宗像市・田熊石畑遺跡で銅剣や銅戈出土-弥生時代の王墓
九州で弥生時代の銅剣などがたくさん副葬された墓が見つかると「王墓」と呼ばれる。奴国の須玖岡本遺跡や伊都国の三雲・井原鑓溝遺跡、吉野ヶ里遺跡の墳丘墓は有名だし、日本最大のボウ製鏡が出土した平原遺跡に到っては“卑弥呼の墓”という人までいる。近年見つかった王墓だと、福岡市西区の吉武高木遺跡と吉武大石遺跡がよく知られている。他にも、佐賀県唐津市の宇木汲田遺跡、福岡県古賀市の馬渡束ヶ浦遺跡、昨年ニュースとなった遺跡だと唐津市の桜馬場遺跡(読売新聞07/11/22)がある。
先日の講演会(08/07/19)で、下條信行先生から「弥生時代の青銅製武器の格付けは、銅矛>銅戈>銅剣となっており、その証拠に、墓の副葬品の数は銅剣が最も多く、銅戈、銅矛の順に少なくなる」と教えられた。今回の田熊石畑遺跡の青銅武器も銅剣4本、銅戈1本が出土しており、下條理論がきれいに当てはまる。
弥生中期の青銅武器が宗像の遺跡で出土、有力首長の墓か
読売新聞(08/06/21)西日本新聞(08/07/02, 08/07/15)
田熊石畑遺跡から出土した銅剣や銅戈(21日午前10時9分、福岡県宗像市で)=高梨忍撮影 福岡県宗像市は21日、田熊(たぐま)石畑(いしはた)遺跡(宗像市田熊2)の墓から、青銅武器の銅剣4本、銅戈(どうか)1本が出土したと発表した。弥生時代中期前半(紀元前2世紀)の墓から出土した青銅武器としては最も数が多く、市教委は「一帯を治めた有力首長の墓だろう」としている。
4月から行っている発掘調査で見つかった。銅剣は長さ27~43センチ、銅戈は同24センチ。いずれも細形で被葬者の胸付近にそれぞれ切っ先を足元に向けて置かれていたとみられる。ほかに、装身具として管玉(くだたま)十数点、ヒスイ製の垂飾(すいしょく)1点が出土しており、これらは髪飾りだった可能性がある。
北部九州では、弥生時代中期から青銅武器が副葬され始める。この時代の墓ではこれまで、福岡市の吉武(よしたけ)高木(たかぎ)遺跡と福岡県古賀市の馬渡(まわたり)束ヶ浦(そくがうら)遺跡から銅剣など4本が出土している。
中国の歴史書「漢書地理誌」はこの時代から1世紀ほど後の倭に〈百余国〉が存在したと記す。弥生時代の首長墓変遷に詳しい柳田康雄・国学院大教授(考古学)は「吉武高木遺跡の墓と違って鏡こそ出ていないが、馬渡束ヶ浦遺跡とともに3者はほぼ同等のランクと考えられる。この時期にはすでに、福岡平野に限らず玄界灘沿岸で突出した首長を抱くクニが成立していたのだろう」と話している。
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コメント
是非田熊遺跡後は公園にして欲しい
投稿: 田熊遺跡ファン | 2008年12月15日 (月) 17時24分
>田熊遺跡ファン様
宗像市で土地を買い取り保存する動きになってきましたね!
>「青銅武器最多出土の田熊石畑遺跡、宗像市が保存へ」(2009年2月15日 読売
新聞)
>http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/bunkazai/902/bu_902_021501.htm
投稿: 向井一雄 | 2009年5月10日 (日) 07時12分