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2011年7月23日 (土)

「出雲で青銅器は本当に鋳造されたのか?」を読んで

Photo アジア鋳造技術史学会のHPを見ていたら、九州の高倉洋彰さんが「出雲で青銅器は本当に鋳造されたのか?」というエッセイを書いていた。題名は少々センセーショナルだが、昨年の出雲大会に参加して、報告者らが荒神谷の銅剣(写真1)は出雲で作ったのを前提に論じているのに警鐘を鳴らす内容だった。

読んでいて思わず肯いてしまったのは、「倒産が予測できるような工房は置かれない」という言葉だ。通説では青銅器は最初は半島からの輸入品、そしてすぐに北部九州での生産が始まり、それに続いて近畿でも生産が開始されたとみられている。また中期末には各地で独自色を持った製品が生産されるようになったといわれている。

鋳型など鋳造関連遺物や遺構が出土すれば、その地で青銅器生産があったこと(1)は確かだろう… しかしその青銅器を作った鋳造工人や工人集団は青銅器を作り終えた後、どうしたのだろう? その地にとどまったのかそれとも新たな製作地に向かったのか? そもそも青銅器の原料はどのように調達したのか? 工人たちは専業集団だったのか~それとも半農半工の生活だったのだろうか?

さまざまな疑問や問題点が出てくるが、遺物は黙して語ろうとはしない。少なくとも“仕事”がなければ工人たちはその地にとどまることはできない…

Photo_3 出雲の銅剣を考える上で興味深い遺跡としては、淡路島の古津路遺跡と香川県善通寺の瓦谷遺跡がある。いずれも銅剣を中心とした埋納遺跡で、古津路が銅剣14口(1966年)、瓦谷では銅矛1、銅剣7の合計8口(1918年)の武器形青銅器が発見されている(写真2 『讃岐青銅器図録』より)。両遺跡共、荒神谷の銅剣358本には遠く及ばないが武器形青銅器が大量に埋納されていたことは事実。注目されるのは、出雲産か?と言われている問題の中細形銅剣c類が瓦谷からも出土していることだ。瓦谷からは中細形銅矛(九州産)も1点出土しており、異なる型式の青銅器が一括埋納されている点も荒神谷を検討するヒントになる。また古津路の2口は大分市浜と尾道市大峰山出土品と同笵とされ、淡路島~瀬戸内~九州との交流関係を示している。

Photo_4 中細c類の成立を考えるためには、中細a類→中細b類→中広銅剣の流れから平形銅剣の成立に至る銅剣型式の動向を押さえねばならない。中細b類の製作地はわからないが、中広銅剣の鋳型は福岡市東区八田(粕屋)で見つかっている(図1 吉田1993より)。中広銅剣は九州内での発展が追える最後の型式だが、それに続く平形も九州と無関係に誕生したわけではないらしい。








Photo_7 古津路1号(写真右)と瓦谷1号(写真左)は文様を持つ銅剣としても有名なのだが、吉田広さんはこのような有文銅剣(陽出文様挿入)の研磨箇所を手がかりにして、古津路1号(中細B'類)→平形Ia(最古式)、瓦谷1号(中細B''類)→東瀬戸内系平形銅剣が各々成立したとみる。岩永省三さんや吉田さんの指摘する銅剣のプロポーション(剣身長が伸びるにしたがい身幅や樋長が一定比率で増大していく)が同じということは、デザイナーが同じということを暗示しているのだろう。分布地=製作地であったとしても、鋳造工人の出身地は分布地とは別にあった=出職で作っていた可能性は高い。古津路と瓦谷が九州系であることを認めるなら、中細c類の製作にも九州系の鋳造工人が関与したと考えられる。少なくとも平形同様、近畿からの搬入や近畿からの出職は想定できない。

S 荒神谷の銅剣に対するこれまでの解釈は、
①春成説:出雲では独自の中細c類を作ったが、途中で配布を止めて残りを埋めてしまった。
②高倉説:出雲は九州から中細c類を大量に購入したものの埋納祭祀が流行らなかったので、売れずに残ってしまった=埋納遺構は祭祀目的ではなく在庫が貯蔵されたものと捉える。
①と②は「中細c類を作ったが、広められなかった」という点では一見似ている。しかし貯蔵していたというのは大量の青銅原料を放置することになりあまりにも不合理に思う。同時期に瀬戸内で広がっていく平形銅剣のように日本海側では埋納祭祀が流行らなかった…この推定は当たっているのだろうか?(図2 吉田1993より)

荒神谷銅剣の問題は、製作地(生産元)と分布地(受入先)の問題、鋳造工人の出身地と製作場所(工房)の問題、青銅原料の流通の問題等々、様々な課題を抱えている。中期後葉段階からの瀬戸内以東での様々な銅剣の併存、新型式の創出、地域型青銅器の登場は、各地での銅鐸群の成立を考える上でも工人集団や工房のあり方を考える重要な手がかりを与えてくれているのかもしれない。

註:
(1)考古学的には鋳造関連遺物の出土が製作地である一つの根拠となる。鋳型などは砥石として再利用されているので、ポツンと出土してもそれだけでは生産されたことの証明にはならないが…

<参考文献>
吉田広 2009「青銅器の形態と技術-武器形青銅器を中心に-」『弥生社会のハードウェア(弥生時代の考古学6)』同成社
吉田広 1993「銅剣生産の展開」『史林』76-6
岩永省三 1986「剣形祭器」『弥生文化の研究』6 雄山閣
岩永省三 1980「弥生時代青銅器型式分類編年再考-銅矛戈を中心として」『九州考古学』55
春成秀爾 1995「神庭(荒神谷)青銅器と出雲勢力」『荒神谷遺跡と青銅器-科学が解き明かす荒神谷の謎』島根県古代文化センター編 同朋舎出版

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コメント

とりあえあず、事実関係について。
古津路・浜・大峰山の同笵関係は、現在的視点(荒神谷報告および同笵関係報告と同等の視点)では立証されていないはずです。
また、荒神谷と荒神谷以外の中細形C類(瓦谷・新荘波介・志谷奥)の間には、荒神谷報告における検討で同笵関係はなく、同一型式であるものの、「荒神谷とは異なった傾向をもつ個体群」との位置づけをしています(報告書「P293~294)。

投稿: 吉田 | 2011年7月25日 (月) 18時33分

>吉田様

ご教示ありがとうございます。

>古津路・浜・大峰山の同笵関係は、現在的視点では…立証されていないはずです。
>
同一型式という程度の認識に戻すべきなんですね…吉田様の研究でも一つの鋳型から作られる銅剣数は2本もないとのお話、同笵銅剣が何本も、それも離れた場所で発見される可能性は低そうですし。

>同一型式であるものの、「荒神谷とは異なった傾向をもつ個体群」との位置づけをしています
>
報告書を読んでみます。出雲でたくさん作られた銅剣が各地に配布…こういったイメージ自体に問題がありそうなんですね。

投稿: 向井 | 2011年7月25日 (月) 19時40分

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