けております。

第2回 アジア鋳造技術史学会福岡大会研究発表のご案内
○2008年9月21日(日)福岡市埋蔵文化財センター
1)研究発表
・9:00~9:05  開会挨拶  
・9:05~9:25  田賀井篤平(東京大学総合博物館)
「鏡笵面に見られる黒色皮殻についての研究 その2 ―黒色皮殻の化学分析―」
・9:30~9:50 藤瀬禎博 (鳥栖市生涯学習課)
「石製鋳型による鋳造実験と鋳型石材について」 
・9:55~10:15  林田和人 (熊本市教育委員会)
「熊本市八ノ坪遺跡における工房域の立地と選定」 
(発表者が事情により欠席のため、代読を予定。)       
・10:20~10:40 細川金也 (佐賀県文化課)
「佐賀平野における弥生時代の青銅器生産」
・10:40~10:55 休 憩         
・10:55~11:15 村松洋介 (大韓民国 釜山大学校)
「銅戈の製作技術-日韓両地域の比較-」        
・11:20~11:55 李陽洙 (大韓民国 国立慶州博物館)
「慶州入室里出土碇形双頭鈴の製作技術」
・12:00~12:35 許俊亮 (大韓民国 慶州大学校)
「韓半島の有文銅戈と文様製図について」 
・12:35~14:00 昼食休憩 
・13:20~14:00 ポスターセッション・資料見学 
・14:10~14:30 金夏廷  (大韓民国 ソウル総合芸術学校)
「韓国の鋳造鍮器に関する考察」      
・14:35~14:55 安永周平 (ゼネラルプレス)
「古代ガラスの製作技法における部分的誤認について」
・15:00~15:20 鈴木瑞穂 ((株)九州テクノリサーチ)
「福岡県北九州市黒崎城鋳銭場出土資料の金属学的調査
模鋳銭製作址出土資料の考古科学的調査」
・15:25     閉会挨拶 

2)ポスターセッション
・青柳泰介 (奈良県立橿原考古学研究所)
「奈良県桜井市脇本遺跡出土青銅器鋳造関係遺物について」
・戸塚洋介 (佐賀県社会教育・文化財課)
「唐津平野における弥生時代の青銅器生産 -唐津市中原遺跡出土鋳型の検討-」
・杉本和江 (古美術修理すぎもと)
「江戸時代梵鐘の蛍光X線分析について」
・比佐陽一郎 (福岡市文化財整備課 )
「中近世模鋳銭の一様相-蛍光X線分析の結果を中心として-」
・赤沼潔   (東京芸術大学)
「鋳銅品の着色に関する考察」
・梅崎恵司 ((財)北九州市芸術文化振興財団埋蔵文化財調査室)
「福岡県北九州市黒崎城金属工房址の発掘調査」

3)資料見学
 福岡市内出土鋳造関係資料。見学しながら自由に討論や福岡市埋蔵文化財センター職員に質問をしていただきます。

4)その他
・学会員以外の参加には、資料代等に2000円が必要です。また、諸般の事情でプログラムを変更することがあります。

・詳細についての問い合わせは、奈良県立橿原考古学研究所の清水康二(℡0744-24-1101,FAX0744-24-6747)までお願いいたします。

・春日市奴国の丘歴史資料館 092-501-1144
・福岡市埋蔵文化財センター  092-571-2921

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2008年9月 4日 (木)

海外美術館の銅鐸(欧州編)

好評だった海外美術館の銅鐸(08/6/26)-第二弾は欧州編-西ヨーロッパ各国にも5カ国8箇所の美術館に10個の銅鐸が所蔵されている。

Photo大英博物館(The British Museum)
さすが世界最大の博物館といわれる大英博物館-日本の銅鐸を大中小と3個も所蔵している。近畿式の大きな銅鐸(大英博1号/写真1左)は和歌山県西牟婁郡上富田町朝来出土のもの(04年神戸市博で開催された大英博物館展の際、再確認されたと報じられた)。この銅鐸もメトロポリタン美術館所蔵銅鐸と同じように双頭の飾耳をつなぐ板が付く珍しいタイプ。上部が少しかけているが、現高110cmで、復元すると日本最大の大岩山1号銅鐸(高134cm)に迫る大きさになるという。


3_3残り二つは扁平鈕式の六区袈裟襷文銅鐸だが、少し大きな大英博2号(写真1右)は横帯分割型と呼ばれるもので、香川県大麻山銅鐸や神戸市生駒銅鐸など類例は少ないデザ イン。こちらも昭和27年に古文書と照合し和歌山県吉里出土と判明。もう一つの大英博3 号(ゴーランドコレクション/写真2)は、袈裟襷文の内区が打ち抜かれていることで有名で、かつて“破壊された銅鐸”として紹介されたが、その後の破断面の観察によって、埋納時に破壊されたのではなく出土後の人為的な破壊とみられている。
銅鐸のページ

Photo_2Photo_5スコットランド王立博物館(Royal Museum of Scotland)
扁平鈕式の六区袈裟襷文銅鐸。天理大の置田雅昭さんの報告によると、マンローの収集品で1908年に王立博物館の所蔵となっている。全体に鋳上がりがよく文様は鮮明、所々に鋳掛けがある。身は通常の袈裟襷文だが、鈕両面の文様が異なっている点に特徴がある(B面の内縁にA面にはない小さな重弧文がめぐる)。出土年と博物館所蔵年、寸法から徳島県阿波町出土銅鐸の可能性を指摘するが、文様の特徴などを記録した資料がなく特定できていない。※スコットランド王立博物館は、島根県埋文センターの「銅鐸出土地名表」ではエヂンバラ博物館となっている。
展示室写真出典

フランス国立ギメ東洋美術館(Guimet musee national des Arts Asiatiques)
S佐原眞氏が「最も美しい三遠式銅鐸」と評した通り、独特な雰囲気を持っている銅鐸。鈕の外縁頂部が幅広な点、菱環が太く高いことが特徴だが、袈裟襷の界線が複線でないことも三遠式銅鐸の中では異色なデザイン(フランスっぽい?)。フランスにはこの他、ルーブル美術館にも小型の銅鐸(身25cm前後)が所蔵されているらしい。梅原末治氏によると「誤って志那の遺物の中に加え陳列棚の上の方に」置かれていたという。今でも展示されているのだろうか…
展示室写真出典

キオッソーネ東洋美術館(Museo d'Arte Orientale Edoardo Chiossone)
Photo_6奈良県石上出土銅鐸(2号)と同型の後期初頭の流水文銅鐸。ちょっと野暮ったいデザインの銅鐸だが、全部で3個程しか見つかっていない珍しいタイプ。この銅鐸は『考古資料大観』には載っているが、島根県埋文センターの「銅鐸出土地名表」では見あたらない。「世界ふしぎ発見(08/4/12放送)」でも紹介されていた。キオッソーネ東洋美術館はイタリアの港町ジェノバにあり日本と東洋美術のコレクションで有名
銅鐸のページ


ケルン東洋美術博物館
(Museum of East Asian Art in Cologne)
ベルリン美術館(Staatliche Museen zu Berlin)
S_4ドイツの二つの博物館にも各々1個の銅鐸がある。ケルン東洋美術博物館の銅鐸は、滋賀県野洲市の大岩山出土銅鐸(明治14年)の一つとみられている(写真7)。近畿式銅鐸の初期のもので飾耳がなくなっている。またベルリン美術館(ベルリン博物館)の銅鐸(写真8)は、かつて梅原末治氏により「海外の銅鐸」として最初に紹介された三遠式銅鐸。戦前、梅原氏により静岡県浜松市(旧細江町)中川出土の船渡2号銅鐸と確認されたが、ドイツ敗戦後行方不明となっている。トロイの黄金と同じようにソ連軍に運び去られたのだろうか…

アイルランド国立博物館(National Museum of Ireland Collins Barracks)
ウィーン美術史博物館(Kunsthistorisches Museum Vienna)
この他、アイルランド国立博物館(ダブリン博物館)とウィーン美術史博物館(ウィン民俗博物館)にも銅鐸が展示されているようだが、公式HPで検索してみたが掲載されていなかった。『考古資料大観』にはウィーン美術史博物館の銅鐸は写真が載っている(大型の扁平鈕式の六区袈裟襷文銅鐸)。
※( )内は島根県埋文センターの「銅鐸出土地名表」の名称

S_2欧州に流失した銅鐸は米国に比べて比較的小さなものが多い。大きければいいというわけでもないが、米国の美術館は見栄えのする巨大な銅鐸を収集していることは事実(アメリカ人らしい?)。それに比べると欧州各国にある銅鐸はバラエティに富んでおり、扁平鈕式から三遠式、近畿式まで大小さまざまな、また文様も袈裟襷文から流水文といろいろな型式の銅鐸が観察できる。

参考文献
梅原末治 1985『銅鐸の研究』木耳社(初版1937)
国立歴史民俗博物館1995『銅鐸の美(企画展図録)』毎日新聞社
置田雅昭 1997「出土地不明の銅鐸をめぐって」『宗教と考古学』勉誠社
野洲市歴史民俗博物館 2006『大岩山出土銅鐸図録』
浜松市博物館 2007『浜松市の銅鐸』

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