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2008年11月

2008年11月27日 (木)

松江市の西川津遺跡で銅鐸片出土

08ブログの更新をさぼっていたら、先月の22日に松江市の西川津遺跡で銅鐸片が出土していた(写真1)。おまけに地元では「砕かれた銅鐸」という速報展まで開催されていた(10/25-11/10八雲立つ風土記の丘資料館 , 11/12-30島根県立古代出雲歴史博物館)。11/3の野洲市銅鐸博物館でのシンポジウムでは、松本岩雄さん(古代出雲歴博)はこの西川津の銅鐸片については全く触れられなかった(何故だろう?)

97最近は集落跡の発掘などで銅鐸片-破砕銅鐸が出土することは珍しくはない。しかし今回の銅鐸片は外縁付鈕式~扁平鈕式古段階のものらしい。西川津遺跡は松江市街の北にある出雲東部では拠点となる弥生集落。西川津では97年にも流水文銅鐸の身上半部の銅鐸片が出土している(写真2)。今回の出土地点は前回出土地点から25mしか離れておらず(地図)、同一個体の可能性もあるらしい…鉛同位体比を照合すれば判明するだろう。

出土地点は朝酌川の河川敷。河川改修に伴う発掘調査で、銅鐸片は古墳時代中期(5世紀頃)の河川堆積層から出土したというから、銅鐸が破壊され埋没した年代は正確にはわからない。前回の銅鐸片は弥生前期~古墳時代初頭の土器と共伴しているから、これらの銅鐸が弥生時代の西川津遺跡と関係があることは間違いないだろう。

Photo「マツリで壊されたか、再利用か…」などと新聞記事には書かれているが、問題は破砕銅鐸として非常に古い段階の銅鐸であることだろう。破砕銅鐸の事例は現在30例ほどが知られているが、ほとんどが弥生後期の突線鈕式鐸の破片で、扁平鈕式鐸の事例が大阪の亀井遺跡や香川の森広遺跡、旧練兵場遺跡で見つかっているだけ。

外縁付鈕式~扁平鈕式の流水文銅鐸というと、出雲ではあの加茂岩倉遺跡に大量に埋納されていた型式であり、西川津の銅鐸片は出雲への銅鐸の搬入時期が銅鐸の示す年代(=製作年代)よりも意外と新しい可能性を暗示しているのかもしれない。そして出雲東部と西部での銅鐸祭祀終焉の様相が相違していた状況など、いろいろと考えさせられる点も多く興味深い。

西川津遺跡出土の銅鐸片について
(報道発表資料)
平成20年10月22日 島根県埋蔵文化財調査センター
 
1.遺跡名:西川津(にしかわつ)遺跡 
2.所在地:松江市西川津町
3.調査主体:島根県教育委員会(埋蔵文化財調査センター)
4.調査の経緯:県道松江島根線建設に伴い、島根県土木部道路建設課から委託を受け、平成19年度から埋蔵文化財調査を実施している。西川津遺跡の総面積は約200,000平方メートル、今年度の調査対象面積は約250平方メートルである。
5.調査概要:西川津遺跡は、松江市北東部を流れる朝酌川に沿って位置している。西川津遺跡ではこれまでに河川改修工事に伴って1977年から2001年にかけて発掘調査が行われており、掘立柱建物跡、弥生土器、石器、木製品などが出土している。島根県における弥生時代における集落遺跡の中心的な遺跡の一つである。 銅鐸片は古墳時代中期(5世紀頃)の河川堆積層から出土した。
6.銅鐸片について:今回出土した銅鐸片は、縦3.0㎝、横5.0㎝、厚さ0.1㎝、重さ9.0gである。鋸歯文と下辺横帯が認められるので、銅鐸の下部と考えられる。全体に鋳上がりが不良で、長い間にすりへっており「す」が入ったような小さな孔が内外面に多く認められる。紋様の状態から、Ⅱ-Ⅲ式(外縁鈕式-扁平鈕式:銅鐸を四段階に分けたうちの二-三番目)の銅鐸(弥生時代中期に製作)で、復元し高さは40cm前後と考えられる。なお、横断面が不自然に湾曲しているので、人為的な力が加わった可能性もある。
7.意義:
(1)今回の発見により県内出土銅鐸は57個目、出雲部では53個目となった。なお、西川津遺跡では平成9年に流水文銅鐸の破片が出土しており、同一の遺跡で複数の破片が出土したことになる。
(2)銅鐸の出土例として、神庭荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡のように完全な形で埋納する例と、今回の出土例や出雲市青木遺跡のように、破片の形で出土する例があり、銅鐸研究を進める上で良好な資料となった。

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