4銅鐸

2010年5月 9日 (日)

長尾博物館旧蔵銅鐸-各地の銅鐸群と近畿式銅鐸成立の鍵を握るか?

Photo 『大阪府の銅鐸図録』-あの野上丈助氏が様々な障害を乗り越えて開催にこぎつけたと言われる銅鐸展の図録。

大阪府下出土の銅鐸は約30を数え、全国的に見て決して少ない数ではない。また府下の博物館や美術館には他県や出土地不明の銅鐸も含めるとかなりの数の銅鐸が所蔵されている。しかし現在常設で見られる銅鐸はレプリカを含めても12個足らず。美術館等に保管されていても個人蔵の寄託品などはほとんど見ることは叶わない状況である。

この図録は国会図書館で初めて見たが、カラーではないものの、大判の写真、ほぼ全銅鐸の実測図付きと-大阪府の銅鐸資料としては、いや全国的にみてもこの水準を抜く資料集はほとんどないだろう。その中でどうも違和感のある銅鐸(写真1)が一つあった。一見よくある四区袈裟襷文銅鐸なのだが、何か違う。所蔵先を見ると、故長尾卯吉氏(長尾博物館)旧蔵となっており、出土地は伝大阪府とされるが詳細は不明のようだ。島根県の銅鐸出土地名表では、現在は大阪市立美術館の保管となっているが、寄託資料のせいなのか美術館に問い合わせても「そんな銅鐸は所蔵していません」と門前払い状態。この銅鐸、梅原先生の『銅鐸の研究』にも載っておらず、他には参考文献はない。『大阪府の銅鐸図録』が唯一の資料らしい。

S さて長尾氏旧蔵銅鐸-何がどう違うのか、ここでは三点ほどその特徴を説明し、“謎の銅鐸”をご紹介したい。

・この銅鐸を一見すると、全体のフォルムや鰭・飾耳の形状は、「渦森型」と呼ばれる四区袈裟襷文銅鐸に似ている(写真2:神戸市渦森鐸)。大きさも全高46.9cmで渦森型の標準的なサイズ。ただし舞長径は短く扁平率も1.35と低い-これは後で触れる鈕の形状とも関係しているのだろう。渦森型は数は少ないが(難波洋三氏による集成だと全部で5点)、流水文銅鐸の有本型との関係が指摘されており、河内産の銅鐸とみられている。

・しかし横帯をみると、瀬戸内渦巻き派とも呼ばれる「横帯分割型」で、横帯の上段が格子目文、下段が連続渦巻き文という典型的な瀬戸内渦巻き派である。「横帯分割型」は桜ヶ丘4,5号鐸や伝香川県鐸を祖型として成立した型式-瀬戸内正統派の一種-で、基本的には六区袈裟襷文で、フォルムはスマートな形態で末広がりな渦森型とは全く異なっている。ちなみに渦森型の袈裟襷も上下二段になっているものはあるが、上段が格子目文、下段が連続渦巻き文という文様はない。

・そして最も変わっている点は、鈕の形状が「小判形」と呼ばれる後期銅鐸に近いことである。中期までなら通常は「兜形」であるべきで、それでは突線鈕式かというと、どうみても突線鈕式ではない。袈裟襷の界線は二重になっていないし、突線もない。

1s11s・鈕の周辺エッジ部はギザギザになっていて、3対の飾耳が付いていたものが外れた可能性がある。しかし渦森型や近畿式の古式に見られる鈕の飾耳が鈕外縁部に少し食い込んだような形跡はなく、最初から飾耳はなかったのかもしれない-すると渦森型系列の中では特異で、鈕の形状としては三遠式との類似も想起される。また菱環部の綾杉文が下向きになっている-これも中期銅鐸にはない後期銅鐸の特徴-しかし後期銅鐸の特徴である鈕脚壁は見当たらない?

長尾氏旧蔵鐸について、鍋島隆宏氏は「石川流域出土の銅鐸」の中でこの銅鐸を「渦森型」の後継-「長者ヶ原型」に位置付けている(左[写真3]:神戸市桜ヶ丘11号、右[写真4]:徳島県(伝)長者ヶ原1号)。おそらく長者ヶ原型の後継に位置付けられるのが、東国博所蔵の伝和歌山県那珂郡・粉河鐸(写真5/突線鈕I式/58.6cm)になるのだろう。

Photo 中期後半からの銅鐸群の各地での林立-その後の統合についての議論は盛んだが、いくつかの銅鐸群に跨るような特徴を持つ長尾氏旧蔵鐸の存在は、銅鐸群の形成と近畿式銅鐸の成立が河内の銅鐸工人集団を軸として進められた可能性を窺わせる。また近畿式銅鐸のベースとなるモデルが渦森型とする考えは佐原先生の説だが、中期末以降一時期銅鐸の主流を占めた瀬戸内正統派固有の横帯分割型の文様や後期銅鐸の形態的特徴となる小判形鈕をこの銅鐸が既に持っていることは、佐原説の妥当性を示すものといえるのではないだろうか。

<参考文献>
大阪府立泉北考古資料館 1986『大阪府の銅鐸図録』
鍋島隆宏 2002「石川流域出土の銅鐸」『太子町立竹内街道歴史資料館館報』第4号 平成9年度
難波洋三 2005「松本清張所蔵銅鐸」『松本清張研究』第6号 北九州市立松本清張記念館

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2009年5月30日 (土)

海外美術館の銅鐸(アジア編)

昨年、米国と欧州の美術館に所蔵・展示されている銅鐸を紹介した「海外美術館の銅鐸」(米国編08/6/26, 欧州編08/9/4)-第三弾はアジア編(といっても2箇所しかないが…)。

200702260301korea2014韓国国立中央博物館National Museum of Korea
まず、最初はお隣の韓国-2005年に龍山にリニューアルオープンした韓国国立中央博物館のアジア館-日本室に、和歌山県日高町出土の荊木(向山)銅鐸が展示されている(写真1)。実はこの銅鐸は東京国立博物館から貸し出されたもので、銅矛や銅戈といっしょに展示されていた。私が訪れたのは2007年5月なので定期的に他の銅鐸と入れ替えているかもしれないがその後のことはわからない。

L1r2荊木鐸は2個出土しており、よく似ているが(写真2)、韓国に貸出展示されているのはおそらく2号(まさか中央博に日本の銅鐸があるとは思わなかった…次の機会あれば東博の図録持参で観察してきたい)。いずれも後期の突線鈕式の近畿式銅鐸で80cm台とあまり大きくない。1号(左)には中央の縦帯に軸突線が入るので4式、2号(右)は3式に分類され2号の方が88.6cmと若干大きい(1号は82.2cm)。
展示室写真出典


Sイラク国立博物館
Iraq Museum International
1932年(昭和7)大阪府太子町茶臼山山麓で出土した茶臼山九流銅鐸は発見後、個人蔵を経て東京国立博物館の所蔵品となっていたが、現在日本にはなく、イラク国立博物館の蔵品となっている(写真3)。これは1970年にイラク国との考古遺物交換品に選ばれたためで、その後2003年~イラク戦争(第二次湾岸戦争)によって、現在、実見はおろか所蔵の確認すらできない状態となっている。米軍侵攻時の混乱でイラク国立博物館の所蔵品の1万5千点が略奪や被害にあったと報道されており、茶臼山鐸の行方が気遣われる。

茶臼山鐸は、時代的にもレプリカ制作などされておらず、僅かに白黒写真が残されていただけだったが、最近末永雅雄氏旧蔵の拓本資料があることがわかった(中野2008)。拓本は片面だけだが、この資料の発見により詳細な文様観察が可能となった。茶臼山鐸は高さ42.1cmの扁平鈕式新段階の六区袈裟襷文銅鐸で、いくつかのバリエーションのある六区袈裟襷文銅鐸の中でも典型的な正統派といえるタイプ。難波分類の2類の中でも後出するとみられている(鍋島1998)。欧州編でベルリン美術館の船渡2号鐸を紹介したが、この茶臼山鐸も戦争の犠牲となった銅鐸といえそうだ。

Photoイタリア国立東洋美術博物館Museo Nazionale d' Arte Orientale "G.TUCCI"
茶臼山鐸のように交換文化財となった青銅器は他にもある。2006年夏にイタリア-ローマにある国立東洋美術博物館を訪れた際、香川県出土の中広形銅矛が展示されているのを見た。柄部分に漢数字で八一二(縦書き)と小さく筆で書かれていて、出土年か収蔵年かは不明だが、説明には1951年とあり、出土地については、遺跡や地名なく単に“香川”となっていた。

Photo_2すわこれも明治の頃の国外流出品かと思われたが、帰国後、香川県高松市の知人Yさんに尋ねたところ、この銅矛は高松市郷東町下ノ山(石清尾山北麓緩斜面)で1878年に出土したもので、中広形銅矛が2点出土し、当初は2点とも東京国立博物館に収蔵されていたが、その後、1点がイタリアの国立東洋美術博物館に所蔵となっているという(もう1点の銅矛は813と続き番号なので東博に収蔵された時の登録番号らしい)。1951年は日本からイタリアへ渡った年である可能性が高く、おそらくイラク国立博物館の場合と同様、何らかの経緯で交換文化財に選ばれたのだと思われる。写真4はイタリアで撮影したものだが、ピカピカに磨かれて赤銅色を呈しており、『讃岐青銅器図録』の写真5と比べると刃部先端が破損している…

<参考文献>
東京国立博物館2005『東京国立博物館図版目録-弥生遺物篇(金属器)増補改訂』中央公論美術出版
鍋島隆宏1998「石川流域出土の銅鐸について」『太子町立竹内街道歴史資料館 館報』第4号(平成9年度)
中野咲2008「茶臼山銅鐸について-末永雅雄先生旧蔵拓本資料の整理から-」『青陵』第126号
瀬戸内海歴史民俗資料館1983『讃岐青銅器図録』

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2009年5月16日 (土)

推定淡路島出土銅鐸(兵庫23, 突線鈕1式, 2区流水文, 身37.3cm)

Photo昨年秋の辰馬考古資料館の秋季展でこの銅鐸を初めて見ることができた。図録の写真などを最初に見た時の印象は、はっきり言って“ちょっと気持ち悪い”銅鐸だなと感じていた(写真1)。

銅鐸に興味を持った最初の頃は、8c7xとか6c2xといった流水文の見方がよく分からず戸惑っていた。佐原眞さんの「流水文」『日本の文様8 水』(1972年/光琳社出版)や難波洋三さんの「同笵銅鐸2例」『辰馬考古資料館考古学研究紀要』2(1991年)を読んで、ようやく流水文に対する苦手意識がなくなってきたところでこの銅鐸と対面したわけだが、様々な点で興味深い内容を持った銅鐸であることを知った。

Photo_2まず流水文の型式が「縦型」であること…これはこの銅鐸が摂津産銅鐸(東奈良産)の流れをくむものであることを示しているのだが、他にも各所に摂津産の特徴を見い出すことができる。銅鐸全体のデザイン構成は、上下に比較的シンプルな縦型流水文を二つ配置しているが、中央-上下の流水文の間に連続木の葉文を挿入しているのが目に付く。木の葉文は展示されていた裏面の下辺横帯にも施されている(写真2)。この木の葉文(写真3)は東海派と呼ばれる銅鐸に見られる文様であるため、この銅鐸も東海派に分類されている。

また鐸身最上部(舞の直下)には連続鋸歯文の横帯を置いており、下辺横帯も連続鋸歯文+斜格子文帯と流水文銅鐸では他に類例がない-この鐸身最上部の連続鋸歯文は摂津産の銅鐸に必ずのようにあるもので、下辺横帯の上に2条、下に3条の突線がめぐる。そしてこれがこの銅鐸の最も特徴的なところかもしれないが、流水文内を通常の1束5条の平行線条のうち2条を斜線に替え綾杉文としている。おそらく最初に見た時の違和感はこの綾杉文のせいだと思われ、見ていて目がチラチラしてくる…以前にも取り上げたことがあるが幻視効果を狙ったデザインなのかもしれない。

この他、左右の鰭には三対の飾耳が付いているが、この飾耳も内部に綾杉文があるタイプで摂津産と推定される鈴鹿市磯山鐸などに似ている(綾杉の向きは推定淡路鐸が外向き、磯山鐸は内向きだが)。また左右の鰭の連続鋸歯文は右がR鋸歯文、左がL鋸歯文と使い分けられ、下辺横帯の連続鋸歯文はL-Rの交互鋸歯文となっている。裾部に型持孔の見あたらない点も摂津産の特徴が表れている。

Photo_3この銅鐸は出土後に改変を受け、鈕を失い舞と身上部の型持孔も埋められている。鰭の飾耳に古い特徴を残していることから、案外、失われた鈕には外縁付鈕式段階の摂津産銅鐸のように飾耳が2個付いていたかもしれない。身の断面形状は扁平ではなくコロンとしている。

図録(辰馬2008)には「東海派に属する銅鐸は、ほぼ袈裟襷文銅鐸であるが、29(推定淡路島鐸)のみは流水文である。縦型流水文の系譜を引いているとみられる」とある。東海派銅鐸の製作工人が摂津産銅鐸工人の系譜を引くとされる難波さんは、この銅鐸について「東海派に属する唯一の流水文銅鐸である伝淡路出土突線鈕1式二区流水文銅鐸は、6c2x複合縦型流水文を飾る特徴や、身の上縁に鋸歯文の横帯をもつ特徴が、外縁付鈕2式縦型流水文銅鐸と共通しています」と述べている(難波2002)。

東奈良から出土した鋳型は流水文が多いため、摂津産銅鐸と東海派銅鐸は一見関係がないようにみえるが、この推定淡路島鐸の特徴的な意匠が、東海派のルーツが摂津産の銅鐸にあることを物語っているといえるだろう。

<参考文献>
辰馬考古資料館2008「東海派の銅鐸」『展示の栞34 銅鐸から銅鏡へ』
難波洋三2002「八王子銅鐸の位置づけ」『銅鐸から描く弥生時代』学生社
辰馬考古資料館1978「資料の解説-12流水文銅鐸」『銅鐸』

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2008年10月 9日 (木)

吉野ヶ里銅鐸(佐賀1, 福田型, 横帯文, 28cm)

Photo9/13 九州国立博物館で開催されている「よみがえる弥生都市」展(08/8/20~11/16)で吉野ヶ里遺跡で出土した福田型銅鐸を見てきた(写真1)。“福田型銅鐸”と呼ばれる銅鐸群は、1979年に安永田遺跡(佐賀県鳥栖市)で鋳型が出土し、九州産の銅鐸と考えられている。福田型は現在まで吉野ヶ里例を含めて5例見つかっており、奇怪なその文様から“邪視文銅鐸”の異名を持つ。これまで福田型は4例(足守鐸は未見)観察する機会があり、吉野ヶ里銅鐸も吉野ヶ里遺跡展示室でレプリカをみていたが、実物の方が鈕の文様などが鮮明なようだ。

吉野ヶ里銅鐸は発見時の衝撃で鈕が細片化、鐸身も一部破損しており、特にB面は大きく欠損している。鋳上がりがよくない部分は文様が不鮮明な箇所もある。

福田型は通常の銅鐸と異なり「複合鋸歯文」の多用が特徴で、吉野ヶ里銅鐸も鈕の外縁から鰭にかけて複合鋸歯文で飾られている。観察できたのはA面で、内向き鋸歯文の斜線がR,外向き鋸歯文はLとなっているが、B面は逆になっているという。鈕の菱環部は綾杉文が右向きに施されるが、この菱環部は擬似的なもので、内縁部の綾杉文と一体になった内縁文様帯と捉えるべきだろう。菱環部の軸線が若干突出するが、鈕全体は一定の厚さを保ちつつフラットで、むしろ外縁と内縁を区切る三重界線の方が突線状を呈する。また吉野ヶ里銅鐸の鈕は外縁頂部の幅が広く、後の三遠式などにみられる小判形鈕に近い。

鐸身部はニ区に分けられ、その間に三つの横帯文が巡る-いわゆる二区横帯文である。横帯文の構成は、二条の綾杉文とその間の無文帯で、第2横帯と第3横帯は二条の綾杉文の上と下にも無文帯を置く。福田型の特徴として、第1横帯が舞に接さず、空白部分を残す。吉野ヶ里鐸の場合、鋳上がりのせいか横帯文の綾杉文と無文の間に高低差がはっきりしないが、他の福田型では無紋帯が一段深く彫り込まれ、綾杉文帯が浮き出るように作られている。鈕もそうだが、福田型鐸を少し斜めから観察すると、表面の文様が凹凸で表現されていることがわかる。近畿の銅鐸が基本的にライン(界線)だけで文様を表現しているのと手法が異なっている。

Photo_2吉野ヶ里銅鐸と同笵とされる出雲・木幡家銅鐸(写真2)には片面だけ邪視文と鳥が描かれている。編年的には吉野ヶ里鐸と木幡家鐸は福田型の中でも大型で、最後に位置づけられている。北島大輔さんは笵傷痕を根拠に吉野ヶ里鐸→木幡家鐸と鋳造順を推定しているが、最終的に文様が鋳型から削り取られたとは考えられないだろうか?

古式銅鐸の断面形が扁平な傾向があるのに対して、福田型はコロンとした丸こっい形状をしている。また正面から見たフォルムも左右が緩やかに裾広がりとなっていて、鰭の端部が鋭角的である。同時期のでっぷりとした外縁付鈕式鐸に比べると、形態的にも洗練されており、この辺りも近畿の銅鐸の単なる模倣ではない独自の美意識を感じさせるデザインといえる。

鋳造技法的には、通常の銅鐸にみられる鐸身の上方左右と裾部の型持孔がない点が福田型の特徴で、ハバキ(幅木)の使用が想定されている。木幡家鐸には鐸身に型持孔があるが、これもダミーで鋳造後穿孔されたものらしい。

今回住所を調べて、吉野ヶ里遺跡の所在地が「佐賀県神埼郡吉野ヶ里町」となっていることを知った。

参考文献
北島大輔2004「福田型銅鐸の型式学的研究」『考古学研究』51-3
佐賀県教育委員会2002『吉野ヶ里銅鐸-吉野ヶ里遺跡大曲一の坪地区発掘調査概要報告書-(佐賀県文化財調査報告書第152集)』

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2008年9月 4日 (木)

海外美術館の銅鐸(欧州編)

好評だった海外美術館の銅鐸(08/6/26)-第二弾は欧州編-西ヨーロッパ各国にも5カ国8箇所の美術館に10個の銅鐸が所蔵されている。

Photo大英博物館(The British Museum)
さすが世界最大の博物館といわれる大英博物館-日本の銅鐸を大中小と3個も所蔵している。近畿式の大きな銅鐸(大英博1号/写真1左)は和歌山県西牟婁郡上富田町朝来出土のもの(04年神戸市博で開催された大英博物館展の際、再確認されたと報じられた)。この銅鐸もメトロポリタン美術館所蔵銅鐸と同じように双頭の飾耳をつなぐ板が付く珍しいタイプ。上部が少しかけているが、現高110cmで、復元すると日本最大の大岩山1号銅鐸(高134cm)に迫る大きさになるという。


3_3残り二つは扁平鈕式の六区袈裟襷文銅鐸だが、少し大きな大英博2号(写真1右)は横帯分割型と呼ばれるもので、香川県大麻山銅鐸や神戸市生駒銅鐸など類例は少ないデザ イン。こちらも昭和27年に古文書と照合し和歌山県吉里出土と判明。もう一つの大英博3 号(ゴーランドコレクション/写真2)は、袈裟襷文の内区が打ち抜かれていることで有名で、かつて“破壊された銅鐸”として紹介されたが、その後の破断面の観察によって、埋納時に破壊されたのではなく出土後の人為的な破壊とみられている。
銅鐸のページ

Photo_2Photo_5スコットランド王立博物館(Royal Museum of Scotland)
扁平鈕式の六区袈裟襷文銅鐸。天理大の置田雅昭さんの報告によると、マンローの収集品で1908年に王立博物館の所蔵となっている。全体に鋳上がりがよく文様は鮮明、所々に鋳掛けがある。身は通常の袈裟襷文だが、鈕両面の文様が異なっている点に特徴がある(B面の内縁にA面にはない小さな重弧文がめぐる)。出土年と博物館所蔵年、寸法から徳島県阿波町出土銅鐸の可能性を指摘するが、文様の特徴などを記録した資料がなく特定できていない。※スコットランド王立博物館は、島根県埋文センターの「銅鐸出土地名表」ではエヂンバラ博物館となっている。
展示室写真出典

フランス国立ギメ東洋美術館(Guimet musee national des Arts Asiatiques)
S佐原眞氏が「最も美しい三遠式銅鐸」と評した通り、独特な雰囲気を持っている銅鐸。鈕の外縁頂部が幅広な点、菱環が太く高いことが特徴だが、袈裟襷の界線が複線でないことも三遠式銅鐸の中では異色なデザイン(フランスっぽい?)。フランスにはこの他、ルーブル美術館にも小型の銅鐸(身25cm前後)が所蔵されているらしい。梅原末治氏によると「誤って志那の遺物の中に加え陳列棚の上の方に」置かれていたという。今でも展示されているのだろうか…
展示室写真出典

キオッソーネ東洋美術館(Museo d'Arte Orientale Edoardo Chiossone)
Photo_6奈良県石上出土銅鐸(2号)と同型の後期初頭の流水文銅鐸。ちょっと野暮ったいデザインの銅鐸だが、全部で3個程しか見つかっていない珍しいタイプ。この銅鐸は『考古資料大観』には載っているが、島根県埋文センターの「銅鐸出土地名表」では見あたらない。「世界ふしぎ発見(08/4/12放送)」でも紹介されていた。キオッソーネ東洋美術館はイタリアの港町ジェノバにあり日本と東洋美術のコレクションで有名
銅鐸のページ


ケルン東洋美術博物館
(Museum of East Asian Art in Cologne)
ベルリン美術館(Staatliche Museen zu Berlin)
S_4ドイツの二つの博物館にも各々1個の銅鐸がある。ケルン東洋美術博物館の銅鐸は、滋賀県野洲市の大岩山出土銅鐸(明治14年)の一つとみられている(写真7)。近畿式銅鐸の初期のもので飾耳がなくなっている。またベルリン美術館(ベルリン博物館)の銅鐸(写真8)は、かつて梅原末治氏により「海外の銅鐸」として最初に紹介された三遠式銅鐸。戦前、梅原氏により静岡県浜松市(旧細江町)中川出土の船渡2号銅鐸と確認されたが、ドイツ敗戦後行方不明となっている。トロイの黄金と同じようにソ連軍に運び去られたのだろうか…

アイルランド国立博物館(National Museum of Ireland Collins Barracks)
ウィーン美術史博物館(Kunsthistorisches Museum Vienna)
この他、アイルランド国立博物館(ダブリン博物館)とウィーン美術史博物館(ウィン民俗博物館)にも銅鐸が展示されているようだが、公式HPで検索してみたが掲載されていなかった。『考古資料大観』にはウィーン美術史博物館の銅鐸は写真が載っている(大型の扁平鈕式の六区袈裟襷文銅鐸)。
※( )内は島根県埋文センターの「銅鐸出土地名表」の名称

S_2欧州に流失した銅鐸は米国に比べて比較的小さなものが多い。大きければいいというわけでもないが、米国の美術館は見栄えのする巨大な銅鐸を収集していることは事実(アメリカ人らしい?)。それに比べると欧州各国にある銅鐸はバラエティに富んでおり、扁平鈕式から三遠式、近畿式まで大小さまざまな、また文様も袈裟襷文から流水文といろいろな型式の銅鐸が観察できる。

参考文献
梅原末治 1985『銅鐸の研究』木耳社(初版1937)
国立歴史民俗博物館1995『銅鐸の美(企画展図録)』毎日新聞社
置田雅昭 1997「出土地不明の銅鐸をめぐって」『宗教と考古学』勉誠社
野洲市歴史民俗博物館 2006『大岩山出土銅鐸図録』
浜松市博物館 2007『浜松市の銅鐸』

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2008年8月21日 (木)

加茂岩倉遺跡の銅鐸-いかに集められたか

13_2加茂岩倉出土銅鐸は39個という数に圧倒されて、ただただ多いという印象が強かったが、今回の「加茂岩倉銅鐸の世界展」をほぼ一日中見ていて、自分なりの整理ができてきた。

これまでも多くの研究者の方々が指摘していることだが、
・外縁付鈕I式が非常に多い(19個)
・サイズが小-30cm、大-45cmと揃いすぎている
・同笵銅鐸のセットが多い(7セット)
確かに、人為的に集められた感が強い。

しかしその反面、同笵銅鐸のセットが並ぶ中に、見たこともないような銅鐸が混じっている。ただ単に掻き集められたわけではなさそうだ。扁平鈕式新段階の銅鐸9個については、“出雲型”と言われるほど変わっているので別個に扱うとして、レアもの銅鐸としては、前ブログ(08/8/19)で紹介した37号、同じくらい特徴的な13号(写真)、12号、36号などが上げられる。そしてその同笵鐸は鳥取下坂(13号)、美作念仏塚(36号)など比較的近県に分布している。変わり種の筆頭である37号にも実は類縁銅鐸が存在しており、同じ出雲の志谷奥1号石見・上條2号など、こちらも山陰に分布が限られる。

Photo同笵鐸セットの方は和歌山、岐阜、奈良、兵庫、徳島、大阪、福井など比較的広範囲に分布していて、製作地についても河内・和泉が有力視されている(兄弟銅鐸分布図)。上記のレアものが袈裟襷文だったのに対して、こちらは流水文ばかり(特に横型流水文のみ)。

39個は外縁付鈕1式~2式と扁平鈕式新段階の新旧二つのグループに分けられると言われているが、旧式鐸も、外縁付鈕2式は流通量の多い同笵鐸セットと山陰・中国地方に偏在する特殊なデザインの銅鐸の二種類で構成されている点は、これまであまり注目されていない。

加茂岩倉銅鐸については、
①出雲各地から一度に集められた(いろいろな方)
②近畿中央部(河内・大和)から一度に運ばれてきた(酒井龍一さん、森岡秀人さん他)
③出雲の単独集団によって特定の工房から順次集められた(難波洋三さん)
などいろいろな説が提起されているが、酒井龍一さんが指摘される通り、「意味不明の考古学的現象」に対して何とか理解しようと様々な仮説が作られている。

加茂岩倉の山中に集積されたことは事実だが、
(1)1つ目は、メジャーなデザインの同笵鐸が大量に運び込まれていること
(2)2つ目のパターンとして、レアな珍しいデザインのものが少数来ていること
この二つの現象をどう理解したらいいのだろうか?

難波さんが言う通り、出雲の各地から集められたのなら2つ目のパターンは説明できるかもしれないが、同笵鐸の大量搬入はうまく説明できない。また近畿から一度に運び込まれたのなら、同笵鐸の大量搬入については説明しやすいが、2つ目がうまく説明できない。受け取った側は一つ、運び込んだ側は複数、しかし工房数は限定されるという③説は、単純にモノとしての観察としては無難な結論だが、モノの製作された意味や送り込まれた背景の読み込み-特に2つ目のパターンに対する説明が弱い。

同笵鐸の製作個数が5個程度というのも、あくまで現存しているものからの推定であり、加茂岩倉での同笵鐸セットをみる限り、本来もっと数多く製作された同笵鐸グループから分配されている可能性がある。加茂岩倉にやって来た同笵鐸セットは再分配されずに埋められたが、他地域に運ばれた同笵鐸セットはさらに再分配され、最終的な埋納時に1個となったと考えてはどうだろうか。レア品の一群も同様に考えることは可能だが、こちらはもともと製作された個数が少なかったとみた方が矛盾が少ない。宮崎泰史さんはこれら山陰に偏在分布する一群の銅鐸について出雲産の可能性を説くが、分布論だけで製作地は論じられない。

“贈り物”という観点からみた場合、1つ目の大量の同笵鐸セットは「量」、2つ目のレアものは「質」という点で評価・解釈できるのではないだろうか。背景に送り手の側の事情-青銅原料の確保のような-が絡んでいるかもしれないが、量と質というのは贈与戦略的には甲乙つけがたい。

Photo岩永省三さんが「銅鐸の(編年)組列はいまだ仮説にとどまる」と喝破しているが、確かにその通りであって、佐原・難波編年はあくまで型式学的方法から導き出された“ひとつの解釈”に過ぎない。大局的にみて「銅鐸の製作順カタログ」としては間違いはないと思うが、各々の銅鐸が地上に存在し、そしてある時埋納された年代を示すものではない。共伴は同時性を示すというのは考古学の常識だが、こと青銅器に関する限りこの常識は荒神谷で覆されている。銅鐸に伝世がなく次々と作られては埋められたとすれば、そのこと自体が不思議な感さえある。

③説では、加茂岩倉の銅鐸は出雲の地で伝世・集積されたと考えられているが、中期後半までの銅鐸の保有形態は、想像を超えた数の銅鐸が近畿各所の大集落に所有されていたとする想定も可能である。寺沢薫さんは畿内の「銅鐸保管神庫」に保管されていた可能性を仮定しているが、現象の理解としてはありえる仮説だと思う。出雲に銅鐸がもたらされた理由や史的背景を銅鐸そのものから読みとることは難しいが、何らかの状況下で-おそらく送り手側の意向の元に-人為的に選択して送られてきたことは間違いない。しかし各地に大量に搬出され始めた銅鐸の運命は受け手側に委ねられたと考えるべきで、埋納されるものもあれば、再分配されるものもあり、最終的には改鋳されて新式鐸や別の青銅製品へと生まれ変わった場合も想定しなければならないのだろう。

参考文献:
難波洋三2005「神庭荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡」『日本の考古学(ドイツ展記念概説)』上巻
足立克己2004「荒神谷と加茂岩倉」『季刊考古学』第86号(特集・弥生時代の祭り)雄山閣
宮崎泰史2000「青銅祭祀のひろがり」『神々の源流-出雲・石見・隠岐の弥生文化』(大阪府立弥生文化博物館平成12年春季特別展図録)
酒井龍一1997「加茂岩倉遺跡の銅鐸」『弥生の世界(歴史発掘6)』講談社
寺沢薫1989「青銅器埋納の意義-神庭荒神谷遺跡の理解をめぐって-」『季刊考古学』第27号(特集・青銅器と弥生社会)雄山閣
島根県教育委員会・加茂町教育委員会2002『加茂岩倉遺跡』
岩永省三2003「武器形青銅器の型式学」『考古資料大観』6(小学館)

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2008年8月19日 (火)

雲南市・加茂岩倉37号銅鐸(島根8, 外縁付鈕2式, 4区袈裟襷文, 45.4cm)

37bs6/29 島根県立古代出雲歴博で「加茂岩倉銅鐸の世界」展を見学した。全て実物の銅鐸が1個1個並べて展示されており、個別に詳しい説明が付されている。中でも以前のブログ(07/12/4)で紹介した37号銅鐸(写真はB面)は「見どころ満載の隠れた逸品」として別個のケースで展示されていた。37号銅鐸はちょっと見た感じは、鋳上がりも悪く、特に変わった銅鐸には見えない。しかし、もう少し細かく観察すると、見たこともないデザインの銅鐸であることがわかる。

まず全体のフォルムだが、スラッとした銅鐸に見える。ただし各部の寸法・比率を比較してみると他の外縁付鈕2式銅鐸(II-2式)とさほど変わらない。おそらく鈕高が少し高い(頭でっかち)ため、背高な印象を受けるのだろう。鈕の外縁-菱環外斜面の幅が広くB面では2帯となっている。A面では、III-1式段階で出てくる三日月文様帯に似た細い帯状部分に、小さな連続渦文を配置するが、左右には鹿が二頭ずつ描かれている(言われないとほとんどわからない)。また渦文の巻き数も同時期の流水文鐸と比較して多いようだ。

鐸身の文様はこの時期の銅鐸としては珍しい四区袈裟襷文。II-2式は流水文が非常に多く、加茂岩倉でもII-2式鐸9個中7個が流水文である。A面の袈裟襷文は通常の斜格子だが、B面は「網代文」を使用しており、さらに下辺横帯は複合鋸歯文となっている。また袈裟襷の界線が複線となっている点も、II-2式段階では類例が非常に少ない(界線が複線化するのは扁平鈕新段階(III-2式)以降の特徴)

鰭の鋸歯文はA面がL、B面がRと使い分けられている。通常鋸歯文は鰭の下端まで続くものだが、37号では下辺横帯下界線のところで鋸歯文が止められており、一番下端の鋸歯文は半分に断ち割られている。この銅鐸もII式段階までは多い「四辺区画装飾面(身の装飾面が左右の鰭まで及ばず、鰭との間に隙間がある)」であるが、鰭の鋸歯文までそれを意識したデザインとなっているようだ。飾耳は鐸身上部に1対あるが、足もなくシルエットだけの耳で鰭部分は鋸歯文で埋められている。

網代文は恩智垣内山鐸などで使われているので、この文様に注目すると摂津産の銅鐸かもしれない。鐸身の反りが直線的な点も摂津産と似ている。いずれにしても、II-2式段階では他に類例のない-新しいデザイン要素をつぎ込んだ一点もののような-レアな銅鐸であることは間違いない。

写真出典:
『銅鐸の謎 加茂岩倉遺跡』(1997年/河出書房新社)

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2008年7月 6日 (日)

加古川市・望塚銅鐸(兵庫8, 扁平鈕式, 6区袈裟襷文, 42.5cm)

2兵庫県立考古博の企画展「開館記念展III 光は西から-弥生人、文明との出会い-」で「望塚銅鐸」が40年ぶりに公開された。

望塚銅鐸は、扁平鈕式新段階(III-2式)の六区袈裟襷文銅鐸。瀬戸内袈裟襷正統派(正統派)と呼ばれるもので銅鐸のデザインとしては非常に多いタイプ。特徴のあまりない銅鐸だが、菱環文様帯や縦帯/横帯指数、飾耳などいくつか観察のポイントがある。

難波洋三氏によると、正統派は1a式、1b式、2式に分類される。望塚鐸は菱環文様帯の綾杉文が舞と接する部分に平行線がない点と菱環文様帯が二区構成なので、1a式となる。望塚鐸の袈裟襷文は横帯が縦帯より細い。この特徴も難波分類では1a式のもので、1b~2式になると横帯と縦帯の幅が等しくなっていくという。下辺横帯下の界線数も1b~2式になると3条から4条に増加するということなので、この点も望塚鐸は3条で、1a~1b式となる。

鋸歯文に関しては、1a式はR鋸歯文とL鋸歯文を混用しているが1b~2式になるにしたがってR鋸歯文のみとなるという。望塚鐸は全体的にはR鋸歯文使用だが、鈕の一部にL鋸歯文が認められる。また難波分類では、1a式には飾耳を持つ例はなく、3対耳が1b式~、1対耳が2式~とされるので、飾耳からみると、望塚鐸は2式となる。

望塚鐸は新旧両方の特徴を持っており位置付けが難しいが、1式~2式への過渡的な銅鐸と考えておきたい。

鋳上がりが悪いのか発掘時の破損かよくわからないが、A面左の鰭と鈕の外縁が破損している。発掘時のものだとすると、土の付着具合などからA面右鰭を下にした埋納姿勢が復元できそうだ。
(08/06/28観察)

写真出典
展示解説図録『光は西から-弥生人、文明との出会い-』(2008/兵庫県立考古博物館)p.13

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2008年6月26日 (木)

海外美術館の銅鐸(米国編)

インターネットで検索してみると、海外の美術館で展示されている銅鐸を見ることができる。米国編、欧州編にわけて検索された20例程を紹介したい。

Photo_4まずは米国から。なんと10箇所もの美術館に日本の銅鐸が所蔵されている。

メトロポリタン美術館 (The Metropolitan Museum of Art)
高さ1mを越える近畿式の巨大な銅鐸(写真1)、双頭の飾耳をつなぐ連結部が付くタイプ。この形の飾耳を持つ銅鐸は珍しく天理大所蔵銅鐸など5点程しかない。最近天理大の置田雅昭さんの研究によって兵庫県佐用郡三日月町出土の銅鐸と判明した。
銅鐸のページ


Photo_3ボストン美術館
(Museum of Fine Arts, Boston)
仁徳天皇陵出土品も所蔵するボストン美術館だが銅鐸もしかっり持っている。大阪市大淀区長柄出土の銅鐸と伝えられるもの(写真2)。扁平鈕式~突線鈕式への過渡期の銅鐸で、近畿式の祖型。
銅鐸のページ





Photo_5クリーブランド美術館 (The Cleaveland Museum of Art)
高さ97.8cmで三遠式銅鐸の中では最大級の銅鐸(写真3)。島根県埋文センターの銅鐸地名表には載っていないが、『考古資料大観』第6巻(2003年/小学館)には写真あり。
銅鐸のページ
展示室写真出典



S_2サンフランシスコ・アジア美術館 Asian Art Museum of San Francisco)
こちらは近畿式銅鐸で、滋賀県野洲市の大岩山明治14年出土銅鐸の一つと推定されている(写真4)。この銅鐸は野洲市の銅鐸博物館にレプリカがある。
展示室写真出典



Photo_6ロサンゼルス・カウンティ美術館 (Los Angeles County Museum of Art)
伊藤若冲など江戸絵画のコレクションで有名なブライスコレクションの一つ。メトロポリタンの近畿式銅鐸に似ている(写真5)。破損しているが、海外流失銅鐸の中では大英博物館所蔵銅鐸と並んで最大級(109.2cm)。展示室の様子(写真7下↓)だとガラス越しではなく、かなり近づいて観察できるようだ。大阪府高槻市の天神山出土銅鐸と伝えられている。
銅鐸のページ
展示室写真出典



S_3ピーボディ・エセックス美術館
(Peabody Essex Museum)
扁平鈕式の六区袈裟襷文銅鐸。堺市博の浜寺銅鐸などに似ている。美術館HPの写真(写真6)は何故か上半分だけ。




島根県埋文センターの「銅鐸出土地名表」や『考古資料大観』第6巻によると、ミネアポリス美術研究所ウースター美術館シアトル美術館にも銅鐸があるとされるが、美術館HPの日本コレクションの紹介ページには掲載されていなかった。またワシントン・スミソニアン, フリーア美術館&アーサー・M・サックラー美術館にも所蔵されているようだが、こちらもHPの蔵品検索では詳細はわからなかった。

Photo_7米国に流失した銅鐸は巨大な突線鈕式の銅鐸が多い。幸いこれらの銅鐸は日本コレクションの目玉として常設展示されているものも多く、見学することができるが、おそらく古美術商などを介して売却され、海外コレクターに秘蔵されている銅鐸はもっとあるのではないだろうか?米国の主要な大都市の美術館には銅鐸があるようで、アメリカ人にも銅鐸は人気があるらしい?。英語では銅鐸は「dotaku」もしくは単に「bell」、「ritual bell」「ceremonial bell」(=儀式用のベル)などと表記している。

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2008年6月18日 (水)

鈴鹿市磯山銅鐸(三重9, 外縁付鈕2式, 4区袈裟襷文, 39.4cm)

Photo_2東京国立博物館では半年毎に常設展示を入れ替えているが、6/10~磯山銅鐸が展示されている。

外縁付鈕式の2式(II-2式)に分類され、三対耳四区袈裟襷文と呼ばれるデザイン。袈裟襷の内区には四頭渦文が配され、その周囲に動物が描き込まれている。猪列が身裾にも描かれているらしいが、判別が難しい。

四区袈裟襷の縦帯が横帯に優先していて、通常の銅鐸のデザインルールを守っていない。四頭渦文は1本の線で描かれたものと二重線で構成されているタイプの両方あり。

鈕は兜型で菱環部が幅広く緩やかな傾斜を持っていて、菱環部に渦巻文を描く。鈕の外縁、鰭共に鋳上がり悪く、文様が不鮮明で鰭に鋸歯文があるかどうか不明。耳は2個セットで形はクリップ状、A面(写真)右では内部に綾杉文がある。鈕の左右にも2箇所耳がある。

鋳型がB面が左上方に若干ズレており、その影響かA面右の鰭の身と接する部位に膨らみがある。鈕の舞と接する部分は凹みがあり、舞も型持穴の周囲を除いて凹みが激しい。これは石製鋳型の特徴。身裾にシワ状の傷があるが、これも内面突帯の影響か?。

型持孔は円形、裾の型持孔は小さい台形。全体的に色は黒光りしている。
(08/06/14観察)

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