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2011年5月 9日 (月)

纒向遺跡出土の破砕銅鐸

091902_2091910 昨年9月、纒向遺跡から大量の桃の種が出土したというニュースが話題になったが、実はこの時、銅鐸の破片も出土している(註1)。

銅鐸の破片については、大型建物や桃の種の陰であまり注目されていないが、銅鐸の最後を考える上で見逃せない情報といえる。

こういった銅鐸の破片を「破砕銅鐸」と呼ぶが、このブログでもこれまで何度か破砕銅鐸について論じてきた。
奈良県に後期銅鐸がない理由

破砕銅鐸の行方

脇本遺跡で銅鐸片出土

大福遺跡の破砕銅鐸

銅鐸破壊実験

大福遺跡第28次調査~銅鐸片の発見~大福では2009年3月にも見つかっている!

破砕銅鐸の事例は既に30例を超しており、難波洋三さんによれば、個数としてはいわゆる後期の近畿式銅鐸総数の約30%弱を占めるという(東海では約50%, 近畿では約40%と高い)。残りは弥生後期の内に埋納されたものなので、平たくいえば、銅鐸祭祀の終焉時=弥生後期後半~庄内期の時点で地上にあった銅鐸のほとんどが破壊されていることになる?!

破砕銅鐸は突線鈕式鐸でも最新式といえる1mを越える大型鐸ばかりだから、破片として出土したものは本来の銅鐸のごく一部分がたまたま偶然に残存したと考えられる。住居内や濠などから半ば遺棄された状態で発見されるのもこのことを裏付けている。

何故銅鐸が破壊されたのか…このことについては、これまでも様々な説が唱えられてきている。

Nhk 先日(といっても1/23)のNHKスペシャル「“邪馬台国”を掘る」で、石野博信さんと桜井市の橋本輝彦さんが、小泉武寛工房製作の1mはありそうな近畿式銅鐸(200万円)を派手にぶっ壊していたが、あんな大きなハンマーでガンガンやらなくても熱された銅鐸を壊すことは可能である…番組的には銅鐸=弥生の神になぞらえて、旧来の神々(信仰)が破壊されていく様を絵的に見せようとしているのだろう。

しかし「弥生の神」とは何なのか? そもそも「銅鐸=神(偶像)」なのか? 石野さんは「弥生の神」という言葉を何度も使い、橋本さんも纒向のヤマト王権から「銅鐸破壊指令」が出たなどと講演会で説明しているが、考古学者の宗教観の陳腐さもさることながら、あのようなショッキングな破壊シーンは視聴者をミスリードさせているように思える。

破砕実験…難波さんが細かく丁寧に銅鐸を破壊してるところが見れます!
※2010/6/26-27 日本文化財科学会第27回大会「復元青銅器の破砕実験」時に発表された映像

脇本遺跡や大福遺跡で破砕銅鐸が鋳造関連遺物と伴出したことから、銅鐸破壊の目的が青銅の原材料としての「リサイクル」「改鋳」にあったことはほぼ間違いない。

銅鐸を破壊し改鋳したというと…「銅鏡」と想定する人は多いだろう。アマチュアの邪馬台国論でも「邪馬台国は九州にあり、その勢力が東征し、近畿勢力の宗教的象徴であった銅鐸を破壊し、銅鏡に改鋳した。あるいは、被征服者らはあわてて銅鐸を埋めた」などという解釈は今でも根強い。銅鐸研究でも有名な春成秀爾さんも「銅鐸の時代」の中で「むしろ積極的に破砕されて他の器物に改鋳されていった」と書いている。

しかし、青銅器の成分配合比や鉛同位体比の研究からは、銅鐸を破壊して鋳つぶしても三角縁神獣鏡など前期古墳に大量に副葬された銅鏡はできない。弥生後期の青銅器が古墳時代青銅器の材料の一部となった可能性は残るものの、銅鐸の成分=銅鏡の成分とはならないことは明らか。

銅鐸は銅鏡に改鋳されたのか(1)(2)(3

Photo 破砕銅鐸が銅鐸のごく一部分が偶然残存したものなら、逆に破壊された銅鐸は製作された近畿式銅鐸総数の約30%や半分どころではなく、もっと多いことになろう。その破片全部が改鋳され“他の器物”に姿を変えたのなら、我々はそれらの銅鐸を永遠に見ることはできないことになる。破砕銅鐸が一定の形状に揃えようとしていること、久田谷(写真3)のように破壊後、一時的に保管されていた場合もあるらしいこと(なにか袋状のものに入っていた可能性もある)、など…銅鐸破片が青銅器原料として流通していた状況を窺わせる。

本来弥生集落のなかった纒向遺跡周辺で破砕銅鐸が出土する事実…それも複数個の個体とすれば(註2)、ここで破壊の儀式が行われたなどという空想より、各地で破壊された銅鐸片が青銅器材料として纒向に運ばれてきたと考えた方がより事実に即した理解と思える。

では破壊された銅鐸は何に改鋳されたのか…その答えはどうも「銅鏃」らしい(意外かもしれないが、上記の成分分析からも銅鐸と銅鏃の成分は一致するのだ)。

Dozokutetsuzoku 寺前直人さんは「石器の生産、流通構造が崩壊した畿内地域では、鉄の十分な供給体制も技術的発展も達成せぬまま金属器依存状況へと変遷を余儀なくされた」とし、遺跡立地における銅鏃と鉄鏃の偏在性-特に銅鏃が低地遺跡に偏在することから「低地部の伝統的な大型集落では中期以来の技術的系譜に基づき銅鏃生産が活発化した」と説く(高地性集落では銅鏃よりも入手が困難な鉄鏃の出土が多い…写真4:銅鏃と鉄鏃)。

問題は、後期の近畿式銅鐸の生産がどの時点まで下るのか=銅鐸生産の最終段階はいつなのか? また近畿の弥生中期社会が儀礼的な金属器利用が強かったのに、近畿の後期社会が後期のどの段階で実用的な金属器生産にシフトするのか? 今後こういった部分の解明が待たれる。

「近畿式銅鐸を(支配領域の縁辺部に)配布しながら、奈良盆地東南部では前方後円墳祭祀が始まった」とか「新たな宗教的、政治的枠組みのシンボルとして銅鐸から銅鏡が選択された」などという解釈は、考古学的事実の表層的な理解に止まっており、ついていけないものを感じている。かといってドラマティックな東征論は歴史的な事実からさらにかけ離れた夢想であろう。

<参考文献>
難波洋三「銅鐸の埋納と破壊」『難波分類に基づく銅鐸出土地名表の作成(文部科学省科研費補助金研究成果報告書)』2007年(銅鐸博物館20周年記念「銅鐸シンポジウム-銅鐸の始まりと終わり-」予稿集に部分収録)
春成秀爾「銅鐸の時代」『国立歴史民俗博物館研究報告』1号, 1982年, p.24
寺前直人「ヤジリと高地性集落」『古代文化』58-II, 2006年
寺前直人「銅鐸と武器形青銅器-畿内弥生社会の変質過程-」『月刊考古学ジャーナル』No.590, 2009年
石野博信「考古学ここだけの話」 vol.04, vol.11

<註>
1:銅鐸片は銅鐸の鰭部分で、古墳時代後期の包含層からの出土、破片は3.7×3.2cmの小さなもの。
2:調査区周辺では、今回の調査区の北側の溝から、昭和47年に銅鐸の飾耳の破片が出土しており、今回の銅鐸片との関係が注目される。

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