長尾博物館旧蔵銅鐸-各地の銅鐸群と近畿式銅鐸成立の鍵を握るか?
『大阪府の銅鐸図録』-あの野上丈助氏が様々な障害を乗り越えて開催にこぎつけたと言われる銅鐸展の図録。
大阪府下出土の銅鐸は約30を数え、全国的に見て決して少ない数ではない。また府下の博物館や美術館には他県や出土地不明の銅鐸も含めるとかなりの数の銅鐸が所蔵されている。しかし現在常設で見られる銅鐸はレプリカを含めても12個足らず。美術館等に保管されていても個人蔵の寄託品などはほとんど見ることは叶わない状況である。
この図録は国会図書館で初めて見たが、カラーではないものの、大判の写真、ほぼ全銅鐸の実測図付きと-大阪府の銅鐸資料としては、いや全国的にみてもこの水準を抜く資料集はほとんどないだろう。その中でどうも違和感のある銅鐸(写真1)が一つあった。一見よくある四区袈裟襷文銅鐸なのだが、何か違う。所蔵先を見ると、故長尾卯吉氏(長尾博物館)旧蔵となっており、出土地は伝大阪府とされるが詳細は不明のようだ。島根県の銅鐸出土地名表では、現在は大阪市立美術館の保管となっているが、寄託資料のせいなのか美術館に問い合わせても「そんな銅鐸は所蔵していません」と門前払い状態。この銅鐸、梅原先生の『銅鐸の研究』にも載っておらず、他には参考文献はない。『大阪府の銅鐸図録』が唯一の資料らしい。
さて長尾氏旧蔵銅鐸-何がどう違うのか、ここでは三点ほどその特徴を説明し、“謎の銅鐸”をご紹介したい。
・この銅鐸を一見すると、全体のフォルムや鰭・飾耳の形状は、「渦森型」と呼ばれる四区袈裟襷文銅鐸に似ている(写真2:神戸市渦森鐸)。大きさも全高46.9cmで渦森型の標準的なサイズ。ただし舞長径は短く扁平率も1.35と低い-これは後で触れる鈕の形状とも関係しているのだろう。渦森型は数は少ないが(難波洋三氏による集成だと全部で5点)、流水文銅鐸の有本型との関係が指摘されており、河内産の銅鐸とみられている。
・しかし横帯をみると、瀬戸内渦巻き派とも呼ばれる「横帯分割型」で、横帯の上段が格子目文、下段が連続渦巻き文という典型的な瀬戸内渦巻き派である。「横帯分割型」は桜ヶ丘4,5号鐸や伝香川県鐸を祖型として成立した型式-瀬戸内正統派の一種-で、基本的には六区袈裟襷文で、フォルムはスマートな形態で末広がりな渦森型とは全く異なっている。ちなみに渦森型の袈裟襷も上下二段になっているものはあるが、上段が格子目文、下段が連続渦巻き文という文様はない。
・そして最も変わっている点は、鈕の形状が「小判形」と呼ばれる後期銅鐸に近いことである。中期までなら通常は「兜形」であるべきで、それでは突線鈕式かというと、どうみても突線鈕式ではない。袈裟襷の界線は二重になっていないし、突線もない。
・鈕の周辺エッジ部はギザギザになっていて、3対の飾耳が付いていたものが外れた可能性がある。しかし渦森型や近畿式の古式に見られる鈕の飾耳が鈕外縁部に少し食い込んだような形跡はなく、最初から飾耳はなかったのかもしれない-すると渦森型系列の中では特異で、鈕の形状としては三遠式との類似も想起される。また菱環部の綾杉文が下向きになっている-これも中期銅鐸にはない後期銅鐸の特徴-しかし後期銅鐸の特徴である鈕脚壁は見当たらない?
長尾氏旧蔵鐸について、鍋島隆宏氏は「石川流域出土の銅鐸」の中でこの銅鐸を「渦森型」の後継-「長者ヶ原型」に位置付けている(左[写真3]:神戸市桜ヶ丘11号、右[写真4]:徳島県(伝)長者ヶ原1号)。おそらく長者ヶ原型の後継に位置付けられるのが、東国博所蔵の伝和歌山県那珂郡・粉河鐸(写真5/突線鈕I式/58.6cm)になるのだろう。
中期後半からの銅鐸群の各地での林立-その後の統合についての議論は盛んだが、いくつかの銅鐸群に跨るような特徴を持つ長尾氏旧蔵鐸の存在は、銅鐸群の形成と近畿式銅鐸の成立が河内の銅鐸工人集団を軸として進められた可能性を窺わせる。また近畿式銅鐸のベースとなるモデルが渦森型とする考えは佐原先生の説だが、中期末以降一時期銅鐸の主流を占めた瀬戸内正統派固有の横帯分割型の文様や後期銅鐸の形態的特徴となる小判形鈕をこの銅鐸が既に持っていることは、佐原説の妥当性を示すものといえるのではないだろうか。
<参考文献>
大阪府立泉北考古資料館 1986『大阪府の銅鐸図録』
鍋島隆宏 2002「石川流域出土の銅鐸」『太子町立竹内街道歴史資料館館報』第4号 平成9年度
難波洋三 2005「松本清張所蔵銅鐸」『松本清張研究』第6号 北九州市立松本清張記念館
| 固定リンク
| コメント (0)
| トラックバック (0)
最近のコメント