8金属成分・鋳造技術

2015年2月11日 (水)

国宝桜ケ丘銅鐸 発見50年記念、弥生時代の姿再現

B_07732062


1964年に神戸市灘区の六甲山麓で見つかった国宝桜ケ丘銅鐸の複製を作り、製造された弥生時代の姿を再現する催しが11日、同市中央区熊内町7の竹中大工道具館であった。復元された銅鐸の表面には、本物では摩耗し見えにくくなった渦巻き模様が浮かび上がり、参加した考古学ファンが歓声を上げた。

銅鐸を所蔵する同市立博物館などの主催。昨年12月に発見から50年を迎えたことを記念し、14個あるうちの一つ「桜ケ丘12号銅鐸」(高さ約31センチ)を再現した。

復元ではまず、銅にスズや鉛を混ぜて溶かした青銅約3・5キロを鋳型に注入。自然に冷えるのを待ち鋳型を外すと、黄金色に輝く銅鐸が現れた。今から2千年ほど前、豊作を願う祭礼に用いられたとみられる国宝の当初の輝きがよみがえった。

YouTubeで動画国宝「桜ヶ丘銅鐸」の複製も見られる

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2015年1月22日 (木)

公開銅鐸鋳造 桜ケ丘銅鐸の鋳造技術に迫る

Photo_7


◇イベント「公開銅鐸鋳造 桜ケ丘銅鐸の鋳造技術に迫る」のご案内◇
神戸市立博物館所蔵の国宝「桜ケ丘銅鐸・銅戈」の発見50周年記念事業
として、桜ケ丘12号銅鐸の復元鋳造実験を公開で行います。
2013年度より、神戸市立博物館と九州国立博物館による最先端科学機器と
技術を駆使した三次元計測やX線CTによる調査などで明らかになった銅鐸
の文様の再現を含め、銅鐸が制作された弥生時代中期の鋳造技術にせまる
試みです。またとない機会ですので、ぜひご参加ください。

 日 時:2015年2月11日(水・祝)13:30~15:30 (13:00開場)
 会 場:竹中大工道具館 テラス
 定 員:60名(当日先着順)
 主 催:神戸市立博物館、九州国立博物館
 協 力:竹中大工道具館
 問合せ先:078-391-0035(神戸市立博物館 学芸課)
▽イベントの詳細は下記の神戸市立博物館のHPをご覧ください。
http://www.city.kobe.lg.jp/museum/

国宝桜ヶ丘銅鐸・銅戈発見50周年記念事業 公開銅鐸鋳造 桜ヶ丘銅鐸の鋳造技術に迫る

神戸市立博物館が所蔵する国宝桜ヶ丘銅鐸・銅戈の発見50周年記念事業の関連行事です。当館では、桜ヶ丘銅鐸・銅戈の今後の保護や活用に関する研究を九州国立博物館と共同で実施しています。この成果をもとに画像上で復元された銅鐸の姿を、多くの方々に実感していただくために、桜ヶ丘12号銅鐸を当時の姿に復元鋳造する試みを公開で行います。この取り組みは、銅鐸の鋳造技術を解明するための研究の一端を、市民の方々に、よりわかりやすい形でご紹介するとともに、復元実験で得られた成果を記録し、弥生時代中期の鋳造技術に迫ろうとする取り組みです。

日時
平成27年2月11日(水曜・祝日)13時00分~15時30分

場所
竹中大工道具館 テラス
神戸市中央区熊内町7-5-1
電話 078-242-0216

主催
神戸市立博物館・九州国立博物館

協力
公益財団法人 竹中大工道具館

参加方法
先着60名様に13時から整理券を配布します。

参加費
無料(ただし、竹中大工道具館の入館料は必要)。

入館料
一般500円/大学・高校生300円/小・中学生無料/65歳以上200円(年齢証明できるもの要提示)/障がい者手帳お持ちの方無料

問い合わせ先
神戸市立博物館学芸課 担当 東・橋詰
電話:078-391-0035

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年5月 9日 (月)

纒向遺跡出土の破砕銅鐸

091902_2091910 昨年9月、纒向遺跡から大量の桃の種が出土したというニュースが話題になったが、実はこの時、銅鐸の破片も出土している(註1)。

銅鐸の破片については、大型建物や桃の種の陰であまり注目されていないが、銅鐸の最後を考える上で見逃せない情報といえる。

こういった銅鐸の破片を「破砕銅鐸」と呼ぶが、このブログでもこれまで何度か破砕銅鐸について論じてきた。
奈良県に後期銅鐸がない理由

破砕銅鐸の行方

脇本遺跡で銅鐸片出土

大福遺跡の破砕銅鐸

銅鐸破壊実験

大福遺跡第28次調査~銅鐸片の発見~大福では2009年3月にも見つかっている!

破砕銅鐸の事例は既に30例を超しており、難波洋三さんによれば、個数としてはいわゆる後期の近畿式銅鐸総数の約30%弱を占めるという(東海では約50%, 近畿では約40%と高い)。残りは弥生後期の内に埋納されたものなので、平たくいえば、銅鐸祭祀の終焉時=弥生後期後半~庄内期の時点で地上にあった銅鐸のほとんどが破壊されていることになる?!

破砕銅鐸は突線鈕式鐸でも最新式といえる1mを越える大型鐸ばかりだから、破片として出土したものは本来の銅鐸のごく一部分がたまたま偶然に残存したと考えられる。住居内や濠などから半ば遺棄された状態で発見されるのもこのことを裏付けている。

何故銅鐸が破壊されたのか…このことについては、これまでも様々な説が唱えられてきている。

Nhk 先日(といっても1/23)のNHKスペシャル「“邪馬台国”を掘る」で、石野博信さんと桜井市の橋本輝彦さんが、小泉武寛工房製作の1mはありそうな近畿式銅鐸(200万円)を派手にぶっ壊していたが、あんな大きなハンマーでガンガンやらなくても熱された銅鐸を壊すことは可能である…番組的には銅鐸=弥生の神になぞらえて、旧来の神々(信仰)が破壊されていく様を絵的に見せようとしているのだろう。

しかし「弥生の神」とは何なのか? そもそも「銅鐸=神(偶像)」なのか? 石野さんは「弥生の神」という言葉を何度も使い、橋本さんも纒向のヤマト王権から「銅鐸破壊指令」が出たなどと講演会で説明しているが、考古学者の宗教観の陳腐さもさることながら、あのようなショッキングな破壊シーンは視聴者をミスリードさせているように思える。

破砕実験…難波さんが細かく丁寧に銅鐸を破壊してるところが見れます!
※2010/6/26-27 日本文化財科学会第27回大会「復元青銅器の破砕実験」時に発表された映像

脇本遺跡や大福遺跡で破砕銅鐸が鋳造関連遺物と伴出したことから、銅鐸破壊の目的が青銅の原材料としての「リサイクル」「改鋳」にあったことはほぼ間違いない。

銅鐸を破壊し改鋳したというと…「銅鏡」と想定する人は多いだろう。アマチュアの邪馬台国論でも「邪馬台国は九州にあり、その勢力が東征し、近畿勢力の宗教的象徴であった銅鐸を破壊し、銅鏡に改鋳した。あるいは、被征服者らはあわてて銅鐸を埋めた」などという解釈は今でも根強い。銅鐸研究でも有名な春成秀爾さんも「銅鐸の時代」の中で「むしろ積極的に破砕されて他の器物に改鋳されていった」と書いている。

しかし、青銅器の成分配合比や鉛同位体比の研究からは、銅鐸を破壊して鋳つぶしても三角縁神獣鏡など前期古墳に大量に副葬された銅鏡はできない。弥生後期の青銅器が古墳時代青銅器の材料の一部となった可能性は残るものの、銅鐸の成分=銅鏡の成分とはならないことは明らか。

銅鐸は銅鏡に改鋳されたのか(1)(2)(3

Photo 破砕銅鐸が銅鐸のごく一部分が偶然残存したものなら、逆に破壊された銅鐸は製作された近畿式銅鐸総数の約30%や半分どころではなく、もっと多いことになろう。その破片全部が改鋳され“他の器物”に姿を変えたのなら、我々はそれらの銅鐸を永遠に見ることはできないことになる。破砕銅鐸が一定の形状に揃えようとしていること、久田谷(写真3)のように破壊後、一時的に保管されていた場合もあるらしいこと(なにか袋状のものに入っていた可能性もある)、など…銅鐸破片が青銅器原料として流通していた状況を窺わせる。

本来弥生集落のなかった纒向遺跡周辺で破砕銅鐸が出土する事実…それも複数個の個体とすれば(註2)、ここで破壊の儀式が行われたなどという空想より、各地で破壊された銅鐸片が青銅器材料として纒向に運ばれてきたと考えた方がより事実に即した理解と思える。

では破壊された銅鐸は何に改鋳されたのか…その答えはどうも「銅鏃」らしい(意外かもしれないが、上記の成分分析からも銅鐸と銅鏃の成分は一致するのだ)。

Dozokutetsuzoku 寺前直人さんは「石器の生産、流通構造が崩壊した畿内地域では、鉄の十分な供給体制も技術的発展も達成せぬまま金属器依存状況へと変遷を余儀なくされた」とし、遺跡立地における銅鏃と鉄鏃の偏在性-特に銅鏃が低地遺跡に偏在することから「低地部の伝統的な大型集落では中期以来の技術的系譜に基づき銅鏃生産が活発化した」と説く(高地性集落では銅鏃よりも入手が困難な鉄鏃の出土が多い…写真4:銅鏃と鉄鏃)。

問題は、後期の近畿式銅鐸の生産がどの時点まで下るのか=銅鐸生産の最終段階はいつなのか? また近畿の弥生中期社会が儀礼的な金属器利用が強かったのに、近畿の後期社会が後期のどの段階で実用的な金属器生産にシフトするのか? 今後こういった部分の解明が待たれる。

「近畿式銅鐸を(支配領域の縁辺部に)配布しながら、奈良盆地東南部では前方後円墳祭祀が始まった」とか「新たな宗教的、政治的枠組みのシンボルとして銅鐸から銅鏡が選択された」などという解釈は、考古学的事実の表層的な理解に止まっており、ついていけないものを感じている。かといってドラマティックな東征論は歴史的な事実からさらにかけ離れた夢想であろう。

<参考文献>
難波洋三「銅鐸の埋納と破壊」『難波分類に基づく銅鐸出土地名表の作成(文部科学省科研費補助金研究成果報告書)』2007年(銅鐸博物館20周年記念「銅鐸シンポジウム-銅鐸の始まりと終わり-」予稿集に部分収録)
春成秀爾「銅鐸の時代」『国立歴史民俗博物館研究報告』1号, 1982年, p.24
寺前直人「ヤジリと高地性集落」『古代文化』58-II, 2006年
寺前直人「銅鐸と武器形青銅器-畿内弥生社会の変質過程-」『月刊考古学ジャーナル』No.590, 2009年
石野博信「考古学ここだけの話」 vol.04, vol.11

<註>
1:銅鐸片は銅鐸の鰭部分で、古墳時代後期の包含層からの出土、破片は3.7×3.2cmの小さなもの。
2:調査区周辺では、今回の調査区の北側の溝から、昭和47年に銅鐸の飾耳の破片が出土しており、今回の銅鐸片との関係が注目される。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月22日 (日)

銅鐸内の気泡-土製と石製の鋳型の違いを裏付け

Photo 外縁付鈕式の銅鐸は石製鋳型で作られ、扁平鈕式銅鐸以降(正確には扁平鈕式の新段階~)、土製鋳型に変わったと言われてきたが、銅鐸をX線写真で分析することで、その合金内の気泡の量が石製から土製で減少することがわかったという。

見えた 技術進歩 - 合金の気泡減少【橿考研博物館】 2009/11/22 奈良新聞

気泡が多い石製鋳型で造られた「外縁付鈕式」の銅鐸の透視写真(県立橿原考古学研究所付属博物館提供)
弥生時代を象徴する青銅器、銅鐸(どうたく)の研究の一環で、県立橿原考古学研究所付属博物館(橿原市畝傍町)はこのほど、銅鐸8点のX線撮影を実施。制作年代が新しくなるほど合金に気泡がなくなり、均質な製品ができていく技術の向上を検証した。

会期中の特別展「銅鐸」(―23日)で展示している様式や大きさの異なる銅鐸8点(いずれも辰馬考古資料館蔵)を撮影した。

銅鐸は、鋳型に合金を流し込んで造った。鋳型は、年代とともに石製から土製へ変化。鋳型の変化に伴い、外見上でも文様が鮮明になるなど精度が上がることが指摘されていた。

X線撮影の結果、弥生時代前期(約2300年前)の「外縁付鈕式」の銅鐸は気泡がとても多く、弥生時代中期後半とされる「扁平鈕式」の銅鐸にはほとんど気泡はみられなかった。同研究所付属博物館の北井利幸主任技師は「土製と石製の鋳型で造られた銅鐸の違いを裏付けることができた」としている。

12月13日まで、X線撮影の写真パネルを同博物館で展示する。今月23日までは、実物と比較して見ることができる。

午前9時から午後5時まで。特別展会期中の入館料は大人800円、高・大学生450円、小・中学生300円。問い合わせは同博物館、電話0744(24)1185。

写真:気泡が多い石製鋳型で造られた「外縁付鈕式」の銅鐸の透視写真(県立橿原考古学研究所付属博物館提供)

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2009年11月13日 (金)

兵庫県立考古博物館「銅鐸破壊実験~壊れた銅鐸のナゾに迫る~」

1今月末11/28(土)13:30~、兵庫県立考古博物館で「銅鐸破壊実験(2回目)」が行われる。1回目は今年2/11に開催されたが、熱した後、水をかける方法では、銅鐸は壊れなかった(その後再加熱して叩くとようやく割ることができた)。今回は加熱を続けて熔解寸前で衝撃を与える方法がとられると思われる。成功するといいのだが…

11月28日(土)13:30~15:00
体験イベント「銅鐸破壊実験~壊れた銅鐸のナゾに迫る~」
場所:講堂・体験広場
対象:どなたでも
料金:無料

兵庫県立考古博物館
〒675-0142 兵庫県加古郡播磨町大中1-1-1 TEL.079-437-5589

開催中の特別展「古代祭祀の世界」(2009/10/3(土) ~ 11/29(日))でも久田谷の破砕銅鐸などが展示されている。

写真は1回目の実験の様子(銅鐸を壊しているのは石野館長)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年6月22日 (月)

日本考古学協会ポスターセッション「弥生時代における熔銅技術とその問題点」

Photo_2先月の5/31に早大で開催された考古学協会のポスターセッションで、愛媛大の村上恭通さんが「弥生時代における溶銅技術とその問題点」という非常に興味深い発表をされていた。村上さんからも直接いろいろとお話を伺えて、久しぶりに感動してまだ興奮が醒めやらない。

Photo_2従来、弥生時代の青銅器を造る際の原料を溶かすには、写真2(田原本町2006)のような小規模な炉が使用されたと考えられてきた。写真3(田原本町2006)は一昨年、奈良県田原本町の唐古・鍵考古学ミュージアムで復元実験(小泉武寛さんによる)が行われた際の様子だが、炉で溶かされた青銅が一旦取瓶(とりべ)に取られて(写真3-(6))、それから鋳型に流し込まれている(写真3-(7))。

Photo_3しかし、不思議なことに弥生時代の鋳造関連の遺跡からは、はっきりとした炉の跡が見つからない(唐古・鍵では炉と見られる遺構が検出されているが…)。出てくるのは鋳型片、中子片、送風管(鞴羽口)、銅鐸片、銅鏡片、銅滴、棒状銅製品、錫塊などなど…そして高坏状土製品というものがある。

高坏状土製品の例
唐古・鍵遺跡の高坏状土製品・送風管
楠遺跡の高坏状土製品


Photo弥生時代の高坏状土製品(写真4-村上2009)は、これまで炉から鋳型に鋳込む時使う「取瓶」と考えられていた。しかし、村上さんが今回発表された説は、取瓶とみられてきた高坏状土製品が、実はそれ自体が「土器炉」だったというもの(この土製品を「坩堝炉」だとする説は神崎勝さんが想定されているが(神崎2006)、外部から熱を受けた痕跡がない)。

これまでも使用する際は、この土器の内壁に粘土を分厚く塗ったと考えられいた(写真5-田原本町2006)。村上さんは、粘土を内貼りした土器(罐)内部に直接燃料(木炭)を充填して、その上面に素材(青銅片)を乗せ、そこにL字形に曲がった送風管(折れ羽口)で上方から風を吹き下ろすという方法を考えた(写真1-村上2009)。今回のポスターセッションでは、この方法で実際に実験した映像も見せていただいた。

Photo_3この方式だと鞴からの送風管の先端は直接、炉の中に挿入されていないため、例え焼けていても、青銅やスラグ(銅滓)が付着したり、溶融したりはしていない。先端がL字に曲がっているのも下側に吹き下ろすためと考えれば理解できる…これまでどうしてL字に曲がっているのか、銅が付着したりしていないのか、説明が難しかった弥生時代の鞴羽口の謎がこれで解ける。

内側の粘土は土器のように焼成していないため、屋外や土中で放置しておくと、流れてなくなってしまう…残された高坏状土製品の内側に粘土が付着していないわけである。また、村上さんの実験では銅を流し終えると、不思議と土器内に青銅はほとんど残らないということで。銅滴は飛び散るが、これは貴重な材料として回収されてしまうので遺跡にはほとんど残らない。村上さんによると、中国湖北省の盤龍城ではこの内側の粘土が残存した資料が出土しており、奇しくも村上さんらと全く同じやり方で復元実験をしていたという。

40kg現在出土している高坏状土製品で一度に熔解できる青銅の量は最大4kg程度ということで、45kgもある日本最大の大岩山銅鐸の鋳造には、12基以上の土器炉が必要となる計算になる(写真6-村上2008)。鋳型への流し込み作業は一発勝負であり、これだけ多数の土器炉を同時にタイミングよく稼働させる様はまるで“ダンス”のようで、青銅器鋳造が「秘技的なもの(非公開)」から「マツリ的なもの(公開)」に変貌していくと考えられるという。それが返って青銅器の呪術性の喪失を招いたという村上さんの指摘は、青銅器祭祀の終焉を考える上で今後重要な観点になると予感させる。

<参考文献>
村上恭通 2009「弥生時代における熔銅技術とその問題点」『日本考古学協会第75回総会 研究発表要旨』日本考古学協会
村上恭通編 2008『愛媛大学考古学研究室第9回公開シンポジウム 弥生・冶金・祭祀』愛媛大学考古学研究室
田原本町教委 2006『弥生時代の青銅器鋳造(唐古・鍵考古学ミュージアム・平成18年度秋季企画展図録)』
神崎勝 2006『冶金考古学概論』雄山閣

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2009年5月 7日 (木)

銅鐸破壊実験-兵庫県立考古博物館

Photo2月初め、兵庫県立考古博物館で銅鐸破壊実験(「銅鐸を壊す」もよおしレポート(2009/2/8))が行われた。残念ながら、実験を見ることは叶わなかったが、先日博物館で実験で破壊された銅鐸片を観察することができた。

最近(といっても30年くらい前からだが)、集落遺跡から銅鐸の破片が出土する事例が増えており、30例を越える。このような破片で出土する銅鐸のことを「破砕銅鐸」と呼び、破片で出土する理由については諸説あることは以前のブログでも何度か取り上げた。破砕銅鐸には比較的飾耳の部分が多いため、祭祀の最中に不意に壊れたとする意見もあったが、鰭や鐸身部分の破片もみられ、銅鐸本体がバラバラにされていることはほぼ確実視されてきている。

それでは銅鐸はどうしたら壊れるのか(どのように壊したのか)について知るために、今回実験が行われたわけだが、いくつかの興味深い事実が判明した。銅鐸片の観察所見に博物館の実験レポートをまじえながら紹介したい。

まず実験では、銅鐸を叩いてみたがこれでは壊れないことが判明-使用中に壊れた説はここでも否定されたわけで、飾耳部分を失った銅鐸などについては鉄器などで切り取った可能性が高くなったと言える。

次に銅鐸を焚き火の上で熱して水をかけて急冷したが、シューシューと音はするものの銅鐸は壊れなかった。この「銅鐸を火で熱して急に水をかけたら割れる」というのは、佐原眞さんが1979年の著書(『日本の原始美術7 銅鐸』(講談社))の中で、久田谷銅鐸(写真2)について「火で熱して水をかけて破砕したかのように曲がった破片もふくまれている」と書いたのが最初らしい。これに対して森浩一さんは「銅鐸を火で熱して急に水をかけたら割れるという人もいますけれども、まだ実証されていません」と反論していた(森浩一『銅鐸と日本文化』)。確かにこれまで検証はなされておらず、今回は佐原説を検証する実験となった。

この後、もう一度銅鐸を10分間火にかけ、すぐに叩くと今度は簡単に壊れてしまった。この時、熱しはじめて一定時間経過すると銅鐸の色が金色→赤茶色に変色したということで、久田谷例などに変色して褐色となっている破片があるのが思い出される。

銅鐸破壊の最初の一撃は鐸身裾のちょうど内面突帯のある辺り(写真1左側面の右下)で破片もかなり凹んでいた。写真右側面は何度も叩いたらしく粉々に砕かれてしまっている。実験でできた銅鐸片を見た第一印象として、破断面がギザギザしており、打撃による衝撃でひび割れが表裏ともに走っている。出土した破砕銅鐸の破断面は直線状でひび割れもあまり見たことがない。また適当に殴打したせいかもしれないが、様々な方向に割れており、多くの破砕銅鐸が5cm角程度の大きさに揃えたような状況であるのとも異なっている。

Kutadani内面突帯のある部分や鰭と身、袈裟襷と内区、舞と鈕など-厚みに変化のある部分を殴打すれば、そのラインで壊れやすいのは想像できるし、今回の実験でもそういった箇所で綺麗に割れている破片もあった。しかし出土した破砕銅鐸の場合、袈裟襷や突線の方向に直交して壊れているものもあり、壊れやすい箇所を壊したというより-もっと意識的に形を揃えて小片化している印象が強い。久田谷銅鐸の報告では、「破片の中には、亀裂の入ったものや、捩れたり歪んだものはあるが、打撃痕や鑢状工具で切り離したような痕跡は認められない」とある(参考文献)。今回の実験で焚き火程度の温度で熱して衝撃を与えることで、銅鐸が比較的簡単に壊れることはわかったが、出土した破砕銅鐸の状態とは破損状態が異なっており、さらに「謎」は深まったと言えるかもしれない。

博物館の実験レポートでは“「湿ったおかき」のような感じ”とあるが、まさしく破片の感じをよく言い表している。一度水をかけたため銅鐸の温度が下がってしまったのがよくなかったようだとの意見もお聞きした。今回の実験では、錫15%の中期銅鐸に近い成分構成の模鋳銅鐸での実験だったが、次回は錫の少ない後期銅鐸に近い成分の銅鐸で実験を行う計画とのこと。合金の性質的には、錫が多い方が硬く割れやすいはずだが…(錫成分の多い銅鏡などが割れている状況も破断面は直線状)実際にちゃんとしたデータを取るなら、合金成分と厚みなど何段階かに分けたサンプル片を作り、これをいくつかの条件(温度+時間)で熱して衝撃を与えてみるというような実験をしなければならないのだろう。機会があれば、銅鐸の復元製作をされている小泉武寛さん(鋳金家)がどのような意見をお持ちなのか伺ってみたい。

〈参考文献〉
加賀見省一 1982「兵庫県久田谷遺跡出土の銅鐸片」『考古学雑誌』68-1

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月 1日 (木)

貨幣博物館テーマ展「2500年の伝統と技 -中国の鋳銭技術-」

Photo先日の4/27 貨幣博物館で「2500年の伝統と技 -中国の鋳銭技術-」 (2008/3/13~4/27開催)を見学してきた。
弥生青銅器に興味を持ちはじめてから、その原料とも推定されている中国の銅貨についてもいくつか参考文献を読んでいたが、春秋戦国~魏晋南北朝までの鋳型などが展示されると聞いて興味がそそられた。展示はささやかなものだったが、小さな展示ケースに時代別に鋳型と銭貨がわかりやすく展示されていた。

Photo_3貨幣の鋳型というと、富本銭などの枝銭(写真1)がすぐ思い浮かぶが、中国では前漢代に「畳鋳式」と呼ばれる何枚も鋳型を縦に重ねて中央を貫く湯口から銅を流し込む方式が開発されている。これに対し、枝銭と呼ばれる鋳型は「縦式」という(写真2)。
また展示をみて気づいたのだが、春秋戦国~秦代までは「石の鋳型」だが、前漢に入ると“原母笵”を原型にして、粘土で鋳型を作成している。これによって一つの原型から複数個の鋳型を作成できるようになった。漢代に作られた銭貨はなんと260億個というが、多量の銭貨需要にも驚くが、その需要に応えた技術が「同一原型から複製を作る土の鋳型」だったわけだ。
魏晋南北朝以降、鋳型が発見されなくなるのは「土の鋳型」→「砂型」へ移行したためと考えられている。この辺りは他の青銅器の鋳造技法の変遷を考える上でも興味深い。原母笵も出土しないところをみると、精巧な原母笵を作らないで鋳型を複製する方法-銅貨の実物を原型にするようなやり方が想定されるのだろう(鏡でいう踏み返し)。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2008年1月16日 (水)

銅鐸は銅鏡に改鋳されたのか-鉛同位体比からみた青銅器材料(その3)

Img_coop_main3鉛同位体比の文献を読んでいると、いろいろと面白い実例が載っている。

例えば、佐賀県唐津市中原遺跡の銅釧の事例
この遺跡の2基の甕棺から、銅釧が14個も出てきたが、鉛同位体比を測定すると(グラフ1)のように2つのラインのグループに分かれ、各々のラインが交叉することから3種類の鉛が使われていたと推定されている。この3点が鉛鉱石(方鉛鉱)なのか鉛成分を含む原材料(ようするにスクラップ)なのかまではわからないが… 細かくみると、ラインD(グラフ中の一点破線)の中でも原材料はいくつかに分かれているということになる。
同じ遺跡からたくさん出土した遺物の鉛同位体比は、ある傾向…特定のエリアに集中して、かつある傾きを持って…鉛同位体比が分布することが多いようだ。

S_2例えば、荒神谷遺跡の銅剣の事例について(グラフ2)
グラフを見ていただくと、右と左に長く伸びていることがわかると思う。ほぼ同時期に作られたと推定されている358本の銅剣だが、鉛同位体比からみるとこのように違いがある。この結果については、大きな溶鉱炉のようなもので一度に原材料を溶かして、次々に銅剣を作っていったのではなく、一定の時間をかけて、少しずつ作成していったためと考えられている。この点は銅剣の細かな形式分類からの推定とも一致するらしい。
岩永省三さんは、銅剣の鉛同位体比の分布が領域Aのエリア内にとどまらず、左右にある傾きを持って伸びていることから、領域Aの原材料に、左下のラインDと右上方の遼寧省方面の鉛が添加されている可能性を指摘されている。岩永さんは、銅剣(A-26)1本だけが最古段階の形式の菱環鈕式銅鐸(T-5)と同じ鉛同位体比を示していることから、古い銅鐸(ラインDの青銅製品)を鋳潰して銅剣にしたのではないかと推定されており、添加されたラインDの原材料は、古い青銅器のスクラップ利用だったことを示唆している。

67s次は、弥生時代青銅器と三角縁神獣鏡の鉛同位体比グラフ(グラフ3)
グラフを見ていただければ、領域Aと漢鏡6-7期(後漢-魏晋代)の銅鏡エリアを結んだライン上に、三角縁神獣鏡が位置していることがわかると思う。
新井宏さんも
>三角縁神獣鏡の鉛分布は漢代の鉛と後漢鏡・魏晋鏡の鉛を混合使用したと考えれば、作り出せることである。すなわち、前代(漢代)の青銅器原料に魏晋代の原料を混合したと考えれば、日本でも中国でも製作可能なのである。

と書いており=「銅鐸から銅鏡へのリサイクル!」とも読み取れる。ただしここからは、青銅器の金属成分比-銅、錫、鉛の構成比を基に、シミュレーションする必要がある。銅鏡だけでなく、古墳時代の青銅製品は弥生後期の青銅器に比べて「錫」が圧倒的に多い(20~25%)ので、仮に弥生青銅器を鋳潰して、古墳青銅器を作る場合、「錫」を多量に添加する必要がある(弥生青銅器は錫3~5%)。「鉛」についてはどうかというと、弥生後期青銅器は3~5%、古墳青銅器では5~6%台が多いようなので、こちらも若干は添加しないと古墳青銅器の%に達しないものもある。

仮に1kgの銅鏡を数枚作るために10kgの後期銅鐸を鋳潰す場合、銅鏡の金属構成比 銅70%, 錫25%, 鉛5%とする。10kgの後期銅鐸の金属構成比 銅90%, 錫5%, 鉛5%として、銅鏡の金属構成比と同じ値にするには、錫500g, 鉛500gに対して、錫2.7kg, 鉛143gを添加する必要がある。また後期銅鐸の金属構成比 銅94%, 錫3%, 鉛3%の場合は、錫300g, 鉛300gに対して、錫2.9kg, 鉛343gを添加することになる。混合された鉛原料の割合によって鉛同位対比が変動するとすれば、500gに対し143g、300gに対し343gだから、鉛3%の場合でようやく領域Aと領域Bの中間地点付近まで来ると予想される。シミュレーション的には、かなり多量に領域Bの鉛を添加しないといかんということになりそう。

古墳時代青銅原料と弥生時代青銅原料の混合を想定するにしても、あくまで古墳時代青銅原料(領域B)が主、弥生時代青銅原料(領域A)が従なら説明がつきそうだが、その逆はちょっと考えにくいように思う。三角縁神獣鏡の中に1枚でも領域Aに位置するものがあれば話はグッと面白くなるのだが、そういう事例はまだ1枚も見つかっていない。
また、最近歴博で調査された紀元前2~7世紀初めの韓国の青銅製品に関する鉛同位対比が日本の弥生~古墳時代への鉛同位対比の変遷(領域A→領域Bへ)にリンクしていることも気になる。この研究によると、領域B(歴博:グループB)の原料産地は朝鮮半島ではないか?という点が注目されるし、楽浪郡出土の青銅器の80%が、領域A(歴博:グループA)にあるということは、弥生後期の青銅原料供給に楽浪郡が深く関与していた可能性を窺わせる。

また鉛同位体比研究に関しては、弥生後期の青銅器の鉛同位体比が領域Aのそのまた小さな[a領域]へ集中していることをどう解釈したらよいのかという難問もある。安本美典さんは「ブレンド収縮」という怪しげな用語でこのa領域への集中化を説明しようとしているが、弥生後期には、福岡か大阪に青銅原料のスクラップ再生工場でもあって青銅インゴットを全国に供給でもしていたというのだろうか? 同時代の中国(後漢~三国)では、黄河流域の銅山が枯渇し、銅不足が深刻化していたということなので、日本への原材料供給が潤沢であったとは思えない。個人的な見通しとしては、この辺りの事情(供給元が限定される)が「a領域へ集中」に影響していると考えている。

いろいろ長々と書いてきたが、とにかく鉛同位体比は面白い!! こんな楽しそうな研究成果を学ばない手はないのだが、懐疑的な人はいまだ多い…

図出典
グラフ1:淀川奈緒子,渡辺智恵美,谷水雅治,平尾良光「佐賀県中原遺跡から出土した同釧の鉛同位体比」佐賀県教育庁報告書 (2005に報告書提出済)
グラフ2:岩永省三2003「考古学者からみた青銅器の科学分析」『科学が解き明かす古代の歴史-新世紀の考古科学』クバプロ
グラフ3:新井宏2006「鉛同位体比から見て三角縁神獣鏡は非魏鏡」『東アジアのの古代文化』2006秋(129号)

補足:昨日UPした新井宏さんの講演「三角縁神獣鏡研究の現状」に関連して
脇本遺跡-リサイクル工房の件は、会場からの質問に対し新井さんは「三角縁神獣鏡の鉛同位体比分布から弥生後期青銅器の再利用はあっただろう」とのコメント。ただし、講演後、新井さんに直接お尋ねしたところ、「弥生後期青銅器の再利用といっても、あくまでも古墳時代になって新たに大陸から供給が開始された原料への“添加”であって、銅鐸を破壊して、溶鉱炉で溶かし、銅鏡に改鋳するといった話ではない」という回答だった。
弥生後期青銅器の鉛同位体比が領域A(そのまたa領域)に集中する傾向については、「楽浪郡からの供給、そして華中地域のどこかの鉱山からの銅インゴットによる供給が想定できるとされ、古墳時代の初め頃、何らかの事情でその鉱山からの供給がストップしたのだろう」という意見だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年12月22日 (土)

銅鐸の原料-古代の銅インゴット

Photo_12

青銅器の原料となる古代の銅インゴットがどういうものかご存じだろうか?

写真1は、キプロス島の牛皮型インゴット
写真2は、中国・銅緑山の円盤状インゴット(銅錠)S_2
これらは結構大きいもので、キプロスのが10~50kg、中国のものは5~15kg/1個ある。中国の長安城遺跡の銅錠(長方形)の成分は99%銅だそうだ。
写真3は、岡山県の高塚遺跡で出土した棒状銅製品(長さ134cm,94.4g)弥生後期のもので、ずばり中国から輸入された青銅製品の原料とみられている。成分は銅93.5%、鉛5.5%(錫は0.05)で、鉛同位体比は弥生後期の領域A-a領域と一致。馬淵さんらは中国製銅インゴット(大)が小さなスラブ・ビレット状にされて、日本国内で流通していたのではないかと推定されている。※馬淵久夫2007「鉛同位体比による青銅器研究の30年」『考古学と自然科学』55号(日本文化財科学会)

Photo_13久田谷のバラバラ銅鐸も5cm角ぐらいに几帳面に割られていることから、ちょうど棒状銅製品と似たような重量になりそう。銅鐸破壊→再溶解→再インゴット化ではなく、弥生後期銅鐸は銅%が高いから、小さくカットするだけで小インゴット化(スラブ・ビレット化)できる。

Photo_14馬淵さんらは銅はインゴットで輸入されたとするが、後期銅鐸は錫の%が低い。実は錫は日本国内ではほとんど採れない。中国には古代から錫鉱山があるし、現在でも中国の錫生産量は世界一(二位:マレーシア、三位:ボリビア)。雲南や広西など南方に鉱山があるようだ。吉野ヶ里遺跡の青銅器工房?で純度の高い錫塊(写真4)が出土しているから、弥生時代に錫が中国から輸入されていたのは間違いないだろう。しかし貴重品だったので国内での流通量は僅少だったのでは?ないだろうか。ただし、有名な平原のボウ製大型鏡(46.5cm)にはしっかり錫が27%も入っているから、伊都国人は豊富に持っていたのかもしれない?

銅鐸など弥生時代の青銅器に使われた銅の量は、銅鐸出土数(1995年)約450個→約3tと推定されており、日本の弥生時代の全ての青銅器に使用された総量でも30~100tに満たないとみられている。(※久野邦雄1999『青銅器の考古学』学生社 p.60, 神崎勝2006『冶金考古学概説』雄山閣 p.33, 「我が国の銅の需給状況の歴史と変遷(歴史シリーズ-銅(2)-」金属資源開発調査企画グループ)難波さんも銅鐸の製作総数を計算されているが、最大で見積もって4400個 出土数の約10倍と推定されている。(※難波洋三2000「同笵銅鐸の展開」『シルクロード学研究叢書』3(シルクロード学研究センター)/京博HP銅鐸は何個作られたか)後期銅鐸は出土総数の約31%だが、後期銅鐸の方が大きいので、原材料としては量的に半分ぐらいになるかもしれないが、いずれにしても三桁は越えない。

日本の銅鉱山開発は7-8世紀~定説だが、東大寺大仏の銅380t、梵鐘など他の大型青銅製品も含めると、東大寺造営だけでも約500tの銅が必要とされており、大仏だけで弥生時代全期間の青銅器の必要量を越えてしまう。

弥生青銅器に自然銅などを使ったとされる「国内調達説」は久野雄一郎さんの説だが、久野さんは年間平均使用量は10kg程度と推定し、この程度の青銅原料であれば外国から輸入しなくても国内で十分賄うことができたとする。(※久野雄一郎1997「銅鐸科学考」『銅鐸の谷-加茂岩倉遺跡と出雲』アサヒグラフ別冊)しかし私は理屈としては“逆さま”だと思う。

中国湖北省の銅緑山は春秋~前漢末まで操業した古代中国最大の銅鉱山だが、この鉱山だけで生産された銅は堆積した銅滓量から8~10万tとみられている。(※山田勝芳2000『貨幣の中国古代史』朝日選書)p.150 1日生産量が300kgを下らないということなので(※稲畑耕一郎2007『図説中国文明史-春秋戦国・争覇する文明』創元社 p.120)銅緑山の1日稼働分で弥生青銅器30年分が調達できる計算となる。全く圧倒的にケタ違いの生産量・流通量なのだ。

この程度の青銅原料であれば外国から“買ってきた方が早い”というのが「経済の論理」として正しいと思う。逆に後期銅鐸全部インゴットに鋳直してもどのくらいの量になるか…?そんなものを中国人が買うとは思えない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)