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2009年6月22日 (月)

日本考古学協会ポスターセッション「弥生時代における熔銅技術とその問題点」

Photo_2先月の5/31に早大で開催された考古学協会のポスターセッションで、愛媛大の村上恭通さんが「弥生時代における溶銅技術とその問題点」という非常に興味深い発表をされていた。村上さんからも直接いろいろとお話を伺えて、久しぶりに感動してまだ興奮が醒めやらない。

Photo_2従来、弥生時代の青銅器を造る際の原料を溶かすには、写真2(田原本町2006)のような小規模な炉が使用されたと考えられてきた。写真3(田原本町2006)は一昨年、奈良県田原本町の唐古・鍵考古学ミュージアムで復元実験(小泉武寛さんによる)が行われた際の様子だが、炉で溶かされた青銅が一旦取瓶(とりべ)に取られて(写真3-(6))、それから鋳型に流し込まれている(写真3-(7))。

Photo_3しかし、不思議なことに弥生時代の鋳造関連の遺跡からは、はっきりとした炉の跡が見つからない(唐古・鍵では炉と見られる遺構が検出されているが…)。出てくるのは鋳型片、中子片、送風管(鞴羽口)、銅鐸片、銅鏡片、銅滴、棒状銅製品、錫塊などなど…そして高坏状土製品というものがある。

高坏状土製品の例
唐古・鍵遺跡の高坏状土製品・送風管
楠遺跡の高坏状土製品


Photo弥生時代の高坏状土製品(写真4-村上2009)は、これまで炉から鋳型に鋳込む時使う「取瓶」と考えられていた。しかし、村上さんが今回発表された説は、取瓶とみられてきた高坏状土製品が、実はそれ自体が「土器炉」だったというもの(この土製品を「坩堝炉」だとする説は神崎勝さんが想定されているが(神崎2006)、外部から熱を受けた痕跡がない)。

これまでも使用する際は、この土器の内壁に粘土を分厚く塗ったと考えられいた(写真5-田原本町2006)。村上さんは、粘土を内貼りした土器(罐)内部に直接燃料(木炭)を充填して、その上面に素材(青銅片)を乗せ、そこにL字形に曲がった送風管(折れ羽口)で上方から風を吹き下ろすという方法を考えた(写真1-村上2009)。今回のポスターセッションでは、この方法で実際に実験した映像も見せていただいた。

Photo_3この方式だと鞴からの送風管の先端は直接、炉の中に挿入されていないため、例え焼けていても、青銅やスラグ(銅滓)が付着したり、溶融したりはしていない。先端がL字に曲がっているのも下側に吹き下ろすためと考えれば理解できる…これまでどうしてL字に曲がっているのか、銅が付着したりしていないのか、説明が難しかった弥生時代の鞴羽口の謎がこれで解ける。

内側の粘土は土器のように焼成していないため、屋外や土中で放置しておくと、流れてなくなってしまう…残された高坏状土製品の内側に粘土が付着していないわけである。また、村上さんの実験では銅を流し終えると、不思議と土器内に青銅はほとんど残らないということで。銅滴は飛び散るが、これは貴重な材料として回収されてしまうので遺跡にはほとんど残らない。村上さんによると、中国湖北省の盤龍城ではこの内側の粘土が残存した資料が出土しており、奇しくも村上さんらと全く同じやり方で復元実験をしていたという。

40kg現在出土している高坏状土製品で一度に熔解できる青銅の量は最大4kg程度ということで、45kgもある日本最大の大岩山銅鐸の鋳造には、12基以上の土器炉が必要となる計算になる(写真6-村上2008)。鋳型への流し込み作業は一発勝負であり、これだけ多数の土器炉を同時にタイミングよく稼働させる様はまるで“ダンス”のようで、青銅器鋳造が「秘技的なもの(非公開)」から「マツリ的なもの(公開)」に変貌していくと考えられるという。それが返って青銅器の呪術性の喪失を招いたという村上さんの指摘は、青銅器祭祀の終焉を考える上で今後重要な観点になると予感させる。

<参考文献>
村上恭通 2009「弥生時代における熔銅技術とその問題点」『日本考古学協会第75回総会 研究発表要旨』日本考古学協会
村上恭通編 2008『愛媛大学考古学研究室第9回公開シンポジウム 弥生・冶金・祭祀』愛媛大学考古学研究室
田原本町教委 2006『弥生時代の青銅器鋳造(唐古・鍵考古学ミュージアム・平成18年度秋季企画展図録)』
神崎勝 2006『冶金考古学概論』雄山閣

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コメント

はじめまして。
事後報告で恐縮ですが、ふいご関連の記事としてリンク、一部引用させていただきました。m(_ _)m

投稿: 釜斎 | 2009年8月 9日 (日) 02時13分

釜斎様

コメントありがとうございます。記事リンク・引用箇所拝見しました。貴HP-冶金の曙は充実しているので、以前から勉強させていただいています。

>現存する最大の銅鐸(弥生時代(後期)/1~3世紀)は全高134.7cm、重量45.47kgもの大きさがある。この量を鋳込むために一片が約18cmの立方体相当の青銅を熔かしていたと考えられる。確たる根拠があるわけではないが、これはおそらく皮ふいごで熔解できる量を越えているのと思われることから踏鞴が使われていた可能性が考えられる。
>
…確かに、皮ふいごで熔解できる量を越えていますね。

>湯道やマージンなどを合わせると12基では足りないと考えられます。
>
…ご指摘の通りでかなり困難であるのは村上氏らも十分認識されていると思いますが…残念ながら遺構が出ないので…
それと私見ですが、製品を観察していて感じるのですが、銅鐸は相当歩留まりが悪かったようにも思えます。

天秤吹子…ご存じと思いますが、出雲古代歴博に実際に踏鞴踏みが体験できるコーナーがあります。

投稿: 向井一雄 | 2009年8月 9日 (日) 05時59分

ありがとうございます。
> 残念ながら遺構が出ないので…
確かに、いずれ何らかの遺構が発掘されるものと期待するしかないですね。

この初夏の頃に青銅の表札作りを体験したのですが、湯の温度が低かったにもかかわらず結構細かい模様も出ていて驚きました。機会があれば銅鐸も作ってみたいです。

投稿: 釜斎 | 2009年8月 9日 (日) 21時19分

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