3講演会・シンポジウム

2009年11月13日 (金)

兵庫県立考古博物館「銅鐸破壊実験~壊れた銅鐸のナゾに迫る~」

1今月末11/28(土)13:30~、兵庫県立考古博物館で「銅鐸破壊実験(2回目)」が行われる。1回目は今年2/11に開催されたが、熱した後、水をかける方法では、銅鐸は壊れなかった(その後再加熱して叩くとようやく割ることができた)。今回は加熱を続けて熔解寸前で衝撃を与える方法がとられると思われる。成功するといいのだが…

11月28日(土)13:30~15:00
体験イベント「銅鐸破壊実験~壊れた銅鐸のナゾに迫る~」
場所:講堂・体験広場
対象:どなたでも
料金:無料

兵庫県立考古博物館
〒675-0142 兵庫県加古郡播磨町大中1-1-1 TEL.079-437-5589

開催中の特別展「古代祭祀の世界」(2009/10/3(土) ~ 11/29(日))でも久田谷の破砕銅鐸などが展示されている。

写真は1回目の実験の様子(銅鐸を壊しているのは石野館長)。

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2009年11月10日 (火)

大阪府立弥生文化博物館 地域展特別講演会「大阪で出土した銅鐸」

Photo現在、「発掘された日本列島2009」の地域展「大阪の宝物-出土品が歴史を語る」を開催中の弥生文化博物館で、今週末11/13に金関館長による「大阪で出土した銅鐸」と題する講演会が開催される。

11月13日(金)「大阪で出土した銅鐸」
大阪府立弥生文化博物館館長  金関 恕
時間:午後2時~4時 ※午後0時30分から整理券配布・午後1時30分から受付
場所:当館1階ホール
聴講料:無料(要入館料)

Photo_2「大阪の宝物」展では、下田遺跡銅鐸(写真2)、南河内郡太子町山田出土銅鐸、池上曽根遺跡銅鐸片も展示されている。下田銅鐸は普段は公開されていないので、今回は見学のチャンス。秋季特別展は11/15(日)まで開催。

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2009年7月13日 (月)

橿原考古学研究所附属博物館講演会-「銅鐸-弥生時代の青銅器鋳造-」

Photo8月初め東京で、今秋の特別展に向けて橿原考古学研究所と江戸東京博の主催による銅鐸に関する講演会が開催される!


奈良県立橿原考古学研究所附属博物館講演会-よみがえる古代の大和

◆テーマ『銅鐸-弥生時代の青銅器鋳造-』

◆とき
平成21年8月1日(土) 午後1時~4時30分(12時30分受付開始)
※整理券を11時30分より配布します

◆ところ
東京都江戸東京博物館1階ホール
〒130-0015  東京都墨田区横綱1-4-1
TEL:03-3626-9974
開館時間 午前9時30分~午後5時30分(土曜のみ午後7時30分まで)

◆講師と演題
「弥生時代の青銅器鋳造」
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 主任技師 北井利幸

「銅鐸の世界-図像学事始め-」
奈良県立橿原考古学研究所附属博物館 総務企画部長 寺沢 薫

◆聴講料
500円(テキスト代を含む)

◆申し込み方法
定員400名。先着順。当日、直接会場へ。

◆問い合わせ先
東京新聞文化事業部
TEL:03-6910-2345(平日の午前10時から午後6時まで)
http://www.tokyo-np.co.jp/even/ky/kashihara/


江戸博では、「発掘された日本列島2009」展も開催中!
6月20日(土)~8月2日(日)

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2009年6月18日 (木)

第62回銅鐸研究会「銅鐸祭祀の終焉と纒向遺跡の出現-桜井市大福遺跡・脇本遺跡の事例を中心に-」

Photo久しぶりに滋賀県野洲市の銅鐸博物館から銅鐸研究会の案内が届いた。今回は前からリクエストしていた「破砕銅鐸」がテーマとなるらしい。

奈良県には弥生後期の突線鈕式銅鐸はないとされてきたが、一昨年12月と昨年4月、脇本遺跡大福遺跡(写真1)から相次いで大型の近畿式銅鐸の破片が鋳造関連遺物と共に出土し、以前纒向遺跡で出土した飾耳片(写真2)も再評価されることになった。

第62回銅鐸研究会

日 時  平成21年7月4日(土)14:00~16:00
演 題  「銅鐸祭祀の終焉と纒向遺跡の出現-桜井市大福遺跡・脇本遺跡の事例を中心に-」
講 師  橋本 輝彦さん(桜井市教育委員会)
場 所  野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)1F研修室
対 象  どなたでも
定 員  120名(当日受付)
参加費  受講料は無料ですが、入館料(大人200円、高大生150円、小中生100円)が必要です。

Photo_2邪馬台国の有力地と考えられる桜井市纒向遺跡に近い大福遺跡や脇本遺跡からは、壊された銅鐸の破片や青銅器鋳型の一部が相次いで出土しており、これらは銅鐸を鋳つぶして他の青銅器を鋳造したと考えられています。そこで、今回は、銅鐸祭祀の終焉とヤマト政権の成立についてお話いただきます。皆さまのご参加をお待ちしております。

■問い合わせ先■
野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)
滋賀県野洲市辻町57-1
電話077-587-4410 FAX077-587-4413

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2009年2月25日 (水)

第61回銅鐸研究会「東国の青銅器文化と銅鐸」

2008今週末ですが下記研究会が開催されます(2月中旬に案内が来ていたんですが…)。写真は昨夏長野県伊那市で開催された柳沢遺跡公開展のポスターです。

第61回銅鐸研究会

日  時  平成21年3月1日(日) 14:00~16:00
演  題  「東国の青銅器文化と銅鐸」
講   師  工楽 善通さん(大阪府立狭山池博物館館長)
場  所  野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館) 1F研修室
対  象  どなたでも
定  員  120名(当日受付)
参加費  受講料は無料ですが、入館料(大人200円、高大生150円、小中生100円)が必要です。

今回は長野県柳沢遺跡の銅鐸・銅戈がテーマです。
柳沢遺跡出土の銅鐸と銅戈のように同じ場所から出土した例は非常に少なく、東日本では初めてのことです。
今回は柳沢遺跡調査指導委員会の委員である工楽善通氏に、発見に至る経緯や東日本の青銅器文化とのかかわりなどについてお話しいただきます。
皆さまのご参加をお待ちしております。

■問い合わせ先■ 
野洲市歴史民俗博物館(銅鐸博物館)
滋賀県野洲市辻町57-1
電話077-587-4410 FAX077-587-4413

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2008年9月 9日 (火)

第2回 アジア鋳造技術史学会福岡大会

企画展『奴国の生産遺跡』開催の奴国の丘歴史資料館で、下記のような研究会が開催されることを知った。かなり専門的な研究会で学会員限定だが、内容は弥生青銅器を学ぶ上で興味深いものばかり。南河内考古学研究所情報掲示板より

第2回 アジア鋳造技術史学会福岡大会のご案内
○2008年9月20日(土) 春日市奴国の丘歴史資料館
・13:00~15:15 総 会                
・15:15~15:30 休 憩                    
・15:30~16:10 研究発表「芦屋釜の製作工程」 遠藤喜代志(遠藤鋳金工房)
(*21日の発表数が予定より多く特別に20日に発表していただきます)
・16:10~17:00 考古資料見学 
奴国の丘歴史資料館で企画展『奴国の生産遺跡』が開催中です。春日市から出土した弥生時代の考古資料を展示していますので、見学しながら自由に討論や春日市職員に質問をしていただきます。また、展示からもれた資料の見学についても調整中です。
・18:00~懇親会一品香(いーぴんしゃん)雑餉隈店
*9月20日の「総会」は学会員のみ、以後の「研究発表」、「考古資料見学」、「懇親会」は学会員および研究発表の共同発表者等のみが参加可です。入会は随時受け付けております。

第2回 アジア鋳造技術史学会福岡大会研究発表のご案内
○2008年9月21日(日)福岡市埋蔵文化財センター
1)研究発表
・9:00~9:05  開会挨拶  
・9:05~9:25  田賀井篤平(東京大学総合博物館)
「鏡笵面に見られる黒色皮殻についての研究 その2 ―黒色皮殻の化学分析―」
・9:30~9:50 藤瀬禎博 (鳥栖市生涯学習課)
「石製鋳型による鋳造実験と鋳型石材について」 
・9:55~10:15  林田和人 (熊本市教育委員会)
「熊本市八ノ坪遺跡における工房域の立地と選定」 
(発表者が事情により欠席のため、代読を予定。)       
・10:20~10:40 細川金也 (佐賀県文化課)
「佐賀平野における弥生時代の青銅器生産」
・10:40~10:55 休 憩         
・10:55~11:15 村松洋介 (大韓民国 釜山大学校)
「銅戈の製作技術-日韓両地域の比較-」        
・11:20~11:55 李陽洙 (大韓民国 国立慶州博物館)
「慶州入室里出土碇形双頭鈴の製作技術」
・12:00~12:35 許俊亮 (大韓民国 慶州大学校)
「韓半島の有文銅戈と文様製図について」 
・12:35~14:00 昼食休憩 
・13:20~14:00 ポスターセッション・資料見学 
・14:10~14:30 金夏廷  (大韓民国 ソウル総合芸術学校)
「韓国の鋳造鍮器に関する考察」      
・14:35~14:55 安永周平 (ゼネラルプレス)
「古代ガラスの製作技法における部分的誤認について」
・15:00~15:20 鈴木瑞穂 ((株)九州テクノリサーチ)
「福岡県北九州市黒崎城鋳銭場出土資料の金属学的調査
模鋳銭製作址出土資料の考古科学的調査」
・15:25     閉会挨拶 

2)ポスターセッション
・青柳泰介 (奈良県立橿原考古学研究所)
「奈良県桜井市脇本遺跡出土青銅器鋳造関係遺物について」
・戸塚洋介 (佐賀県社会教育・文化財課)
「唐津平野における弥生時代の青銅器生産 -唐津市中原遺跡出土鋳型の検討-」
・杉本和江 (古美術修理すぎもと)
「江戸時代梵鐘の蛍光X線分析について」
・比佐陽一郎 (福岡市文化財整備課 )
「中近世模鋳銭の一様相-蛍光X線分析の結果を中心として-」
・赤沼潔   (東京芸術大学)
「鋳銅品の着色に関する考察」
・梅崎恵司 ((財)北九州市芸術文化振興財団埋蔵文化財調査室)
「福岡県北九州市黒崎城金属工房址の発掘調査」

3)資料見学
 福岡市内出土鋳造関係資料。見学しながら自由に討論や福岡市埋蔵文化財センター職員に質問をしていただきます。

4)その他
・学会員以外の参加には、資料代等に2000円が必要です。また、諸般の事情でプログラムを変更することがあります。

・詳細についての問い合わせは、奈良県立橿原考古学研究所の清水康二(℡0744-24-1101,FAX0744-24-6747)までお願いいたします。

・春日市奴国の丘歴史資料館 092-501-1144
・福岡市埋蔵文化財センター  092-571-2921

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2008年8月28日 (木)

「奴国の生産遺跡」講演会の講師決定!

先日のブログ(08/8/13)で紹介した春日市の奴国の丘歴史資料館・開館10周年記念企画展「奴国の生産遺跡」の講演会の講師が決まっていた。どうも講師の方の都合なのか、13日と27日の講演が入れ替わったようだ。

●講演会「奴国の青銅器・ガラス玉生産」
[日時]
9月13日(土) 午後2時~4時
[講師]
柳田康雄(やなぎだ やすお)さん(國學院大學教授)

●講演会「青銅器の鋳造技術」
(講師:九州産業大学非常勤講師 遠藤 喜代志さん)
[日時]
9月27日(土) 午後2時~4時
[講師]
遠藤喜代志(えんどう きよし)さん(九州産業大学非常勤講師)

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2008年8月13日 (水)

銅鐸博物館開館20周年記念「銅鐸シンポジウム-銅鐸の始まりと終わり-」

Photo_2先日神戸三ノ宮駅で配布されていた「近江の歴史見聞録」というパンフを見ていて、11/3(祝)に銅鐸博物館で20周年の記念シンポジウムが開催されることを知った。
野洲市の公式H.Pにはまだ出ていないが、おそらく特別展も開催されるのだろう。講師はお馴染みのキャスティングで、これでは話の内容がわかってしまう、もう少し若手の方か、寺沢薫さんや岩永省三さんも加えて欲しかった。

■銅鐸博物館20周年記念「銅鐸シンポジウム-銅鐸の始まりと終わり-」

銅鐸研究の第一人者を招聘し、銅鐸の誕生と系譜、最古の銅鐸、銅鐸の地域性、青銅器の多数埋納、破片出土の銅鐸と土製鋳型による鋳造など銅鐸の始まりと終わりにかかわる諸問題について、最新の研究成果をお話しいただきます。

・開催場所/銅鐸博物館(野洲市歴史民俗博物館)研修室
・開催時間/10:00~16:00(予定) 定員/120名
・申込方法/往復ハガキによる事前申込制 参加費用/入館料および資料代

講師:
春成秀爾氏(前国立歴史民俗博物館教授)
松本岩雄氏(島根県立古代出雲歴史博物館学芸課長)
難波洋三氏(奈良文化財研究所考古第一研究室長)

銅鐸博物館
〒520-2315
滋賀県野洲市辻町57番地1
Tel:077-587-4410 Fax:077-587-4413

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2008年7月19日 (土)

「高地性集落からみた弥生社会と銅鐸(森岡秀人氏講演会)」

Photo6/28の銅鐸博物館での森岡秀人さんの講演会について、興味深い内容だったので紹介しておきたい。

森岡さんといえば弥生時代の研究者として有名な方だが、最近は大阪城の石切場調査なども手がけており、地元芦屋市で調査対象となった遺跡や遺物に対して果敢に挑戦を続けられている。ご本人は「人間活動に興味がある」と至って冷静だが、専門外の分野でも専門家になってしまう希有な考古学者。

森岡さんは地元芦屋市の会下山遺跡の調査にたずさわったことから「高地性集落」を専門分野の一つとされているが、今回のテーマである「高地性集落と銅鐸」という題名の論文を1975年(森岡さんが弱冠23才の時)に地元の考古学研究誌『芦の芽』に書いている。

東六甲山系に銅鐸が集中して見つかっていることはよく知られているが、森岡さんは75年の論文で以下のように指摘されている。
「銅鐸の埋納は必ずしもその銅鐸の祭祀圏内で行われたとは限らない。むしろ銅鐸の製作地-使用場所-埋納地の相互の関係は遠隔地の場合の方が多いのではないか」

当時は銅鐸が各集落に1個ずつあるというような考え(埋納地点=銅鐸所有集落の近傍)が一般的であったので、森岡さんの指摘は斬新な問題提議だった。その後「遠隔地埋納」「境界埋納」論は春成秀爾さんや酒井龍一さんも主張され、80年代の銅鐸論の新しい潮流となっていくが、そのオリジンは森岡論文だったことを知った(春成さんは森岡論文を絶讃されたが『芦の芽』がガリ版刷りだったことから正式な論文とは認められないとされたそうだ。そういえば78年の春成さんの「銅鐸の埋納と分布の意味」『歴史公論』4-3の註・参考文献には森岡論文が載っていない。いかがなものだろうか…)

30年経ったいま、森岡さんがどのような銅鐸論を展開されるのか興味津々だったが、考え方自体は基本的に75年論文と大きく変わっていない。森岡さんは小林行雄さんや田中琢さんに代表される従来の考え方は銅鐸の祭祀圏の中に製作地も埋納地も含まれるという考えであり、大量・集中埋納については各集落の統合の結果として集められたと解釈していた。75年論文はそれに対する懐疑論として書いたという。

Photo_2東六甲(地図1)と和歌山(地図2)の銅鐸分布と集落の関係を例として説明し、高地性集落と銅鐸埋納地の立地が似ていること、また時期の点でも重なるとされる。ただし、高地性集落の眺望の良さに対して、銅鐸埋納地は尾根筋から下がった眺望の悪いところが多い。ただし埋納坑の地点からの眺望はよくないが少し離れるとよい場合も多いと指摘されていた。

時期について、高地性集落も銅鐸埋納も、(1)中期後半(中期末)と(2)庄内期の前(後期末)の二つの時期に集中すると言われているが、森岡さんは(1)の画期としては中期末ではなくむしろ後期初頭(紀元1世紀第1四半期末)が重要だとする。

詳しい説明は時間の関係でなかったが、森岡さんは複数埋納銅鐸の伴出パターンについて、A~Jの9つに分類し、EとF間に大きな断絶があり、それが「聞く銅鐸(~突線鈕1式)」→「見る銅鐸(突線鈕2式~)」に相当するという。また発掘によって出土した銅鐸の埋納時期の暦年代観からも後期初頭の再評価を促された。

また六甲山系の高地性集落では、河内の土器(チョコレート色)が出ており、高地性集落の性格は閉鎖的なものではないとされる。会下山の場合、河内系3%、田能(猪名川)10%もあることや外来系文物の先取り(先導性)から高地性集落の“市場”的側面が窺われるという。

また近江系の土器や文物の移動と高地性集落の東海地方での出現、中国地方で突線鈕銅鐸と高地性集落が消滅という東西の動きは互いに関係があり、V-1期=後期初頭に当たると指摘する。関東・北陸では、高地性集落の跡地に前期古墳が造られる事例が多く、「高地性集落の出現と廃絶・青銅器祭祀の盛行と終焉・古墳の出現-これらのタイムスパンが東に行くほど短くなっていく」という言葉は印象的だった。

この辺りの動向を森岡さんの論考から抜粋すると、
「旧銅鐸群およびそれらと組成する機会のあった武器形青銅器が埋められたことを契機として高地性集落や丘陵性集落が急増したり、より盛行する地域が確かに存在する。大量埋納遺跡を有する摂津の六甲山系や出雲の宍道周辺の丘陵はその典型例で、集落の結合単位に大きな変動をきたし、古い青銅器群の埋棄を誘致するとともに社会構造が刷新されたことと連動する…」(森岡秀人2004a p.184)

「二世紀後半に起こった倭国大乱は、その行き着くところに生じた鉄争奪戦の内容を根底に備え、三世紀には東国弥生社会を終焉へと向かわせるエネルギーとなって東伝する。高地性集落分布の重心もそれを教えるように、北陸へ、北関東へと移動している…」(森岡1993 p.38)

Photo森岡さんは講演の最後の方で、埋納=抜魂の儀式という「新説?」を少し披露されていたが、これはちょっと?という感じだ。「抜魂」とは普通、仏像や墓石などを移動や修理する際に行う儀式のこと。森岡さんによると、ここでいう魂というのは“霊力”というような意味のようだが、近畿中央部の大集落でマツリをやって、銅鐸に魂を入れそれを遠隔地(例えば和歌山南部)に運んで、そこで魂を抜いて地中に埋めるとの説明だった。あくまで祭祀主体は近畿中央の勢力で遠隔地の集落所在地は祭祀の場所ではないということのようだ。高地性集落の人々は銅鐸埋納に関与はしたけれども、銅鐸を所有し祭祀を行った主体ではないと考える…そこには「銅鐸祭祀の主宰者は水田農耕を基調とする平地の大集落だ」とする根強い見方がある。

青銅器の遠隔地への埋納の意義に関しては最近の論考ではこう述べられている。
「この段階は青銅器の生産管理と集中生産が行われた形跡が各地で認められるが、流通を含む統一的な差配機構や権力機関が西日本に胚胎した節はなく、祭祀形態の選択対象に応じた移動圏が生じるとともに、それが経済的性格ではなく、祭祀圏の誇示といった社会レベルで形成されたと考えられる。

この点、一概に出土地が青銅祭器を活発に受容したとは言い難く、分布地と日常の祭りに青銅器を積極的に導入した場所とは当面隔離しておくべきであろう。青銅器を全く保持していない地域に遠隔搬入された銅鐸や武器形青銅器があったことは想像されてよく、最終の分布状態の意味するところはそう単純ではない。

したがって、青銅器に対し安易に流通網の組織的形成を考えるのは危険であり、埋納を観念された土地へ各種青銅器を選別して運び込む行為にこそ共同体を越えた人々の運搬と結集を読みとらねばならない。」(森岡2004a p.184)

埋納を観念された土地=聖地というような意味だろうか?いずれにしても森岡さんの語る弥生社会は極めて呪術的なイメージがただよう。

文様・形態研究とも分布論とも違う、非常にエキサイティングな問題提起ばかりだった。

参考文献
・森岡秀人1975「高地性集落と銅鐸」『芦の芽』27
・森岡秀人1993「高地性集落は倭国大乱とどう関係するのか」『新視点日本の歴史2(古代編1古墳~飛鳥時代)』(新人物往来社)
・森岡秀人2004a「西日本における青銅器の受容と実相」『伊勢湾岸における弥生時代後期を巡る諸問題 山中式の成立と解体』(第11回東海考古学フォーラム三重大会実行委員会)
・森岡秀人2004b「銅鐸の埋納行為と弥生人」『季刊 考古学』86(特集・弥生時代の祭り)

写真・図版出典
・『特別展 弥生争乱-山のムラの謎-』(1992/芦屋市立美術博物館)
和歌山県立博物館HP-銅鐸の祭り

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2008年6月10日 (火)

第60回銅鐸研究会「高地性集落からみた弥生社会と銅鐸」

引き続いて銅鐸関連イベントのニュース。野洲市の銅鐸博物館(歴史民俗博物館)で恒例の銅鐸研究会が今月末の6/28に開催される。

今回は森岡秀人さんが講師。高地性集落の付近には何故か銅鐸の出土が多い。最近の調査では高地性集落自体からも銅鐸片が出土している事例(四日市市)もある。森岡さんの高地性集落研究と銅鐸…どんなお話になるか今から楽しみ。

第60回銅鐸研究会
日時:平成20年6月28日(土)14:00~16:00 
演題:「高地性集落からみた弥生社会と銅鐸」  
講師:森岡秀人氏(芦屋市教育委員会)

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2008年3月27日 (木)

青銅器は貴族の考古学?

Photo先日3/8、歴博で春成さんの講演会を聴いた時の話だが、青銅器は“貴族の考古学”なんだそうだ。昔は青銅器を収集・コレクションできるのは大金持ち。それを観察・研究できるのは帝国大学の先生か国立博物館の学芸員。今でもたぶん貴族の考古学なんだろう。自分でもやっかいなもの好きになったなぁと思っている。

こうした青銅器研究の壁を少しでもなんとかしようと、春成さんは歴博でせっせと銅鐸のレプリカを作成していたらしい。その数およそ80個(それも学史的に重要なもの厳選して)歴博ではこのレプリカコレクションの写真・実測図完備の全カタログを現在作成中で、来年度いよいよ発刊されるという。

最近読んだ寺澤薫さんの論文「銅鐸の二面性-その内なる二元的世界-」『橿原考古学研究所紀要 考古学論攷』第30冊(2007年)-15年かけて412個の銅鐸を観察した結果によると、あとがきに書いてあった。私の銅鐸観察はもっぱらガラス越し。寺澤さんの場合、ほとんど全て熟覧なので私など足下にも及ばないが、銅鐸研究の難しさはこういうところにあるなぁと痛感している。

春成さんの講演会は「日本の銅鐸と北米の銅板」という題名だったので、銅鐸と銅板(図参照)の比較論など聴けるのではないかと楽しみにしていたが、話の内容は春成さん版「私の履歴書」だった。少年時代を過ごした明石海岸での化石発掘、銅鐸との出会い、岡山大学助教授時代、北米の銅板の実測調査旅行のことなど。明石原人の調査をされたのもちゃんと理由があったんだと長年の疑問が解けた。ご自分の銅鐸研究史についてもひとつひとつ紹介されていた。最初は銅鐸が観察できないので、埋納地研究をやったこと、80~90年前半までは銅鐸祭祀に関しても、銅鐸観察でも最前線で学会を主導していたが、生来の浮気性のため、銅鐸の神様にはなれなかったと告白されていた(春成さんによると、先代の銅鐸の神様は佐原先生で現在は京博の難波さん)。

銅鐸の話で興味深かったのは、銅鐸の値段-バブルの頃は1億円もしたらしいが、さすがに最近は5000万円くらいに落ち着いてきているらしい。銅鐸は貴重な考古資料であるが、高価な古美術品の顔も持っている。銅鐸を扱う古美術商が裏の世界で暗躍する話は「ギャラリーフェイク」さながらだった。春成さんの話では、高さ1.5mもある銅鐸が実在するそうで、かつて古美術商を通じてコンタクトを試みたが見ることは叶わなかったと後悔されていた。1.5mというと日本最大の大岩山銅鐸の134cmを大きく上回る超大型銅鐸。今もどこかの資産家の屋敷か蔵にでも眠っているのだろう。

春成さんはこの講演会を最後にこの3月末で定年退官されると聞いてちょっとびっくりした(もっとお若いと思っていたら今年で65歳)。縄文ランドスケープ論についてブログ(08/03/23)で紹介した國學院の小林達雄さんも今年で退官。先日もこの春で定年になるある先生の退職パーティに参加したが、考古学の世界にも「2007年問題」はあるようだ。

図版出典
春成秀爾「銅鐸と社会」2002『古代を考える 稲・金属・戦争-弥生-』(佐原眞編/吉川弘文館)

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2008年3月23日 (日)

平成19年度フォーラム「祭祀遺跡に見るモノと心」

Photo3/1、國學院大で開催された「祭祀遺跡に見るモノと心」…興味深い講演が多かったが、その中から二つを紹介。

まず今年定年退官された小林達雄先生のお話から。第二の道具(石棒など祭祀用の石器)の話も興味深かったが、後半は「縄文ランドスケープ論」を熱く語られていた。

・秋田県・大湯の環状列石
万座・野中堂と呼ばれている二つの環状列石の中にある「日時計」と呼ばれる立石の位置を結ぶ線は、夏至の時に太陽が沈む方角を示している。
・山梨県・牛石遺跡
遺跡から見た春分の日の日没は三峰山の山頂に沈んでいく。
・茨城県・寺野東遺跡
95年に見つかった縄文時代の環状盛土遺構。この遺跡からは冬至の日に遺跡の東方に聳える筑波山の山裾からの日の出を拝することが出来る。
・青森県・三内丸山遺跡
有名な六本柱の間から夏至の日の出が登ってくる(写真1)

小林先生さんが上記のような縄文遺跡と方位の話をすると、佐原先生は「考古学者が天文学を始めちゃダメですよ」と批判されたらしい。佐原先生も意外と了見の狭い人だったんだなと驚いたが、小林先生曰く「これは天文学ではない(=縄文人が天体観測していたと言ってるのではない)」「このような方位の場所に祭祀遺跡を造っている(セトルメントしている)ことに意味がある」そうだ。

遺跡と太陽方位というと「レイ(レイライン)・ハンティング」といって、欧米(特にイギリス)では盛んだが、日本では結構胡散臭いと思っている人が多いと思う。どのようにして縄文人たちが正確な方位を知ったのかわからないが、事実は遺跡そのものが語っている。巨大古墳の位置決定についても同じような話を昔読んだことがあるが(原島礼二『大王と古墳』1971年/学生社)、青銅器埋納地などもレイライン的視点で見直してみる必要はあると思う。埋納された場所や山がどこでもよかったはずはないのだから…

もうひとつは小林青樹さんの「弥生青銅器祭祀の起源と遼寧青銅器文化」。歴博のAMSによる新弥生開始年代論の発表以来、中国考古学を研究する日本人研究者の間でオーソドックスな考古学的方法で弥生青銅器の渡来年代を検証する動きが盛んだ。小林青樹さんはその中でも若手のホープとも言える存在で近年関係論文を次々と発表されている。

Photo_2小林さんの説をここで詳しく紹介する余裕はないが、ポイントをいくつか上げておきたい。まず年代の分かる中国中原青銅器と遼寧~朝鮮~日本の青銅器をつないでいく研究の中で最近注目されているのは「遼西式銅戈(写真2)の発見」だという。これまで朝鮮式銅戈のルーツは燕の銅戈だといわれいたが、むしろ遼西式銅戈こそルーツであり、この発見が朝鮮式銅戈の出現年代や銅戈を使った祭祀の系譜を解明する重要な鍵となるらしい。

小林さんは多鈕鏡に関しても興味深い見解を述べられていた。朝鮮半島の青銅器文化には多鈕細文鏡という特異な銅鏡があるが、小林さんは多鈕細文鏡の非常に細かい複合鋸歯文の原型が遼西の十二台営子の銅鏡などのZとS字連続文(雷文)にあるとして、連続Z字文から星形文への変遷過程を図解された。さらに日本の銅鐸の複合鋸歯文のルーツも遼西多鈕鏡の連続Z字文にあるとされ、日本の銅鐸文様は縄文起源の流水文と大陸からの連続Z字文の融合したものであるという。

Photo_3発表時間の関係で銅鐸に関しては詳しい説明はなかったものの、遼西の三官甸遺跡の銅鈴(中国では鐸とは言わない/図参照)の写真をはじめて見た。年代的にも位置的にも朝鮮式小銅鐸のルーツに当たるものだが、型持孔の位置が全く違うのには驚かされた。朝鮮式小銅鐸は鐸身の前後、左右側面に計4個の型持孔があるのに対し、三官甸遺跡の銅鈴の型持孔は鐸身には一つもなく、なんと舞に2個孔が開いている。日本の銅鐸は最古の菱環鈕1式段階で舞に型持孔を持っており、三官甸の銅鈴には内面突帯もあるということなのでこの点も日本の銅鐸と似ている。

小林さんのお話で最も印象的だったのは、最後に駆け足で述べられた剣・矛祭祀と戈・鏡・鐸祭祀の対立図式。朝鮮半島では遼寧式銅剣文化段階から剣・矛祭祀が優勢であり、これが九州~中四国など近畿以西の地域で銅剣・銅矛を特別視する背景となったとする。近畿以東では銅鐸と銅戈が中心となるが、戈・鏡・鐸の3点セットが中原系祭祀の影響を強く受けたものであることが、より東方へ拡散した理由だという。

日本の弥生青銅器を勉強している者としては、九州における銅矛・銅剣・銅戈の階層性や銅戈がいくら東方へ拡散すると言われても基本的には近畿以東に武器形祭祀は拡がらないので、上記の説明には首を傾げてしまう(長野・柳沢遺跡の銅鐸・銅戈をえらく強調されていたが…)。また多鈕細文鏡は日本国内での生産を待たずに消滅してしまうし、小銅鐸は九州・中四国にもあるので、本当に戈・鏡・鐸がセット関係を持っているのかどうか…

確かに日本の弥生青銅器の変容は起源地と比較すると甚だしいものがある。大陸青銅器文化から器物に付与された祭祀の象徴的な意味を探るという視点も重要といえるのだろう。

参考文献
小林青樹 2008「弥生文化と東アジア像の転換」『東アジアの古代文化』134号(2008冬)
大貫静夫 2005「最近の弥生時代年代論について」『Anthropological Science(Japanese Series)』Vol.113
岩永省三 2005「弥生時代開始年代再考-青銅器年代論から見る-」『九州大学総合研究博物館研究報告』No.3

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2007年12月16日 (日)

東アジアの古代文化を考える会・講演会「三角縁神獣鏡研究の現状」

Photo_2昨日の12/15、池袋で開催された新井宏さんの講演会を聴いてきた。鉛同位体比のことを勉強し始めてから一度お話をお聴きしたいと思っていたので、楽しみにしていたのだが、期待に違わず面白い講演会だった

新井宏さんといえば、15年前に高麗尺批判の本を出したので有名。最近は鉛同位体比やC14関係の論文を次々と発表され、今年『理系の視点からみた「考古学」の論争点』(大和書房)を出版された。今回の講演は先月池上曽根弥生学習館で行われた「東アジアの鏡文化-卑弥呼の鏡は海を越えたか-」と題される三角縁神獣鏡フォーラムの内容紹介を目的としたもの。

ジェットコースターのような講演会の内容を日記で紹介するのは難しいが、いくつかトピックを書くと
・三角縁神獣鏡の舶載-ボウ製の区別が認め難くなってきた→橿考研の『古鏡総覧』では舶載・ボウ製区分表示を止めてしまった。
・魏晋倣古鏡(ボウ製鏡的な鏡)の存在→中国でも下手くそな作りの鏡もある。
・銅鏡の製作技術がいろいろとわかってきた→中でも三角縁神獣鏡に特徴的な「線キズ」が中国鏡には認められない→日本と中国の湿度差、二重構造の鋳型などが関係しているらしい。
・長方形鈕孔も三角縁神獣鏡の特徴として注目されているが、原型からコピーを作る際、長方形だと作りやすい→量産するための技術と推定
・菅谷文則氏によると、洛陽・山東省の出土鏡1700枚には「同型鏡」がない→「同型鏡」は日本だけの特徴
・三角縁神獣鏡の意義付けも、卑弥呼への下賜鏡→下賜に続く特注鏡と考える研究者が増えた(=卑弥呼の鏡ではない)。
・製作地も洛陽→渤海湾沿岸→楽浪と考える研究者が増え、あと一息で日本へというところまで近づいてきている。

鉛同位体比の研究で興味深いのは、
・大和天神山古墳や兵庫・城の山古墳、鶴山丸山古墳など同じ古墳に副葬された鏡種の異なる鏡同士で鉛同位体比が一致する。
・同じ製作年を持つ紀年鏡同士で鉛同位体比が一致せず、異なる紀年の鏡同士で鉛同位体比が一致、おまけに2グループの鉛同位体比に分けられる。
といった話で“他人の空似的”な鏡-外見は違うが中身(青銅原料)は同じものがあるというのはちょっと驚きだと思う。新井さんは古墳築造に際して一括して作った鏡の可能性が高いとし、「葬式の花輪」のような鏡と例えていたが、思わず笑ってしまった。いわゆる「踏み返し鏡」の議論がまたぞろ再燃しそうな気配を感じた。

中国での鉛同位体比研究は1300件もあるにもかかわらず、殷・周時代の青銅器の測定データばかりで、漢・魏晋代の銅鏡に関するデータはないというのもちょっと意外な話。漢~魏晋代の銅鏡については日本出土の測定データしかないのが現状で、新井さんも後漢~魏晋代(漢鏡6-7期)の真の中国鏡の鉛同位体比同定には苦労されている。
最近、岡村秀典氏や福永伸哉氏が三角縁神獣鏡の祖型として位置付ける「斜縁神獣鏡(写真)」の鉛同位体比を“魏鏡”と見なして鉛同位体比を比較すると、三角縁神獣鏡A段階(初期段階)の鉛同位体比と斜縁神獣鏡では分布にズレがあり、むしろ三角縁神獣鏡の鉛同位体比は庄内期や古墳早期のボウ製鏡と一致するという。

また三角縁神獣鏡の鉛同位体比分布のライン上(A式図右上方)には、弥生後期青銅器の鉛同位体比のエリア(領域A)があることから、新井さんは三角縁神獣鏡作成時に魏晋代の青銅原料への弥生後期青銅器の添加を指摘されていた。

新井さんは三角縁神獣鏡国産説なのだが、非常に流行したものには必ず“偽物(コピー・イミテーション)”が作られるとし、ルイ・ヴィトンの鞄を例に出されていた。確かに韓国明洞の屋台で売られている偽物と免税店で売られている本物はちょっとみ見分けがつかない

とにかく新井さんは話のスピードが速い、事前に予習してないとついていけない感じだ。“青銅器のDNA”ともいえる-鉛同位体比を使って銅鏡のナゾを鮮やかに解いていく話は本当に楽しく、3時間の講演会が短く感じられた。

ただ惜しむらくは考古学的な「モノ」の分析もやっていただけると、さらに研究に重厚感が増すように感じた。そんなことは新井さんは百も承知だろうが、何か考古学者に対して一歩距離を置かれている…考古学の世界はそれほどに排他的なのだろうか…

写真出典
愛知県東之宮古墳出土:『鏡の時代-銅鏡百枚-』近つ飛鳥博物館平成7年度春季特別展図録(1995)

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2007年10月 3日 (水)

京博・土曜講座「近畿式銅鐸の成立とその意義」

Photo_49/29 京博・土曜講座「近畿式銅鐸の成立とその意義」を聴いてきた。講師は、佐原先生の跡を継いで銅鐸研究の第一人者である京博の難波洋三さん。銅鐸の勉強をはじめてから、一度お話を聴いてみたいと思っていた。難波さんはすらっとした長身でかっこよく、いわゆる(掘り屋的な)考古学者っぽくない。いかにも理科系的な雰囲気の研究者。

今回のお話は、先日9/22に濱田青陵賞受賞記念シンポジウムで講演されたのとほぼ同じ内容とのことで、最後の方に、銅鐸群の分析から得られた事実が古代史(文献)との関連において、どう位置づけられるかという試論を披露されていた。

「近畿式銅鐸」というのは、東海地方の三遠式銅鐸と並んで弥生後期に巨大化する銅鐸の名称(ニックネーム)。近畿式が形式として確立するのは突線鈕3式の段階~だが、難波さんは、その直前の突線鈕の1/2式段階に5つの銅鐸群があったことを指摘する。(  )内はアトリエ推定地

Photo_5(1)大福型(近江南部)=写真1:滋賀県大岩山M18年國學院大蔵
(2)横帯分割型(吉備を含む瀬戸内東部付近)
(3)迷路派流水文銅鐸(銅鐸分布圏西部)=写真2:鳥取県中野1号
(4)東海派(A1類近畿→A2類東海へ拠点移動)
(5)石上型(大和)

そして近畿式が成立する過程で、上記5つの銅鐸群が2つ(近畿式・三遠式)に合併・統合される。(1)+(3)→近畿式 (2)+(4)→三遠式 (5)はいずれにも関係しない。難波さんはこの統合の背景にAD107年の倭国の成立(倭国王帥升等の後漢遣使)があったのだという。

講演後、いくつか質問して興味深いお話を伺うことができた。

・扁平鈕式段階の銅鐸群については、数年前、徳島市考古資料館のシンポの時、比較的詳しく書いている。
難波洋三 2003 「徳島市出土の特徴的な銅鐸について-亀山型と名東型-」『徳島市考古資料館 開館5周年記念 シンポジウム 銅鐸の謎をさぐる』(徳島市考古資料館)

・近畿式銅鐸や三遠式銅鐸の成立については、昨年の歴博でのシンポの予稿集に書いたものがある。
難波洋三 2006 「近畿式・三遠式銅鐸の成立」 『歴博国際シンポジウム 古代アジアの青銅器文化と社会-起源・年代・系譜・流通・儀礼-』(歴博)

・講演などでは銅鐸群の数=銅鐸工房の数として話をしているが、厳密には銅鐸工房の数は鋳型が出ないのでなかなか特定できない。

・土製鋳型の真土が出土しないのは再利用されているためではないか。

・桜ヶ丘4・5号鐸や伝香川県鐸など扁平鈕式新段階~の主流となる「扁平鈕式六区袈裟襷正統派」を最初に創り出した工房(アトリエ)がどこにあったのか現段階ではわからない。

・外縁付鈕式~扁平鈕式の流水文銅鐸などを作っていた河内の銅鐸工房群(東奈良など)はその後、突線鈕1/2式~近畿式銅鐸成立頃にはどうなってしまったのか-これもはっきりしたことは不明だが、工人の系譜として完全に断絶してはいないらしい。難波さんは畿内第V様式期の環濠集落の解体など、河内中心部の状況からすると銅鐸を作っていないのではないかと話されていた。

難波さんの銅鐸群の抽出と系譜論は他の追随を許さない水準で銅鐸や青銅器の勉強をはじめたばかりの浅学は聞き惚れているしかないが、ひとつ気になったことがある。

それは、近畿式銅鐸成立の中心となった「近畿中心地域の有力勢力」とはいったい何なのだろうということ。「第V様式期の近畿中心部(摂津・河内)の状況」と「近畿式銅鐸の成立という画期」がどうもしっくりこない。銅鐸群の分析からは、それは大和でもないらしい。おまけに近畿式銅鐸自体は、近畿地方周辺部(紀伊南部、阿波南部~土佐、丹後・若狭、近江)に集中分布し、近畿中心部では破片となって集落址から出土することが多い。

やはり銅鐸のナゾは深い…

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2007年9月23日 (日)

講演会「神戸の銅鐸のなぞをさぐる」

Kobemaibun先週の土曜日9/15、神戸市埋蔵文化財センターで開催された「神戸の銅鐸のなぞをさぐる」と題する講演会を聴いてきた。 ※「神戸を知る考古学」と題する考古学講座で5回シリーズ(毎月1回)

講師は、神戸市教育委員会 文化課の松林宏典氏。「謎を探る」と銘打っているが内容は「銅鐸の基礎知識講座」で、この講座を聴けば「あなたも銅鐸のナゾを探れる」かもね…といった感じ。正直、本で読んだような話が多かった。

講演の概要:
1.はじめに
・最近のAMS年代研究で、弥生時代のはじまりが遡ってきているが
・銅鐸の具体的年代については、今回は触れない
・銅鐸は土器が共伴しない。銅鐸の形から編年しても直接年代はわからない

2.銅鐸のなぞをさぐるための基礎知識
・小林行雄の「銅鐸年代論」『考古学』12-1(S16年)
・銅鐸の出土数は300(1941年)→550以上(2007年)に増えたが
・小林行雄の指摘した謎はほとんど未解明のまま
・銅鐸の用途…描かれた絵から農耕祭祀と関わると言われているが
・銅鐸がなくなって~奈良時代初め-600年足らずで用途は不明となっていた
・銅鐸の各部位の名称説明
・銅鐸の分類・編年に関しては、ほとんど説明なし
※確かにわかりにくく、説明しづらい部分かもしれないが、ここを説明しないでどうするんだ!という気がする。銅鐸の文様・形態研究こそ、銅鐸研究の神髄といえるのではないのだろうか?

・内面突帯の説明…いわゆる見る銅鐸と聞く銅鐸
・祖型…半島では、朝鮮式小銅鐸50個近く出土
・鋳造に関して
・青銅の合金(銅、鉛、錫)錫の量で色が変わる
(少し加えると金色、多くなると白くなる)
・鋳型には、石型と土型がある
・石型製の見分け方…舞がデコボコ、型持穴が汚い

3.神戸の銅鐸
・桜ヶ丘(神岡/カミカ)銅鐸から神戸の銅鐸について、各々紹介
・8ヶ所から21個出土 全国的にみても銅鐸の多い地域のひとつ

興味深い話としては、
(1)
昨年出土した北青木銅鐸は第1次埋納坑から鈕の破片が見つかったが、銅鐸本体とぴったりと接合するわけではない。
※私も6月に江戸博で開催されていた「発掘された日本列島2007展」で実物を見たが、どこに接続するのだろう?と不思議に思っていた(疑問解消)。もっといえば、この鈕破片は北青木銅鐸とは別個体のものだった可能性もある。

(2)
桜ヶ丘銅鐸出土地より東方に銅鐸が多く、西方20km~投上鐸まで、銅鐸出土がないことをもって、その20km圏の銅鐸が桜ヶ丘に集められたとする有名な学説(小林行雄)があるが、松林さんは、桜ヶ丘のすぐ西側の灘区大月山から1958年に出土しており、小林説は崩れた?と話す。
※大月山銅鐸は外縁付鈕式(II-1式)なので、桜ヶ丘に銅鐸が埋納された時は既に埋められていた可能性が高いかも?
(3)
北青木鐸を見て、春成秀爾さんが「山には大型銅鐸、平地には小型を埋めているのではないか…海と山では祀る対象(神さま?)が異なる」とコメントされたという。
※最近発掘調査で平地からの出土事例が多くなってきているが、平地は小型などと言えない。考古学者のコメントは“空想”のような話がまま多いと思う。
(4)
Photo最も興味深かった話は、西神ニュータウン内第65地点から出土した「銅鐸鋳型」の未製品
神戸層群中の凝灰質砂岩製、1組2個の未完成品で石材産地(三田市~神戸市須磨区)の東端に当たり、出土地付近に鋳型石材採取地が存在していたことを示す。ここの鋳型用石材は、東奈良遺跡(大阪・茨木市)の銅鐸工房まで運ばれているのだが、松林さんは、銅鐸工人が神戸の山奥まで来て、鋳型にいい石材を探して採取したと言う。 銅鐸の形に少し抉り加工しているのは石材を少しでも軽くするためらしい(重さなんと計50kg!)。
※弥生時代といえど分業社会であり、遠隔地の石材(サヌカイト、緑泥片岩など)は産地付近のムラが掘り出して、交易している。銅鐸を製作していたムラと銅鐸鋳型を採取していたムラ両者はどういう関係だったのか…

銅鐸のナゾを解く鍵はこういうところにあるような気がする。

鋳型写真出典:
1997『弥生の鋳物工房とその世界』(北九州市立考古博物館)

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