8金属成分・鋳造技術

2009年6月22日 (月)

日本考古学協会ポスターセッション「弥生時代における熔銅技術とその問題点」

Photo_2先月の5/31に早大で開催された考古学協会のポスターセッションで、愛媛大の村上恭通さんが「弥生時代における溶銅技術とその問題点」という非常に興味深い発表をされていた。村上さんからも直接いろいろとお話を伺えて、久しぶりに感動してまだ興奮が醒めやらない。

Photo_2従来、弥生時代の青銅器を造る際の原料を溶かすには、写真2(田原本町2006)のような小規模な炉が使用されたと考えられてきた。写真3(田原本町2006)は一昨年、奈良県田原本町の唐古・鍵考古学ミュージアムで復元実験(小泉武寛さんによる)が行われた際の様子だが、炉で溶かされた青銅が一旦取瓶(とりべ)に取られて(写真3-(6))、それから鋳型に流し込まれている(写真3-(7))。

Photo_3しかし、不思議なことに弥生時代の鋳造関連の遺跡からは、はっきりとした炉の跡が見つからない(唐古・鍵では炉と見られる遺構が検出されているが…)。出てくるのは鋳型片、中子片、送風管(鞴羽口)、銅鐸片、銅鏡片、銅滴、棒状銅製品、錫塊などなど…そして高坏状土製品というものがある。

高坏状土製品の例
唐古・鍵遺跡の高坏状土製品・送風管
楠遺跡の高坏状土製品


Photo弥生時代の高坏状土製品(写真4-村上2009)は、これまで炉から鋳型に鋳込む時使う「取瓶」と考えられていた。しかし、村上さんが今回発表された説は、取瓶とみられてきた高坏状土製品が、実はそれ自体が「土器炉」だったというもの(この土製品を「坩堝炉」だとする説は神崎勝さんが想定されているが(神崎2006)、外部から熱を受けた痕跡がない)。

これまでも使用する際は、この土器の内壁に粘土を分厚く塗ったと考えられいた(写真5-田原本町2006)。村上さんは、粘土を内貼りした土器(罐)内部に直接燃料(木炭)を充填して、その上面に素材(青銅片)を乗せ、そこにL字形に曲がった送風管(折れ羽口)で上方から風を吹き下ろすという方法を考えた(写真1-村上2009)。今回のポスターセッションでは、この方法で実際に実験した映像も見せていただいた。

Photo_3この方式だと鞴からの送風管の先端は直接、炉の中に挿入されていないため、例え焼けていても、青銅やスラグ(銅滓)が付着したり、溶融したりはしていない。先端がL字に曲がっているのも下側に吹き下ろすためと考えれば理解できる…これまでどうしてL字に曲がっているのか、銅が付着したりしていないのか、説明が難しかった弥生時代の鞴羽口の謎がこれで解ける。

内側の粘土は土器のように焼成していないため、屋外や土中で放置しておくと、流れてなくなってしまう…残された高坏状土製品の内側に粘土が付着していないわけである。また、村上さんの実験では銅を流し終えると、不思議と土器内に青銅はほとんど残らないということで。銅滴は飛び散るが、これは貴重な材料として回収されてしまうので遺跡にはほとんど残らない。村上さんによると、中国湖北省の盤龍城ではこの内側の粘土が残存した資料が出土しており、奇しくも村上さんらと全く同じやり方で復元実験をしていたという。

40kg現在出土している高坏状土製品で一度に熔解できる青銅の量は最大4kg程度ということで、45kgもある日本最大の大岩山銅鐸の鋳造には、12基以上の土器炉が必要となる計算になる(写真6-村上2008)。鋳型への流し込み作業は一発勝負であり、これだけ多数の土器炉を同時にタイミングよく稼働させる様はまるで“ダンス”のようで、青銅器鋳造が「秘技的なもの(非公開)」から「マツリ的なもの(公開)」に変貌していくと考えられるという。それが返って青銅器の呪術性の喪失を招いたという村上さんの指摘は、青銅器祭祀の終焉を考える上で今後重要な観点になると予感させる。

<参考文献>
村上恭通 2009「弥生時代における熔銅技術とその問題点」『日本考古学協会第75回総会 研究発表要旨』日本考古学協会
村上恭通編 2008『愛媛大学考古学研究室第9回公開シンポジウム 弥生・冶金・祭祀』愛媛大学考古学研究室
田原本町教委 2006『弥生時代の青銅器鋳造(唐古・鍵考古学ミュージアム・平成18年度秋季企画展図録)』
神崎勝 2006『冶金考古学概論』雄山閣

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2008年5月 1日 (木)

貨幣博物館テーマ展「2500年の伝統と技 -中国の鋳銭技術-」

Photo先日の4/27 貨幣博物館で「2500年の伝統と技 -中国の鋳銭技術-」 (2008/3/13~4/27開催)を見学してきた。
弥生青銅器に興味を持ちはじめてから、その原料とも推定されている中国の銅貨についてもいくつか参考文献を読んでいたが、春秋戦国~魏晋南北朝までの鋳型などが展示されると聞いて興味がそそられた。展示はささやかなものだったが、小さな展示ケースに時代別に鋳型と銭貨がわかりやすく展示されていた。

Photo_3貨幣の鋳型というと、富本銭などの枝銭(写真1)がすぐ思い浮かぶが、中国では前漢代に「畳鋳式」と呼ばれる何枚も鋳型を縦に重ねて中央を貫く湯口から銅を流し込む方式が開発されている。これに対し、枝銭と呼ばれる鋳型は「縦式」という(写真2)。
また展示をみて気づいたのだが、春秋戦国~秦代までは「石の鋳型」だが、前漢に入ると“原母笵”を原型にして、粘土で鋳型を作成している。これによって一つの原型から複数個の鋳型を作成できるようになった。漢代に作られた銭貨はなんと260億個というが、多量の銭貨需要にも驚くが、その需要に応えた技術が「同一原型から複製を作る土の鋳型」だったわけだ。
魏晋南北朝以降、鋳型が発見されなくなるのは「土の鋳型」→「砂型」へ移行したためと考えられている。この辺りは他の青銅器の鋳造技法の変遷を考える上でも興味深い。原母笵も出土しないところをみると、精巧な原母笵を作らないで鋳型を複製する方法-銅貨の実物を原型にするようなやり方が想定されるのだろう(鏡でいう踏み返し)。

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2008年1月16日 (水)

銅鐸は銅鏡に改鋳されたのか-鉛同位体比からみた青銅器材料(その3)

Img_coop_main3鉛同位体比の文献を読んでいると、いろいろと面白い実例が載っている。

例えば、佐賀県唐津市中原遺跡の銅釧の事例
この遺跡の2基の甕棺から、銅釧が14個も出てきたが、鉛同位体比を測定すると(グラフ1)のように2つのラインのグループに分かれ、各々のラインが交叉することから3種類の鉛が使われていたと推定されている。この3点が鉛鉱石(方鉛鉱)なのか鉛成分を含む原材料(ようするにスクラップ)なのかまではわからないが… 細かくみると、ラインD(グラフ中の一点破線)の中でも原材料はいくつかに分かれているということになる。
同じ遺跡からたくさん出土した遺物の鉛同位体比は、ある傾向…特定のエリアに集中して、かつある傾きを持って…鉛同位体比が分布することが多いようだ。

S_2例えば、荒神谷遺跡の銅剣の事例について(グラフ2)
グラフを見ていただくと、右と左に長く伸びていることがわかると思う。ほぼ同時期に作られたと推定されている358本の銅剣だが、鉛同位体比からみるとこのように違いがある。この結果については、大きな溶鉱炉のようなもので一度に原材料を溶かして、次々に銅剣を作っていったのではなく、一定の時間をかけて、少しずつ作成していったためと考えられている。この点は銅剣の細かな形式分類からの推定とも一致するらしい。
岩永省三さんは、銅剣の鉛同位体比の分布が領域Aのエリア内にとどまらず、左右にある傾きを持って伸びていることから、領域Aの原材料に、左下のラインDと右上方の遼寧省方面の鉛が添加されている可能性を指摘されている。岩永さんは、銅剣(A-26)1本だけが最古段階の形式の菱環鈕式銅鐸(T-5)と同じ鉛同位体比を示していることから、古い銅鐸(ラインDの青銅製品)を鋳潰して銅剣にしたのではないかと推定されており、添加されたラインDの原材料は、古い青銅器のスクラップ利用だったことを示唆している。

67s次は、弥生時代青銅器と三角縁神獣鏡の鉛同位体比グラフ(グラフ3)
グラフを見ていただければ、領域Aと漢鏡6-7期(後漢-魏晋代)の銅鏡エリアを結んだライン上に、三角縁神獣鏡が位置していることがわかると思う。
新井宏さんも
>三角縁神獣鏡の鉛分布は漢代の鉛と後漢鏡・魏晋鏡の鉛を混合使用したと考えれば、作り出せることである。すなわち、前代(漢代)の青銅器原料に魏晋代の原料を混合したと考えれば、日本でも中国でも製作可能なのである。

と書いており=「銅鐸から銅鏡へのリサイクル!」とも読み取れる。ただしここからは、青銅器の金属成分比-銅、錫、鉛の構成比を基に、シミュレーションする必要がある。銅鏡だけでなく、古墳時代の青銅製品は弥生後期の青銅器に比べて「錫」が圧倒的に多い(20~25%)ので、仮に弥生青銅器を鋳潰して、古墳青銅器を作る場合、「錫」を多量に添加する必要がある(弥生青銅器は錫3~5%)。「鉛」についてはどうかというと、弥生後期青銅器は3~5%、古墳青銅器では5~6%台が多いようなので、こちらも若干は添加しないと古墳青銅器の%に達しないものもある。

仮に1kgの銅鏡を数枚作るために10kgの後期銅鐸を鋳潰す場合、銅鏡の金属構成比 銅70%, 錫25%, 鉛5%とする。10kgの後期銅鐸の金属構成比 銅90%, 錫5%, 鉛5%として、銅鏡の金属構成比と同じ値にするには、錫500g, 鉛500gに対して、錫2.7kg, 鉛143gを添加する必要がある。また後期銅鐸の金属構成比 銅94%, 錫3%, 鉛3%の場合は、錫300g, 鉛300gに対して、錫2.9kg, 鉛343gを添加することになる。混合された鉛原料の割合によって鉛同位対比が変動するとすれば、500gに対し143g、300gに対し343gだから、鉛3%の場合でようやく領域Aと領域Bの中間地点付近まで来ると予想される。シミュレーション的には、かなり多量に領域Bの鉛を添加しないといかんということになりそう。

古墳時代青銅原料と弥生時代青銅原料の混合を想定するにしても、あくまで古墳時代青銅原料(領域B)が主、弥生時代青銅原料(領域A)が従なら説明がつきそうだが、その逆はちょっと考えにくいように思う。三角縁神獣鏡の中に1枚でも領域Aに位置するものがあれば話はグッと面白くなるのだが、そういう事例はまだ1枚も見つかっていない。
また、最近歴博で調査された紀元前2~7世紀初めの韓国の青銅製品に関する鉛同位対比が日本の弥生~古墳時代への鉛同位対比の変遷(領域A→領域Bへ)にリンクしていることも気になる。この研究によると、領域B(歴博:グループB)の原料産地は朝鮮半島ではないか?という点が注目されるし、楽浪郡出土の青銅器の80%が、領域A(歴博:グループA)にあるということは、弥生後期の青銅原料供給に楽浪郡が深く関与していた可能性を窺わせる。

また鉛同位体比研究に関しては、弥生後期の青銅器の鉛同位体比が領域Aのそのまた小さな[a領域]へ集中していることをどう解釈したらよいのかという難問もある。安本美典さんは「ブレンド収縮」という怪しげな用語でこのa領域への集中化を説明しようとしているが、弥生後期には、福岡か大阪に青銅原料のスクラップ再生工場でもあって青銅インゴットを全国に供給でもしていたというのだろうか? 同時代の中国(後漢~三国)では、黄河流域の銅山が枯渇し、銅不足が深刻化していたということなので、日本への原材料供給が潤沢であったとは思えない。個人的な見通しとしては、この辺りの事情(供給元が限定される)が「a領域へ集中」に影響していると考えている。

いろいろ長々と書いてきたが、とにかく鉛同位体比は面白い!! こんな楽しそうな研究成果を学ばない手はないのだが、懐疑的な人はいまだ多い…

図出典
グラフ1:淀川奈緒子,渡辺智恵美,谷水雅治,平尾良光「佐賀県中原遺跡から出土した同釧の鉛同位体比」佐賀県教育庁報告書 (2005に報告書提出済)
グラフ2:岩永省三2003「考古学者からみた青銅器の科学分析」『科学が解き明かす古代の歴史-新世紀の考古科学』クバプロ
グラフ3:新井宏2006「鉛同位体比から見て三角縁神獣鏡は非魏鏡」『東アジアのの古代文化』2006秋(129号)

補足:昨日UPした新井宏さんの講演「三角縁神獣鏡研究の現状」に関連して
脇本遺跡-リサイクル工房の件は、会場からの質問に対し新井さんは「三角縁神獣鏡の鉛同位体比分布から弥生後期青銅器の再利用はあっただろう」とのコメント。ただし、講演後、新井さんに直接お尋ねしたところ、「弥生後期青銅器の再利用といっても、あくまでも古墳時代になって新たに大陸から供給が開始された原料への“添加”であって、銅鐸を破壊して、溶鉱炉で溶かし、銅鏡に改鋳するといった話ではない」という回答だった。
弥生後期青銅器の鉛同位体比が領域A(そのまたa領域)に集中する傾向については、「楽浪郡からの供給、そして華中地域のどこかの鉱山からの銅インゴットによる供給が想定できるとされ、古墳時代の初め頃、何らかの事情でその鉱山からの供給がストップしたのだろう」という意見だった。

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2007年12月22日 (土)

銅鐸の原料-古代の銅インゴット

Photo_12

青銅器の原料となる古代の銅インゴットがどういうものかご存じだろうか?

写真1は、キプロス島の牛皮型インゴット
写真2は、中国・銅緑山の円盤状インゴット(銅錠)S_2
これらは結構大きいもので、キプロスのが10~50kg、中国のものは5~15kg/1個ある。中国の長安城遺跡の銅錠(長方形)の成分は99%銅だそうだ。
写真3は、岡山県の高塚遺跡で出土した棒状銅製品(長さ134cm,94.4g)弥生後期のもので、ずばり中国から輸入された青銅製品の原料とみられている。成分は銅93.5%、鉛5.5%(錫は0.05)で、鉛同位体比は弥生後期の領域A-a領域と一致。馬淵さんらは中国製銅インゴット(大)が小さなスラブ・ビレット状にされて、日本国内で流通していたのではないかと推定されている。※馬淵久夫2007「鉛同位体比による青銅器研究の30年」『考古学と自然科学』55号(日本文化財科学会)

Photo_13久田谷のバラバラ銅鐸も5cm角ぐらいに几帳面に割られていることから、ちょうど棒状銅製品と似たような重量になりそう。銅鐸破壊→再溶解→再インゴット化ではなく、弥生後期銅鐸は銅%が高いから、小さくカットするだけで小インゴット化(スラブ・ビレット化)できる。

Photo_14馬淵さんらは銅はインゴットで輸入されたとするが、後期銅鐸は錫の%が低い。実は錫は日本国内ではほとんど採れない。中国には古代から錫鉱山があるし、現在でも中国の錫生産量は世界一(二位:マレーシア、三位:ボリビア)。雲南や広西など南方に鉱山があるようだ。吉野ヶ里遺跡の青銅器工房?で純度の高い錫塊(写真4)が出土しているから、弥生時代に錫が中国から輸入されていたのは間違いないだろう。しかし貴重品だったので国内での流通量は僅少だったのでは?ないだろうか。ただし、有名な平原のボウ製大型鏡(46.5cm)にはしっかり錫が27%も入っているから、伊都国人は豊富に持っていたのかもしれない?

銅鐸など弥生時代の青銅器に使われた銅の量は、銅鐸出土数(1995年)約450個→約3tと推定されており、日本の弥生時代の全ての青銅器に使用された総量でも30~100tに満たないとみられている。(※久野邦雄1999『青銅器の考古学』学生社 p.60, 神崎勝2006『冶金考古学概説』雄山閣 p.33, 「我が国の銅の需給状況の歴史と変遷(歴史シリーズ-銅(2)-」金属資源開発調査企画グループ)難波さんも銅鐸の製作総数を計算されているが、最大で見積もって4400個 出土数の約10倍と推定されている。(※難波洋三2000「同笵銅鐸の展開」『シルクロード学研究叢書』3(シルクロード学研究センター)/京博HP銅鐸は何個作られたか)後期銅鐸は出土総数の約31%だが、後期銅鐸の方が大きいので、原材料としては量的に半分ぐらいになるかもしれないが、いずれにしても三桁は越えない。

日本の銅鉱山開発は7-8世紀~定説だが、東大寺大仏の銅380t、梵鐘など他の大型青銅製品も含めると、東大寺造営だけでも約500tの銅が必要とされており、大仏だけで弥生時代全期間の青銅器の必要量を越えてしまう。

弥生青銅器に自然銅などを使ったとされる「国内調達説」は久野雄一郎さんの説だが、久野さんは年間平均使用量は10kg程度と推定し、この程度の青銅原料であれば外国から輸入しなくても国内で十分賄うことができたとする。(※久野雄一郎1997「銅鐸科学考」『銅鐸の谷-加茂岩倉遺跡と出雲』アサヒグラフ別冊)しかし私は理屈としては“逆さま”だと思う。

中国湖北省の銅緑山は春秋~前漢末まで操業した古代中国最大の銅鉱山だが、この鉱山だけで生産された銅は堆積した銅滓量から8~10万tとみられている。(※山田勝芳2000『貨幣の中国古代史』朝日選書)p.150 1日生産量が300kgを下らないということなので(※稲畑耕一郎2007『図説中国文明史-春秋戦国・争覇する文明』創元社 p.120)銅緑山の1日稼働分で弥生青銅器30年分が調達できる計算となる。全く圧倒的にケタ違いの生産量・流通量なのだ。

この程度の青銅原料であれば外国から“買ってきた方が早い”というのが「経済の論理」として正しいと思う。逆に後期銅鐸全部インゴットに鋳直してもどのくらいの量になるか…?そんなものを中国人が買うとは思えない。

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2007年12月10日 (月)

銅鐸は銅鏡に改鋳されたのか-鉛同位体比からみた青銅器材料(その2)

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脇本遺跡報道の“リサイクル工房”は、橿考研のプレスリリースを読むかぎり「銅鐸-銅鏡改鋳説」ではないが、古代史ファンにそう勘違いさせるような書き方の新聞もある。
>寺沢薫・調査研究部長(考古学)は「大和王権が銅鐸を集め、纒向の都市計画が始まる一時期だけ、銅鐸片を溶かし、鏡や鏃(やじり)などの青銅器に作り替えたのではないか」と話す(朝日新聞/07/12/07)

「破砕銅鐸」は現在30例以上あるし、ほとんどが後期の近畿式銅鐸なので、広義の意味で“リサイクル”されていることは確実。銅鐸のマツリの中で自然に壊れたとか、破壊することにマツリの意義があるとか、いろいろと説もあるが、これまでの検出例からはマツリとは無関係に破壊されたと思われる。またネットで検索してみると「銅鐸-銅鏡改鋳説」は一般の方にはたいへん人気があるようなので、今回のリサイクル工房報道が誤解を与えなければいいのだが…

脇本遺跡が報道される前に、私は「銅鐸-銅鏡改鋳説」を鉛同位体比を使って否定したが、鉛同位体比研究は考古学研究者、古代史ファン両方から支持されておらず、懐疑的に見る人が多い。

1)A鉱山とC鉱山の鉛を原料にしてそれぞれ製品化した後、両者を混ぜて再溶解して製品を作ったら、鉛同位対比は両者の混合比等によって左右される。
2)全ての鉱山が調査されているわけではない。
3)両者を混合した製品の鉛同位体比がB鉱山の鉛同位体比と一致することもある。

これがおそらく鉛同位対比懐疑論者の疑問点だろう。確かに、平尾良光・山岸良二編1998「文化財を探る科学の眼3-青銅鏡・銅鐸・鉄剣を探る」(国土社)のP.17の説明には、
>混合の可能性はかなり高いのではないかと考えられます。原則として、2種類の鉛を「混合」すれば。その同位体比は両者の平均になります。
と書かれている。ただし、ここは後半の文章も大事だと思う。
>しかし、鉛の同位体比は産地ごとに特有の値をとり、雑多な値を示すということはありません。測定結果を厳密に検討して「混合」の状態を推定することになります。

確かに、いろいろな材料を混合すればもっと数値がバラツキそうだが、測定結果は“雑多”な値ではなく、ある傾向が認められる(例えばラインDとか領域A、領域Bなどがそれに当たる)。また上記の本には、鉛同位体比というとよく出てくる「A式図」しか載っていないが、「B式図」というのもあり、厳密な比較をするには両方の図を比較して確認する必要がある。※鉛同位体比分析の解説

私も鉛同位体比で「産地」が完璧にわかるとは思っていない。これまでも「産地」という言葉はほとんど使っていないつもりだ。 最近はいろいろ批判も出てきたせいか、平尾さんや馬淵さんらも以前は朝鮮半島産とか華北産とか産地名を断定的に書いていたのを、最近の論文では、ラインDとか領域Aとか表現するように変わってきている。ただ前にも書いたが、 いろいろな青銅器の使用原料の比較には非常に有効な手法ではないかと興味を持っている。

文系の考古学者が鉛同位体比に対し懐疑的になるのも理解できなくはない。そんななか、岩永省三さんをはじめ果敢に鉛同位体比に挑戦されている研究者もいる。問題は、発掘調査の報告書などで平尾さんや馬淵さんらの産地比定(朝鮮半島産や華北産のように)を無批判にそのまま使うことなのではないか。鉛同位体比の分析結果そのものまで意味のないものとするならば、 そこに現れた鉛同位体比の時期的変遷が青銅器の型式変化と対応する事実すら無視することになる。銅鐸の佐原編年を証明したのが、鉛同位体比研究と言ってもいいのだから。

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2007年11月21日 (水)

銅鐸は銅鏡に改鋳されたのか-鉛同位体比からみた青銅器材料(その1)

Photo「銅鐸改鋳・銅鏡再生論」… 銅鐸の祭祀の終焉から古墳時代を考える時、いろんな方が漠然と持っているイメージではないだろうか?

非常に魅力的なストーリーなのだが、鉛同位体比研究からみると、後期の銅鐸(領域A)と三角縁神獣鏡(舶載、ボウ製共に/領域B)は原料を異にしている(※グラフ/新井宏 2000「鉛同位体比による青銅器の鉛産地推定をめぐって」『考古学雑誌』85-2)。鉛同位体比は、鉛の鉱山ごとに異なった値をもっており、この値は変化しないので青銅に含まれる鉛同位体比を調べることで、鉛原料の産地を推定できるというわけ。あくまで「鉛」の同位体比なので「銅原料」の産地を推定できるわけではない。ただし、同じ青銅原料を使っているかどうかといった相互比較にはたいへん有効。まあ青銅器の“DNA”みたいなものなのだ。

後期銅鐸が成分比的にみてほとんど「銅」だから、これを主原料にして、錫・鉛を新たに添加すれば銅鏡を作れる… 考え方としては間違ってはいないが、仮に後期銅鐸に鉛を添加して銅鏡に改鋳したとしても、後期銅鐸の鉛同位体比から新規に添加した鉛原料の同位体比の方に若干動くだけで、同位体比のかけ離れた大量の鉛を添加しないと、領域Aと領域Bのようにまるっきり違う値にはならない。

異なる鉛同位対比の原料を混合した場合、鉛同位体比の分布は、ちょうど荒神谷銅剣のグラフのように量の多い方の鉛原料に引っ張られて領域A→Bにかけてライン上に並ぶはず。三角縁神獣鏡は領域Aに向かって並んでいるので、新井宏さんも指摘される通り、漢代の鉛原料(=弥生後期の鉛)に魏晋代の鉛原料(領域B)を混合して作ることは理論的には可能。※新井宏 2007『理系の視点からみた「考古学」の論点』大和書房 p.68

確かに銅鏡の錫含有量は20%を越えていて、銅鐸を銅原料にして、錫を加えたように見えるが、銅鏡の鉛含有量は5%ぐらい。後期銅鐸の鉛含有量は3~4%であり、銅鏡と%的にはあまり変わらない=鉛はほとんど加えていない。これでは鉛同位体比は変わりようがない。すなわち弥生後期の銅鐸を原料にして古墳前期の銅鏡は作られていないということになる。

Photo_2最近、歴博で日韓共同研究として「東アジア地域における青銅器文化の移入と変容および流通に関する多角的比較研究」が実施され、H.Pでも内容が紹介されている。

これによると、2~4世紀頃の韓国青銅器の鉛同位体比は後期銅鐸とよく似ているそうで、弥生後期に流通していた原料が日韓両国で古墳時代初め頃まで使われていたと推定されている。楽浪郡出土の青銅器の80%がグループA(後期銅鐸と似た鉛同位体比=領域A)に一致するというのは、青銅原料の生産地を考える上で示唆的である。

古墳時代のボウ製鏡の中に「非情に稀に領域Aのものがある。弥生時代の青銅器を鋳直した鏡かもしれない」ということなので、弥生青銅器の改鋳された事例が皆無ではないらしい。※馬淵久夫2007「鉛同位体比による青銅器研究の30年-弥生時代後期の青銅原料を再考する-」『考古学と自然科学』第55号 日本文化財科学会 より

銅鐸では、型式変化と鉛同位体比の推移がきれいに対応しているが、北部九州出土の青銅武器類では銅鐸ほど鉛同位体比と型式が対応しない。この点に関して、岩永省三さんは、北部九州ではII期~IV期後半までラインDと領域Aの鉛が併存、中細形~領域Aの鉛が多くなるとはいえ、中広形銅矛の新しいものまでラインD鉛を用いたものがあり、常時ラインD鉛も併存する環境にあったとし、

(1)北部九州と銅鐸製作地で輸入原料の入り方が異なった
(2)古い青銅器の鋳潰しの存否が異なったか

であって、しいて言えば(2)の可能性が大きい、と指摘されている。九州では鋳潰しがあったが、近畿ではないというのも面白い。

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2007年11月19日 (月)

銅鐸の金属成分-これまでの研究史

Photo_4古い銅鐸から新しい銅鐸になるにつれて、錫の量が減っていく理由については、かつて、亀井清氏は錫と鉛の含有量から、銅鐸をA、B、C類に分類し、古い銅鐸(A類)は漢の銅利器類をそのまま改鋳し、それより新しいB類はそれらに銅を添加し、さらに新しい銅鐸(C類)はさらに多量の銅を添加してそれぞれ鋳造したと説明している。青銅器工房復元画は愛知県埋文センターHPより

銅鐸名 Cu _Sn_ Pb_ 分類(成分)_ 分類(鉛同位体比)
泊 74.46_ 14.25_ 7.65_ A_ α
神於 75.9_ 12.5_ 5.92_ A_ α
神戸 83.84_ 7.62_ 7.63_ B_ β
倭文 85.88_ 3.49_ 8.89_ B_ β
栄根 90.87_ 4.17_ 4.27 C_ γ
(伝)羽曳山 87.91_ 4.52_ 3.38_ C_ γ
堂道 89.14_ 4.93_ 2.66_ C_ γ
※馬淵久夫・平尾良光 1982「鉛同位体比からみた銅鐸の原料」『考古学雑誌』68-1より

この説は一見つじつまが合っているが、銅を添加するだけなら、錫だけでなく鉛量も減っていくはずなのに、A類とB類で鉛量がほとんど変わらない点が説明できないのとその後の鉛同位体比研究によって、古い銅鐸(A類)と新しい銅鐸(B類・C類)で鉛同位体比が全く異なることから、現在では否定されている。上の表のように成分分析の分類と鉛同位体比による分類は一致しているので、成分比の差異が青銅原料と何らかの関係を持っていることは間違いなさそう。

A類(α類)の原料にいくら銅を加えて改鋳しても鉛同位体比は変動しないため、B類(β類)の銅鐸はできないし、B類(β類)とC類(γ類)の銅鐸は鉛同位体比がA領域にあるとはいえ、C類(γ類)は鉛同位体比のばらつきがほとんどないので、B類(β類)の原料を適当に混合しても、C類(γ類)の銅鐸の鉛同位体比にはならない。

A類-II-1式とB類-II-2式は、使用原料が違うということですから、同じ外縁付鈕(II式)に分類されてはいるが、「錫不足」だけでは説明できない事情がありそう。

金属成分の三角グラフを見ていただくと、菱環鈕(I式)→外縁付鈕(II式)→扁平鈕(III式)→突線鈕(IV式)と単純に錫が減っているわけではなく、II-1式→II-2式で一度減って、III-1式はII-2式とほぼ同じでIII-2式で再び増えて、IV式で錫・鉛共に減る… とちょっと不思議な動きをしている。今回の加茂岩倉のデータでII-1式~II-2式・III-1式~III-2式間の違いがさらにはっきりしたと言えそうだ。

II-2式とIII-1式は石製鋳型という技術的には共通項があるので、原料や成分比の点で似ていることも理解しやすい。III-2式は土製鋳型への転換という銅鐸鋳造の技術史的には一大画期なので、ここで錫量がII-1式段階に戻るというのもわからなくもないが、次のIV式では錫も鉛も減ってしまう。

IV式段階-弥生後期に作られていた青銅器-九州で作られた広形銅矛や小型仿製鏡、近畿式銅鐸と三遠式銅鐸、関東の小銅鐸-これら製作地が異なるであろう青銅器が銅・錫・鉛の成分構成比的にも鉛同位体比的にも極めて同じ値を示しているというのも不思議といえば不思議なこと。

これについて東文研の平尾良光さんらは“出来合い”の素材-「青銅インゴット」説を出しているが、鋳造する時に錫や鉛を添加しないなんてあり得るのだろうか?それとも、銅、錫、鉛の別々のインゴットがあったとして、それをどう混合するのか、「レシピ」のようなものがはたして弥生時代にあったのか、こちらも疑問が残る。

Photo_5錫と鉛は青銅器鋳造において、銅合金の融点を下げ鋳造性を高める効果を持っていることはご存じの通り。 世界最大の「司母戊鼎(写真1)」は、高さ133cm、重さ875kgだが、成分比は、銅84.77% 錫11.64% 鉛2.79% 有名な三星堆青銅器の成分は、錫と鉛の成分が中原地区の青銅器より多く、青銅の流動性が高くて、多種多彩な異形青銅器が製造できたということからみても、銅鐸の錫量の減少については、「鋳造性」からは理解不能。※中国の青銅器文化

錫は銅合金を硬くし、脆弱にさせるという。「聞く銅鐸」であるII-2式についてはこの「壊れにくくする」という観点も当たっていそうだが、後期の銅鐸は「見る銅鐸」なのでこれも説明がつかない。

日本最大-高さ135cmの「大岩山銅鐸」も錫・鉛が少ないとすると、どうやって作ったんだろうか?

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2007年11月16日 (金)

銅鐸の金属成分-形式と成分構成の関係

Kamoiwakura加茂岩倉銅鐸(n=39)とこれまで調査された銅鐸成分表(n=30)それから、荒 神谷(n=3)のデータを加えて銅、錫、鉛の三角グラフ(三元分布図)を作成してみた。ご覧になっていただくとわかるのだが、かなり興味深い結果となった。※その他成分量は銅に加えてグラフ化している。

外縁付鈕式のII-1式とII-2式で成分構成比がガラッと異なる点だが、前に扁平鈕式の細分基準で取り上げた鉛同位体比でもII-1式とII-2式間では各々II-1=ラインD、II-2=領域Aと大きく差異があると指摘されており、やはり材料供給の面で大きな画期があることは間違いなさそうだ。

Doutakuまた成分一覧表の中の不明鐸について梅原末治「銅鐸の研究」など参照して下記のように判明した(一部推定/県名と数字は島根県埋文センター作成の「銅鐸出土地名表」2002年の番号)
伝鳥取:鳥取5 辰馬  福田型
滋賀県鏡山1,2号:滋賀5 蒲生郡竜王町山面高塚 東博 III-2,1
徳島麻植牛島:徳島8 麻植郡鴨島町上浦牛島 東博 III
伝羽曳山出土銅鐸:末永雅雄氏所蔵 IV-4
徳島津峰南方:徳島14 徳島県阿南市椿町曲り III
香川石田原:香川6 三豊郡一ノ谷村 II-2
徳島坂野大山:徳島12 板野郡上坂町神宅 III
砂山鐸:和歌山21 紀ノ川(砂山)IV-4
速玉神社鐸:和歌山19 和歌山県新宮市神倉山ことびき岩下  熊野速玉神社 IV-4

三角グラフ及び参考文献
『荒神谷遺跡と青銅器-科学が解き明かす荒神谷の謎』島根県古代文化センター編 1995 同朋舎出版
※上記文献中の平尾良光他「荒神谷から出土した青銅製品の科学組成」に荒神谷銅剣の三角グラフやこれまで調査された銅鐸の成分一覧表が載っている。

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2007年11月13日 (火)

加茂岩倉遺跡出土銅鐸の金属成分

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唐古・鍵遺跡の銅鐸片の金属成分が加茂岩倉出土銅鐸と似ている件-島根県教委に問い合わせしてみたところ、下記のようなことがわかった。

日本文化財科学会の第24回大会が、2007年6月2~3日、奈良教育大学で開催され、その時、加茂岩倉遺跡出土銅鐸の主成分が発表されている。

肥塚隆保、高妻洋成、降幡順子(奈良文化財研究所)、山崎修(雲南市教育委員会)、松本岩雄(島根県立古代出雲歴史博物館)「重要文化財島根県加茂岩倉遺跡出土銅鐸の保存修理一保存科学調査から-」『日本文化財科学会第24回大会研究発表要旨集』(2007年)

加茂岩倉遺跡出土銅鐸の保存処理は1999年から8年かけて奈文研で行われ、昨年度終了し、現在は島根県立古代出雲歴史博物館で公開展示されている。保存処理の過程で成分分析も行われ、上記の要旨集に39個の銅鐸の主成分(銅Cu, 錫Sn, 鉛Pb)が一覧表で掲載されている。

>銅鐸39個の平均値と標準偏差は、銅:77.7±5.4%, 錫:11.4±4.9%, 鉛:7.4±1.2%で、錫のバラツキは大きいが、鉛のバラツキは少ない傾向が認められる。(中略)これらの材料的な異なりは、比較的銅鐸の形式が関与しているような結果を得た。

問題のII-2式(外縁付鈕2式)について平均値・標準偏差を出してみたが、
銅:84.96±3.81%, 錫:4.21±1.61%, 鉛:6.99±1.56%
一見して、唐古・鍵遺跡の銅鐸片(Cu92%,Sn2.83%,Pb3.35%)とはかなり違う… どうしてこれが「よく似た割合」という話になったのか? II-2式 9個の内、錫1.79%が1個、7.62%というのが1個あるが、他の7個は3.15, 3.21, 3.75, 4.25, 4.36, 4.84, 4.97%

ちなみに、各々形式別に平均値・標準偏差を算出すると、
II-1式 銅:75.65±2.72%, 錫:13.40±0.92%, 鉛:7.79±0.67%
III-1式(II-2式の可能性あり) 銅:84.01±2.72%, 錫:4.36±3.06%, 鉛:7.98±1.25%
III-2式 銅:73.74±2.62%, 錫:15.72±2.65%, 鉛:7.35±1.69%

確かに形式と成分比に相関はありそうだが、II-2式やIII-1式が、唐古・鍵と似ているのは錫の%が他の形式より低いことぐらい。鉛は7%あるし、錫だって4%以上ある。どうしてこの数値で「唐古・鍵遺跡出土の銅鐸片の成分が、加茂岩倉遺跡出土の銅鐸によく似ていることがわかった」となるんだろう?

>石野博信・兵庫県立考古博物館長(考古学)
>「大和と出雲の連携を示す可能性がある。銅鐸は祭祀用具とされるので、同じ神様をまつるなど、宗教的な共通性があったのだろうか」(朝日新聞/2007/10/18)

>島根県立古代出雲歴史博物館・松本岩雄(学芸部長)
>「銅鐸の一部は大和で作られ、出雲にもたらされたかもしれない。さらに科学分析を進めることで、新たな視点が出てくることを期待したい」(読売新聞/2007/10/19)

と唐古・鍵遺跡銅鐸片のニュースにコメントされているが、唐古・鍵の銅鐸片と加茂岩倉の金属成分は全然似ていない。罪のない古代史ファンが混乱するだけなので、こういう談話はやめて欲しい。

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