総社・神明遺跡で銅鐸出土 岡山県内 発掘調査で25年ぶり
発掘調査中の総社市福井、神明(しんめい)遺跡で、弥生時代中期(約2200年前)の銅鐸(どうたく)が見つかった。岡山県古代吉備文化財センターが10日、発表した。発掘調査で銅鐸が出土するのは全国でも珍しく、県内では25年ぶり2例目。これまで謎が多いとされてきた埋め方や年代の特定につながる貴重な発見という。
銅鐸は高さ約30センチ、裾部の長径15センチ。8月21日に見つかった。地下約20センチのところに、側面のひだ・鰭(ひれ)を上下にして横たわっていた。弥生中期後半~後期のムラの端に位置する。
銅鐸は弥生時代を代表する青銅器の一つで、祭祀(さいし)に使用されたとされる。上部のひもを通すつり手部分・鈕(ちゅう)の形から製作年代が四つに分類され、今回のものは2番目に古い外縁(がいえん)付鈕式と推定される。
銅鐸の下の土層の住居跡や土器片から、埋納されたのは同時代後期初めごろ(約2000年前)とみられる。文様はまだよく分かっていない。
銅鐸の出土は全国では約570例(岡山県内は今回が24例目)あるが、発掘調査での出土は今回を含めても20例のみ。掘削工事などで偶然見つかることがほとんどで、埋められた年代や埋め方が分からないことが多い。
弘田和司・同センター調査第3課長は「全く想定していなかった発見。他の例との比較や時期の特定を急ぎ、弥生時代の祭祀を解明したい」と話す。
同遺跡は国道180号改築工事に伴い同センターが今春から約6800平方メートルを調査している。
難波洋三・奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長の話 銅鐸の埋納は祭祀の度に掘り返された説と、ある時期に一斉に埋められたという説があるが、神明遺跡の銅鐸の埋納時期が特定されることによって、議論が進展する可能性がある。文様の有無、製作地がどこかなど、これからの調査に期待の持てる面白い資料だ。
銅鐸は13日午後1時から同市中区古京町、三木記念ホールで同センターが開くシンポジウム「3世紀の吉備を読み解く」会場で公開。20日午後1時からは現地説明会を実施する。問い合わせは同センター(086―293―3211)。
(山陽新聞 2014年09月10日)
県教育委員会は10日、総社市の神明遺跡(同市福井)から、約2200年前の弥生時代中期につくられたとみられる青銅製銅鐸が見つかったと発表した。時代背景がはっきり特定できる発掘調査で出土したのは全国で20例目。現状では表面の文様が判別できないが、今後は文様の特徴を突き止め、銅鐸の主生産地である近畿地方との関連を調べていくとした。
発掘調査は、国道180号(総社・一宮バイパス)の工事のため、今年4月~来年3月まで実施中。神明遺跡は高梁川支流の堤防に立地しており、弥生時代後半期から奈良時代にかけての住居跡や土器棺、土坑などが多数出土している。
銅鐸は先月21日、深さ約30センチの埋納坑からバケツを横倒しにしたような状態で見つかった。発掘された地層は一緒に見つかった土器などから弥生時代中期末~後期初め(約2千年前)とみられる。高さ約30センチ、幅15センチ、奥行き10センチ。上部に直径数センチの「鈕孔(ちゅうこう)」があることから「外縁付紐式」と呼ばれる古い段階のもので、製作されたのは埋められた時代より約200年古い弥生時代中期と想定されるという。
県内では平成元年に岡山市北区の高塚遺跡で見つかって以来25年ぶり、24例目の発掘。全国では約570例が発掘されているが、田畑の開墾などで偶然見つかるケースがほとんどで、今回のように時代が特定される発掘調査で見つかったのは19例しかないという。
県古代吉備文化財センターは「全国的に希少な埋納状況を確認できる発掘であり、周辺の土器の状況などから、銅鐸を祭器として使用したマツリのありかたなどを考えるうえで重要な史料になる」としている。
20日午後1時から、現地説明会を開催する。
(産経新聞 2014.9.11)
岡山県総社市の集落跡の神明遺跡で弥生時代中期(紀元前2世紀ごろ)の銅鐸1個が出土し、県古代吉備文化財センターが10日、発表した。発掘調査で見つかるのは珍しく、同センターの光永真一参事は「埋め方や時期に加え、集落のどの位置に埋められたかまで調査できる」と話している。
同センターによると、銅鐸は高さ約30センチ、幅約15センチ。外縁付鈕式と呼ばれるタイプで、8月21日に見つかった。銅鐸は時代が新しいほど、つり手部分が次第に薄くなることから大きく4段階に分けられ、外縁付鈕式は2番目に古いタイプ。銅鐸の中では小型といい、祭りの際に鳴らすなどしたとみられる。
(四国新聞 2014/09/10)
プレス発表資料
総社市神明遺跡における銅鐸の出土について
9/20の現説に駆けつけてみたところ…500人を越す見学者!この地域の現説では最高の人出らしく関心の高さがわかる。特に出土した銅鐸が見られる小屋は黒山の人だかり状態で銅鐸がほとんど見られなかった。といっても今回の銅鐸砂がべっとりついて文様がさっぱり見られない。説明の方の話によると、袈裟襷文らしいが…そうすると大きさ・フォルム的に種松山鐸(倉敷考古館)辺りが近い感じがする。
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