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2008年10月 9日 (木)

吉野ヶ里銅鐸(佐賀1, 福田型, 横帯文, 28cm)

Photo9/13 九州国立博物館で開催されている「よみがえる弥生都市」展(08/8/20~11/16)で吉野ヶ里遺跡で出土した福田型銅鐸を見てきた(写真1)。“福田型銅鐸”と呼ばれる銅鐸群は、1979年に安永田遺跡(佐賀県鳥栖市)で鋳型が出土し、九州産の銅鐸と考えられている。福田型は現在まで吉野ヶ里例を含めて5例見つかっており、奇怪なその文様から“邪視文銅鐸”の異名を持つ。これまで福田型は4例(足守鐸は未見)観察する機会があり、吉野ヶ里銅鐸も吉野ヶ里遺跡展示室でレプリカをみていたが、実物の方が鈕の文様などが鮮明なようだ。

吉野ヶ里銅鐸は発見時の衝撃で鈕が細片化、鐸身も一部破損しており、特にB面は大きく欠損している。鋳上がりがよくない部分は文様が不鮮明な箇所もある。

福田型は通常の銅鐸と異なり「複合鋸歯文」の多用が特徴で、吉野ヶ里銅鐸も鈕の外縁から鰭にかけて複合鋸歯文で飾られている。観察できたのはA面で、内向き鋸歯文の斜線がR,外向き鋸歯文はLとなっているが、B面は逆になっているという。鈕の菱環部は綾杉文が右向きに施されるが、この菱環部は擬似的なもので、内縁部の綾杉文と一体になった内縁文様帯と捉えるべきだろう。菱環部の軸線が若干突出するが、鈕全体は一定の厚さを保ちつつフラットで、むしろ外縁と内縁を区切る三重界線の方が突線状を呈する。また吉野ヶ里銅鐸の鈕は外縁頂部の幅が広く、後の三遠式などにみられる小判形鈕に近い。

鐸身部はニ区に分けられ、その間に三つの横帯文が巡る-いわゆる二区横帯文である。横帯文の構成は、二条の綾杉文とその間の無文帯で、第2横帯と第3横帯は二条の綾杉文の上と下にも無文帯を置く。福田型の特徴として、第1横帯が舞に接さず、空白部分を残す。吉野ヶ里鐸の場合、鋳上がりのせいか横帯文の綾杉文と無文の間に高低差がはっきりしないが、他の福田型では無紋帯が一段深く彫り込まれ、綾杉文帯が浮き出るように作られている。鈕もそうだが、福田型鐸を少し斜めから観察すると、表面の文様が凹凸で表現されていることがわかる。近畿の銅鐸が基本的にライン(界線)だけで文様を表現しているのと手法が異なっている。

Photo_2吉野ヶ里銅鐸と同笵とされる出雲・木幡家銅鐸(写真2)には片面だけ邪視文と鳥が描かれている。編年的には吉野ヶ里鐸と木幡家鐸は福田型の中でも大型で、最後に位置づけられている。北島大輔さんは笵傷痕を根拠に吉野ヶ里鐸→木幡家鐸と鋳造順を推定しているが、最終的に文様が鋳型から削り取られたとは考えられないだろうか?

古式銅鐸の断面形が扁平な傾向があるのに対して、福田型はコロンとした丸こっい形状をしている。また正面から見たフォルムも左右が緩やかに裾広がりとなっていて、鰭の端部が鋭角的である。同時期のでっぷりとした外縁付鈕式鐸に比べると、形態的にも洗練されており、この辺りも近畿の銅鐸の単なる模倣ではない独自の美意識を感じさせるデザインといえる。

鋳造技法的には、通常の銅鐸にみられる鐸身の上方左右と裾部の型持孔がない点が福田型の特徴で、ハバキ(幅木)の使用が想定されている。木幡家鐸には鐸身に型持孔があるが、これもダミーで鋳造後穿孔されたものらしい。

今回住所を調べて、吉野ヶ里遺跡の所在地が「佐賀県神埼郡吉野ヶ里町」となっていることを知った。

参考文献
北島大輔2004「福田型銅鐸の型式学的研究」『考古学研究』51-3
佐賀県教育委員会2002『吉野ヶ里銅鐸-吉野ヶ里遺跡大曲一の坪地区発掘調査概要報告書-(佐賀県文化財調査報告書第152集)』

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