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2009年5月

2009年5月30日 (土)

海外美術館の銅鐸(アジア編)

昨年、米国と欧州の美術館に所蔵・展示されている銅鐸を紹介した「海外美術館の銅鐸」(米国編08/6/26, 欧州編08/9/4)-第三弾はアジア編(といっても2箇所しかないが…)。

200702260301korea2014韓国国立中央博物館National Museum of Korea
まず、最初はお隣の韓国-2005年に龍山にリニューアルオープンした韓国国立中央博物館のアジア館-日本室に、和歌山県日高町出土の荊木(向山)銅鐸が展示されている(写真1)。実はこの銅鐸は東京国立博物館から貸し出されたもので、銅矛や銅戈といっしょに展示されていた。私が訪れたのは2007年5月なので定期的に他の銅鐸と入れ替えているかもしれないがその後のことはわからない。

L1r2荊木鐸は2個出土しており、よく似ているが(写真2)、韓国に貸出展示されているのはおそらく2号(まさか中央博に日本の銅鐸があるとは思わなかった…次の機会あれば東博の図録持参で観察してきたい)。いずれも後期の突線鈕式の近畿式銅鐸で80cm台とあまり大きくない。1号(左)には中央の縦帯に軸突線が入るので4式、2号(右)は3式に分類され2号の方が88.6cmと若干大きい(1号は82.2cm)。
展示室写真出典


Sイラク国立博物館
Iraq Museum International
1932年(昭和7)大阪府太子町茶臼山山麓で出土した茶臼山九流銅鐸は発見後、個人蔵を経て東京国立博物館の所蔵品となっていたが、現在日本にはなく、イラク国立博物館の蔵品となっている(写真3)。これは1970年にイラク国との考古遺物交換品に選ばれたためで、その後2003年~イラク戦争(第二次湾岸戦争)によって、現在、実見はおろか所蔵の確認すらできない状態となっている。米軍侵攻時の混乱でイラク国立博物館の所蔵品の1万5千点が略奪や被害にあったと報道されており、茶臼山鐸の行方が気遣われる。

茶臼山鐸は、時代的にもレプリカ制作などされておらず、僅かに白黒写真が残されていただけだったが、最近末永雅雄氏旧蔵の拓本資料があることがわかった(中野2008)。拓本は片面だけだが、この資料の発見により詳細な文様観察が可能となった。茶臼山鐸は高さ42.1cmの扁平鈕式新段階の六区袈裟襷文銅鐸で、いくつかのバリエーションのある六区袈裟襷文銅鐸の中でも典型的な正統派といえるタイプ。難波分類の2類の中でも後出するとみられている(鍋島1998)。欧州編でベルリン美術館の船渡2号鐸を紹介したが、この茶臼山鐸も戦争の犠牲となった銅鐸といえそうだ。

Photoイタリア国立東洋美術博物館Museo Nazionale d' Arte Orientale "G.TUCCI"
茶臼山鐸のように交換文化財となった青銅器は他にもある。2006年夏にイタリア-ローマにある国立東洋美術博物館を訪れた際、香川県出土の中広形銅矛が展示されているのを見た。柄部分に漢数字で八一二(縦書き)と小さく筆で書かれていて、出土年か収蔵年かは不明だが、説明には1951年とあり、出土地については、遺跡や地名なく単に“香川”となっていた。

Photo_2すわこれも明治の頃の国外流出品かと思われたが、帰国後、香川県高松市の知人Yさんに尋ねたところ、この銅矛は高松市郷東町下ノ山(石清尾山北麓緩斜面)で1878年に出土したもので、中広形銅矛が2点出土し、当初は2点とも東京国立博物館に収蔵されていたが、その後、1点がイタリアの国立東洋美術博物館に所蔵となっているという(もう1点の銅矛は813と続き番号なので東博に収蔵された時の登録番号らしい)。1951年は日本からイタリアへ渡った年である可能性が高く、おそらくイラク国立博物館の場合と同様、何らかの経緯で交換文化財に選ばれたのだと思われる。写真4はイタリアで撮影したものだが、ピカピカに磨かれて赤銅色を呈しており、『讃岐青銅器図録』の写真5と比べると刃部先端が破損している…

<参考文献>
東京国立博物館2005『東京国立博物館図版目録-弥生遺物篇(金属器)増補改訂』中央公論美術出版
鍋島隆宏1998「石川流域出土の銅鐸について」『太子町立竹内街道歴史資料館 館報』第4号(平成9年度)
中野咲2008「茶臼山銅鐸について-末永雅雄先生旧蔵拓本資料の整理から-」『青陵』第126号
瀬戸内海歴史民俗資料館1983『讃岐青銅器図録』

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2009年5月16日 (土)

推定淡路島出土銅鐸(兵庫23, 突線鈕1式, 2区流水文, 身37.3cm)

Photo昨年秋の辰馬考古資料館の秋季展でこの銅鐸を初めて見ることができた。図録の写真などを最初に見た時の印象は、はっきり言って“ちょっと気持ち悪い”銅鐸だなと感じていた(写真1)。

銅鐸に興味を持った最初の頃は、8c7xとか6c2xといった流水文の見方がよく分からず戸惑っていた。佐原眞さんの「流水文」『日本の文様8 水』(1972年/光琳社出版)や難波洋三さんの「同笵銅鐸2例」『辰馬考古資料館考古学研究紀要』2(1991年)を読んで、ようやく流水文に対する苦手意識がなくなってきたところでこの銅鐸と対面したわけだが、様々な点で興味深い内容を持った銅鐸であることを知った。

Photo_2まず流水文の型式が「縦型」であること…これはこの銅鐸が摂津産銅鐸(東奈良産)の流れをくむものであることを示しているのだが、他にも各所に摂津産の特徴を見い出すことができる。銅鐸全体のデザイン構成は、上下に比較的シンプルな縦型流水文を二つ配置しているが、中央-上下の流水文の間に連続木の葉文を挿入しているのが目に付く。木の葉文は展示されていた裏面の下辺横帯にも施されている(写真2)。この木の葉文(写真3)は東海派と呼ばれる銅鐸に見られる文様であるため、この銅鐸も東海派に分類されている。

また鐸身最上部(舞の直下)には連続鋸歯文の横帯を置いており、下辺横帯も連続鋸歯文+斜格子文帯と流水文銅鐸では他に類例がない-この鐸身最上部の連続鋸歯文は摂津産の銅鐸に必ずのようにあるもので、下辺横帯の上に2条、下に3条の突線がめぐる。そしてこれがこの銅鐸の最も特徴的なところかもしれないが、流水文内を通常の1束5条の平行線条のうち2条を斜線に替え綾杉文としている。おそらく最初に見た時の違和感はこの綾杉文のせいだと思われ、見ていて目がチラチラしてくる…以前にも取り上げたことがあるが幻視効果を狙ったデザインなのかもしれない。

この他、左右の鰭には三対の飾耳が付いているが、この飾耳も内部に綾杉文があるタイプで摂津産と推定される鈴鹿市磯山鐸などに似ている(綾杉の向きは推定淡路鐸が外向き、磯山鐸は内向きだが)。また左右の鰭の連続鋸歯文は右がR鋸歯文、左がL鋸歯文と使い分けられ、下辺横帯の連続鋸歯文はL-Rの交互鋸歯文となっている。裾部に型持孔の見あたらない点も摂津産の特徴が表れている。

Photo_3この銅鐸は出土後に改変を受け、鈕を失い舞と身上部の型持孔も埋められている。鰭の飾耳に古い特徴を残していることから、案外、失われた鈕には外縁付鈕式段階の摂津産銅鐸のように飾耳が2個付いていたかもしれない。身の断面形状は扁平ではなくコロンとしている。

図録(辰馬2008)には「東海派に属する銅鐸は、ほぼ袈裟襷文銅鐸であるが、29(推定淡路島鐸)のみは流水文である。縦型流水文の系譜を引いているとみられる」とある。東海派銅鐸の製作工人が摂津産銅鐸工人の系譜を引くとされる難波さんは、この銅鐸について「東海派に属する唯一の流水文銅鐸である伝淡路出土突線鈕1式二区流水文銅鐸は、6c2x複合縦型流水文を飾る特徴や、身の上縁に鋸歯文の横帯をもつ特徴が、外縁付鈕2式縦型流水文銅鐸と共通しています」と述べている(難波2002)。

東奈良から出土した鋳型は流水文が多いため、摂津産銅鐸と東海派銅鐸は一見関係がないようにみえるが、この推定淡路島鐸の特徴的な意匠が、東海派のルーツが摂津産の銅鐸にあることを物語っているといえるだろう。

<参考文献>
辰馬考古資料館2008「東海派の銅鐸」『展示の栞34 銅鐸から銅鏡へ』
難波洋三2002「八王子銅鐸の位置づけ」『銅鐸から描く弥生時代』学生社
辰馬考古資料館1978「資料の解説-12流水文銅鐸」『銅鐸』

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2009年5月13日 (水)

大阪歴史博物館「蔵出し名品展」で銅鐸公開

Photo4/29~開催中の大阪歴史博物館の特別展「蔵出し大阪歴史博物館名品展」で伝播磨出土銅鐸が公開されていることを知った。

以前、大阪城内にあった大阪市立博物館時代には常設展示されていたようだが、リニューアルされてからは「大阪市と関係がない遺物」という理由で展示されていなかった。この銅鐸も今回を逃すとなかなかお目にかかれないかもしれない。

瀬戸内渦巻派(横帯分割型)の優品で、大きさも58.7cmと同銅鐸群の中でも最も大きく、鋳上がりも美しい銅鐸である。

大阪歴史博物館にはこの他に、八尾市来恩寺寄託の恩智都塚山鐸も保管されているが、今回こちらは展示されないらしい(レプリカは八尾市立歴民資料館に常設展示されている)。


特別展「―秘蔵のお宝一挙大公開― 蔵出し 大阪歴史博物館名品展」
平成21年4月29日(水・祝)~6月15日(月)

大阪歴史博物館は、市民の皆様からの寄贈・寄託などのご協力を得て、さまざまな優れた文化財を収集・保管し、現在では総数約12万点を超えるに至っています。本展覧会では、これらの国内のみならず海外の文化施設からも注目を集め、大阪市が世界に誇るかけがえのない財産である数々の文化財の中から優品・名品を選りすぐり、国宝・重要文化財を中心として、これまで公開する機会の少なかった珠玉の文化財を一挙に公開するものです。
今後も、大阪の地域博物館として大阪の歴史や文化を紹介する役割と、国内外の優れた文化財を市民の皆さんの展観に供し、その文化的ニーズに応える役割を果たしていきたいと考えています。


大阪歴史博物館名品展:土偶や銅鐸、江戸期の地図…国宝・重文など150点/来月15日まで


大阪歴史博物館(大阪市中央区大手前4)が所蔵・保管している文化財の名品を展示する「蔵出し 大阪歴史博物館名品展」が同館で開かれている。6月15日まで。縄文時代の土偶、弥生時代の銅鐸(どうたく)から江戸時代の地図まで、国宝や重文を含む約150点を展示。このうち、江戸時代に、北海道で近江商人とアイヌの人たちの交易ぶりを描いた屏風(びょうぶ)「江差松前屏風」は26年ぶりに公開されている。のれんや壁に家印がある近江商人の店舗や、漁船から揚げられたニシンの加工場などが描かれた貴重な資料になっている。関ケ原の合戦の勝利記念に徳川家康が描かせたとされる「関ケ原合戦図屏風」もある。(毎日新聞 2009年5月13日地方版

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2009年5月12日 (火)

銅鐸コイン-地方自治法施行60周年記念500円貨幣

1_2先日、「銅鐸コイン」がようやく届いた。

地方自治法施行60周年を記念した、地方自治法施行60周年記念5百円記念貨幣で、昨夏、古代出雲歴博に行った時、年末に発行されることを知って、造幣局に申し込んだのだが、振込用紙が届くのに2ヶ月、すぐ振り込んだのに商品が届くまで、またまた2ヶ月という超お役所仕事で、忘れた頃に到着となった。

2樹脂製のカードに収まっているので、直接触ることはできないが、保管しておくには汚れないしいいかもしれない。銅鐸の横には加茂岩倉銅鐸23号に鋳出された鹿と猪?(四足動物)の絵がいっしょに表されている。ちなみに中央の銅鐸は35号らしい。

コインショップでは高額の値が付けられているが本当だろうか?

調べてみると、銅鐸の切手も発行されているらしいので、機会あればまた紹介したい。

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2009年5月 9日 (土)

八尾の銅鐸-『河内どんこう』No.87(2009/2)

No87最近、『河内どんこう』という大阪の地域歴史雑誌に「八尾の銅鐸」という小文を書かせていただいた(『河内どんこう』No.87 2009/2)。

大阪府の八尾市内からは銅鐸が3個、銅鐸片が2個出土している。
・恩智垣内山銅鐸
・恩智都塚山銅鐸
・跡部銅鐸
・亀井遺跡出土銅鐸片(扁平鈕式)
・亀井遺跡出土銅鐸片(突線鈕式)
大阪府出土の銅鐸の総数が約30個なので、八尾は銅鐸が比較的多く出土している地域といえる。

小文では、八尾市内出土の銅鐸について、出土の経緯や各銅鐸の特徴や型式、産地推定など、これまでの研究成果を解説しながら、大阪と八尾の銅鐸の問題点も論じている。
主な項目は
・銅鐸の部分呼称・型式分類
・八尾市域出土の各銅鐸の説明
・摂津産と河内産
・銅鐸の流通
・銅鐸の埋納
・近畿式銅鐸の製作地
・埋納と破壊

『河内どんこう』は八尾市内の書店店頭(やお文化協会HP掲載)か、NPO法人やお文化協会に申し込めば購入できる。 購入方法などについては、やお文化協会さんにお問い合わせください。

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2009年5月 8日 (金)

橿原考古学研究所附属博物館「銅鐸展-弥生時代の青銅器鋳造-」

Photo奈良県立橿原考古学研究所附属博物館で今秋、「銅鐸展-弥生時代の青銅器鋳造-」(10/3~11/23まで)が開催される。

副題が“弥生時代の青銅器鋳造”となっており、単に銅鐸に関する特別展ではなく弥生時代の青銅器祭祀の盛衰と青銅器鋳造技術の発展との関係に迫るという従来型の銅鐸展とは少し違った新しい観点からみた内容となるらしい。

10/3には橿考研「友史会」主催で、名古屋工業大学で公開講演会も開催される(名古屋工業大学 51号館101講義室 13時 定員400名)

秋季特別展「銅鐸展-弥生時代の青銅器鋳造-」
10月3日(土)~11月23日(月・祝)
弥生時代を象徴する青銅器である銅鐸。その銅鐸を含めた青銅器の鋳型は石製から土製へと変化します。この鋳造技術の変化について、近年各地で増加してきた鋳造に関係する資料とあわせて迫ります。
《研究講座》会期中3回開催
《展示解説》会期中3回開催
《遺跡見学会》会期中1回開催

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2009年5月 7日 (木)

銅鐸破壊実験-兵庫県立考古博物館

Photo2月初め、兵庫県立考古博物館で銅鐸破壊実験(「銅鐸を壊す」もよおしレポート(2009/2/8))が行われた。残念ながら、実験を見ることは叶わなかったが、先日博物館で実験で破壊された銅鐸片を観察することができた。

最近(といっても30年くらい前からだが)、集落遺跡から銅鐸の破片が出土する事例が増えており、30例を越える。このような破片で出土する銅鐸のことを「破砕銅鐸」と呼び、破片で出土する理由については諸説あることは以前のブログでも何度か取り上げた。破砕銅鐸には比較的飾耳の部分が多いため、祭祀の最中に不意に壊れたとする意見もあったが、鰭や鐸身部分の破片もみられ、銅鐸本体がバラバラにされていることはほぼ確実視されてきている。

それでは銅鐸はどうしたら壊れるのか(どのように壊したのか)について知るために、今回実験が行われたわけだが、いくつかの興味深い事実が判明した。銅鐸片の観察所見に博物館の実験レポートをまじえながら紹介したい。

まず実験では、銅鐸を叩いてみたがこれでは壊れないことが判明-使用中に壊れた説はここでも否定されたわけで、飾耳部分を失った銅鐸などについては鉄器などで切り取った可能性が高くなったと言える。

次に銅鐸を焚き火の上で熱して水をかけて急冷したが、シューシューと音はするものの銅鐸は壊れなかった。この「銅鐸を火で熱して急に水をかけたら割れる」というのは、佐原眞さんが1979年の著書(『日本の原始美術7 銅鐸』(講談社))の中で、久田谷銅鐸(写真2)について「火で熱して水をかけて破砕したかのように曲がった破片もふくまれている」と書いたのが最初らしい。これに対して森浩一さんは「銅鐸を火で熱して急に水をかけたら割れるという人もいますけれども、まだ実証されていません」と反論していた(森浩一『銅鐸と日本文化』)。確かにこれまで検証はなされておらず、今回は佐原説を検証する実験となった。

この後、もう一度銅鐸を10分間火にかけ、すぐに叩くと今度は簡単に壊れてしまった。この時、熱しはじめて一定時間経過すると銅鐸の色が金色→赤茶色に変色したということで、久田谷例などに変色して褐色となっている破片があるのが思い出される。

銅鐸破壊の最初の一撃は鐸身裾のちょうど内面突帯のある辺り(写真1左側面の右下)で破片もかなり凹んでいた。写真右側面は何度も叩いたらしく粉々に砕かれてしまっている。実験でできた銅鐸片を見た第一印象として、破断面がギザギザしており、打撃による衝撃でひび割れが表裏ともに走っている。出土した破砕銅鐸の破断面は直線状でひび割れもあまり見たことがない。また適当に殴打したせいかもしれないが、様々な方向に割れており、多くの破砕銅鐸が5cm角程度の大きさに揃えたような状況であるのとも異なっている。

Kutadani内面突帯のある部分や鰭と身、袈裟襷と内区、舞と鈕など-厚みに変化のある部分を殴打すれば、そのラインで壊れやすいのは想像できるし、今回の実験でもそういった箇所で綺麗に割れている破片もあった。しかし出土した破砕銅鐸の場合、袈裟襷や突線の方向に直交して壊れているものもあり、壊れやすい箇所を壊したというより-もっと意識的に形を揃えて小片化している印象が強い。久田谷銅鐸の報告では、「破片の中には、亀裂の入ったものや、捩れたり歪んだものはあるが、打撃痕や鑢状工具で切り離したような痕跡は認められない」とある(参考文献)。今回の実験で焚き火程度の温度で熱して衝撃を与えることで、銅鐸が比較的簡単に壊れることはわかったが、出土した破砕銅鐸の状態とは破損状態が異なっており、さらに「謎」は深まったと言えるかもしれない。

博物館の実験レポートでは“「湿ったおかき」のような感じ”とあるが、まさしく破片の感じをよく言い表している。一度水をかけたため銅鐸の温度が下がってしまったのがよくなかったようだとの意見もお聞きした。今回の実験では、錫15%の中期銅鐸に近い成分構成の模鋳銅鐸での実験だったが、次回は錫の少ない後期銅鐸に近い成分の銅鐸で実験を行う計画とのこと。合金の性質的には、錫が多い方が硬く割れやすいはずだが…(錫成分の多い銅鏡などが割れている状況も破断面は直線状)実際にちゃんとしたデータを取るなら、合金成分と厚みなど何段階かに分けたサンプル片を作り、これをいくつかの条件(温度+時間)で熱して衝撃を与えてみるというような実験をしなければならないのだろう。機会があれば、銅鐸の復元製作をされている小泉武寛さん(鋳金家)がどのような意見をお持ちなのか伺ってみたい。

〈参考文献〉
加賀見省一 1982「兵庫県久田谷遺跡出土の銅鐸片」『考古学雑誌』68-1

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