さぬき市・森広遺跡の巴形銅器-奴国の流通圏
最近の九州における青銅器関連のニュースを三つほどご紹介したい。巴形銅器の鋳型といえば、吉野ヶ里遺跡で見つかったのが初例(写真1/88年と99年)。今回の鋳型が発見されたのは九大筑紫キャンパス建設地の発掘調査で出土したもので、奴国の中心地-須玖岡本遺跡の近傍に当たる。新聞記事には「弥生時代の青銅器で鋳型と製品が一致した例は、銅鐸以外では初めて」とあるが、福岡県古賀市の夜臼・三代地区遺跡群の筒形銅製品(用途不明)の事例(新宮町立歴史資料館)もある。
また、これも最近ニュース(西日本新聞 08/03/26)となっていたが、福岡県春日市の大谷遺跡の銅矛鋳型(写真2)の場合は、70年代に大谷遺跡から鋳型が発掘された当時、立岩堀田遺跡出土の銅矛の形状と一致したことから、奴国で鋳造されて飯塚まで運ばれた可能性が高いと考えられていたが、今回の鋳型破片の接続によって、立岩堀田の銅矛と一致しないことが判明した。
最近の発掘調査で鋳型もかなり発見されているが、なかなか鋳型と製品が一致することはない。我々が今見ているのは当時作られた製品のごく一部であるということなのだろう。
福岡で鋳造と判明-さぬき市森広遺跡の巴形銅器
四国新聞(08/04/18)さぬき市の森広遺跡で明治時代に出土した巴形[ともえがた]銅器3点が、福岡県春日市の九州大筑紫地区遺跡群で1998年に出土した弥生時代後期(2世紀)の石製の鋳型で鋳造されていたことが分かり、九州大埋蔵文化財調査室が17日、発表した。
同調査室によると、弥生時代の青銅器で鋳型と製品が一致した例は、銅鐸[どうたく]以外では初めて。祭祀[さいし]などに使われたと考えられる青銅器が、九州から四国へ運ばれていたことを示す物証といえる。同調査室の田尻義了学術研究員は「弥生時代の政治状況や経済交流が垣間見える貴重な発見だ」と話している。
また、青銅器は同じ鋳型で何回も鋳造されたとこれまでも推定されていたが、3点の巴形銅器が鋳型と一致したことで、複数回の鋳造が現物資料によって裏付けられた。
さぬき市教委によると、森広遺跡では弥生時代に属する巴形銅器が計8点出土。現在は、すべて東京国立博物館が所蔵しており、同市の寒川町図書館にレプリカを展示しているという。巴形銅器は、脚が7本で、脚を含めた直径が約12センチ。九州大所蔵の鋳型は銅器全体の約4分の1の破片だが、田尻学術研究員が1月、東京国立博物館所蔵の銅器と重ねたところ、脚の形や相互間の寸法、裏面の文様がすべて一致したという。
西谷正・九州大名誉教授(考古学)は「青銅器の生産と流通の状況が分かる興味深い発見。九州の巴形銅器が四国で流通した背景が、今後の研究課題となる」と話している。
巴形銅器 弥生時代から古墳時代にかけて作られた青銅器。半球状の中心部の周りに、かぎ形の突起が渦巻き状に付いている。甕棺墓(かめかんぼ)や古墳の副葬品として出土する例が多い。裏側にひもを通す仕掛けがあり、古墳時代の出土例から、主に盾に装着したとみられる。南西諸島で魔よけや火よけのため玄関につるすスイジガイと形が似ているため、弥生時代も魔よけや敵の攻撃を避ける意味があったと考えられている。
写真は森広遺跡の巴形銅器:出典は『日本の古代遺跡』8香川(保育社/1983)
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