5銅鐸出土地

2015年5月19日 (火)

7つの銅鐸 航海の安全祈る? 西への防衛? 近畿の弥生社会解明に重要資料

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一度に7個もの銅鐸が発見された兵庫・淡路島。島内では過去にも発見されているが、その理由は分かっていない。九州や瀬戸内との海上交通で畿内の入口となる淡路島の位置から、航海の安全の祈りや西方への防衛と推測する意見もある。銅鐸を打ち鳴らす青銅製の舌(ぜつ)を伴っているのも珍しく、近畿の弥生社会を解明する重要な発見となりそうだ。

「舌があったとは…」

兵庫県南あわじ市埋蔵文化財調査事務所の定松佳重課長補佐は、驚きを隠さない。発見時に、棒状の舌を3本も確認したからだ。

発見された銅鐸は今回を含め530個以上となり、このうち兵庫県では全国最多の68個。淡路島はその中でも多い。古津路(こつろ)遺跡(南あわじ市)からは昭和40年代に14本の銅剣も見つかっている。神聖な祭祀(さいし)の場だったことがうかがえる。

難波洋三・奈良文化財研究所埋蔵文化財センター長は「今でこそ淡路島は近畿の周縁だが、九州方面から見れば瀬戸内海の突き当たりの場所に当たる。交通の要衝だった」と話す。

森岡秀人・奈良県立橿原考古学研究所共同研究員も「西に向けた砂浜に埋めたという『海に向けての奉献祭祀』だったと考えたい」と海とのかかわりを指摘する。

難波氏によると、今回の銅鐸の多くは近畿の工房で鋳造された可能性が大きいという。

寺沢薫・奈良県桜井市纒向(まきむく)学研究センター所長は「大量の銅鐸の埋納となると、『政治的な原因』による危機意識の表れと解釈した方がいい。瀬戸内や九州など西方からの侵入者を払いのけるような力を銅鐸に込めたのではないか」と推測する。

銅鐸の祭りは、邪馬台国の女王・卑弥呼らの銅鏡を使った祭祀や、古墳の造営にとって代わられたというのが通説だ。近畿の弥生社会の複雑さをうかがわせる今回の発見。詳しい調査の進展を見守りたい。

産経WEST 2015.5.19

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2008年8月24日 (日)

志谷奥と荒神谷-出雲の銅鐸出土地

17/20 松江市から北に車で20分ほど行った佐陀本郷の鹿島地区にある志谷奥遺跡を訪れた(写真1)。朝日山(標高342m)の北側に開く比較的大きな谷の入口で車から降りると、マンション(写真右の赤い屋根の建物)横に遺跡の説明板が立っている。ここから谷を登っていくと民家があり、犬小屋と民家の間の道をさらに登ると、道の左手脇に「銅剣・銅鐸出土地」の標柱がある(写真2の左)。

2Photo_2 埋納坑があった場所は標柱から約1m下の斜面で標高は35.5m、1974年同地在住の安達茂幸さんが柿ノ木への施肥作業中に銅鐸2、銅剣6が発見されたという。埋納地点はこの谷の入口に近い場所だが、現在ここから先の道はブッシュで通行できなくなっていた。犬小屋横の谷川沿いの道は歩いていないので不明だが、報告書によると清流が流れているらしい。埋納地点から眺望は谷の入口付近の平野と対岸の山が見えるだけで、何も見えないわけで はないが眺望がよい地点とは言えそうにない(写真3)。南側も谷奥が迫っており朝日山などは見えない。

43帰りは鹿島支所前のバス停まで歩いたが、途中佐陀川が意外と幅広いことに驚いた。海岸からはかなり入った地点だが船泊まで設けられている(写真4)。『出雲国風土記』によれば、この辺りには「恵曇の坡(つつみ)」と呼ばれる水面が広がっていたとされ、青銅器が埋納された当時も現在とは違い海が大きく湾入していたと想像される。

鹿島地区からは出土地点の谷の背後にひときわ高く幽貝山(朝日山の支峰)が見える(写真1)。海岸から見ると、どう見えるかわからないが、山麓の埋納地点と背後の山という“山当て”的な組み合わせは讃岐の青銅器埋納地と似ているかもしれない。

1_2前日の7/19は荒神谷遺跡を数年ぶりに訪れた(写真5/出土地は写真中央の谷奥左)。358本の銅剣と銅鐸・銅矛の埋納地点はレプリカで発掘された状態そっくりに復元されている。現在、博物館の東側に古代ハスの池となっている谷があるが、埋納地点はその谷の支谷-谷奥から北に入った小さな谷間の北斜面にある(写真6)。以前にもここは見たはずだが、こんな小空間だったとは…奥行きは15m程、幅は10mに満たない…やはり遺跡を観察する関心度や観点が違っていたのだろう(見ていても見えていない…よくあることだが自戒したい)。それにしてもこの谷間によくトレンチを設定したものだと思う。路傍で採集された須恵器片を手掛かりに当初、窯址の存在が想定されていたというが信じがたい。それほど小さな谷間なのだ。
2_2 Photo_3







Photo_4この谷間から仏経山(標高366m)が遠望できるという話はいろいろな本で紹介されている(写真7/発掘時)。しかしここが選ばれた理由は仏経山とは関係はないように思う。荒神谷の埋納地点からは正直何も見えないし、外部からも埋納地点を窺うことはほぼ不可能に近い(写真8/出土地の小谷間から出たところ)。谷奥の隠されたこの地点が選ばれた理由もそこにあるのだろう。荒神谷遺跡北側の宍道湖畔の平野からは斐川三山の中央-高瀬山(標高305m)がひときわ高く見える。志谷奥で見た幽貝山とよく似ている。39個の銅鐸が出土した加茂岩倉遺跡はこの高瀬山の東南麓に当たる。

3_2埋納地点のルールとして「山麓からよく見える山の山麓からは見えない地点に埋納する」ということを神戸桜ヶ丘や八尾恩智銅鐸の出土地で指摘したが、出雲の青銅器埋納地点にも通じるものがあるようだ。


参考文献:
『志谷奥遺跡 銅鐸・銅剣出土地』1976年/島根県鹿島町教育委員会
『荒神谷遺跡 銅剣発掘調査概報』1985年/島根県教育委員会
『荒神谷遺跡/加茂岩倉遺跡-青銅器大量埋納の遺跡-』2002年/島根県埋蔵文化財調査センター

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2008年7月10日 (木)

桜ヶ丘銅鐸出土地-兵庫県神戸市

Photo5/6 ある研究会の打合せで神戸に行くことあり、打合せ前に近くの桜ヶ丘銅鐸の出土地に登ってきた。桜ヶ丘は1964年(昭和39)に14個の銅鐸と銅戈(大阪湾型)7本が発見された有名な銅鐸出土地。

Photo_2出土地は灘区と東灘区の境の坊主山(標高376m)から南へ伸びる支脈にある。高羽付近から見ると主峰より出土地点のピークの方が目立つ感じがする。阪急六甲からバスに乗り高羽で下車。バス停近くの陸橋の下に「国宝桜ヶ丘銅鐸・銅戈」の記念碑がある(写真2)。出土地は記念碑が立つ場所から北に1.2km程入った山中。ここから石屋川に沿って登っていくと神戸大のグランドに出る。グランド東側のマンション裏の小さな橋を渡ると山道となる(写真1)。この辺りの景観は石屋川の源流に近づいてきた趣がある。

Sここからは細い尾根上を歩いて行くのだが、真砂の風化土壌のため滑りやすく、また崖のようになっているところもあった。途中から急坂となり最初の鉄塔を過ぎると標高246.6mのピークに達する。ここにも鉄塔が立っている。地図1をみると出土地点はピークの東側少し尾根を下ったところ-240m付近らしい。現在の町名を取って「桜ヶ丘遺跡」と命名されたが、本来の山名は「神岡(カミカ)」だったという。神庭、神於山など銅鐸出土地には何故か「神」という字がついた地名が多い。

Photo_3出土地点はその後の土採りでなくなっているようだが、現在も鉄塔のあるピークの東斜面は砂地がデコボコとして草木もあまり生えておらず、土採り場であった状況が生々しく残る(写真3)。




Photo_4モノクロの写真4は銅鐸出土当時の写真だが、このピークの東側斜面全体が土採り場になっていたことがわかる。銅鐸は×印の地点から出土したという。

Gis最近吉田広さんらの「弥生銅鐸のGIS解析」を読んだ。各地の銅鐸出土地点からの眺望をGISを用いて分析されたもの。桜ヶ丘出土地点については「可視領域は、六甲山南麓の神戸市域ほぼ全域に及び、眼下に六甲山南麓の遺跡群を俯瞰的に見下ろす格好である。大量埋納であっても、荒神谷遺跡等と異なり、広い可視領域を誇る例である」と述べられているが(地図2参照)、実際に現地を歩いてみると出土地点からの眺望ははっきり言ってよくない。西側の鉄塔のあるピークとそこから東南に伸びる尾根が視界を遮ってしまう。八尾市恩智銅鐸の出土地点で指摘した「山麓からよく見える山の山麓からは見えない地点に埋納する」という埋納地のルールみたいなものがここでも当てはまりそうだ。

Photo_5確かに鉄塔のある246mピークからの眺望は吉田さんらの指摘に近いが、このピークからもどちらかというと西側の眺望が開けているが、東側は十文字山の山塊が視界を遮って、大阪湾型銅戈が出土した保久良山や生駒銅鐸出土地(神戸薬科大)は見えない(写真5)。また桜ヶ丘の足下の渦ヶ森銅鐸出土地も見えそうで見えない。お世辞にも“広い可視領域を誇る”などとは言えそうにない(※参照)。また東六甲山系の青銅器出土地が近接していながら互いに見えないというのも何か示唆的である。

東六甲山系には渦ヶ森、生駒、森など銅鐸出土地が多く、高地性集落との関係も指摘されているが、桜ヶ丘の出土地点も南に伸びる尾根上に桜ヶ丘B地点遺跡と呼ばれる集落跡が発掘調査で確認され、時期的にも一致することから出土地点と何らかの関係があることが指摘されている。

※吉田さんも上記論文の追記で、「数値地図の精度(50mメッシュ)では微妙な地形を反映できない点や実際は植生の関係で視界がより狭くなること」などを指摘されている。「埋納遺跡の性格から、埋納地点からの可視範囲よりも埋納地点を大まかに視認できる範囲の提示が適当だった」と述べられている。GIS分析の限界…現地踏査の重要性を痛感せざるを得ない。

参考文献
写真4出展:森浩一・石野博信 『[対論]銅鐸』(1994/学生社)p.15
地図1出展:『国宝桜ヶ丘銅鐸・銅戈-神戸市立博物館-』(2000)p.58
地図2出展:吉田広・増田浩太・山口欧志 2005 「弥生銅鐸のGIS解析-密度分布と埋納地からの可視領域-」『世界の歴史空間を読む-GISを用いた文化・文明研究-』(宇野隆夫編/国際日本文化研究センター)

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2008年6月22日 (日)

恩智銅鐸出土地-大阪府八尾市

D10000073/9八尾市の恩智銅鐸の出土地を訪れた。

AM中、八尾市歴史民俗資料館で跡部銅鐸と恩智都塚山の銅鐸を見て、PM、現地へ向かう。恩智の銅鐸出土地は生駒山系から舌状に突き出した小丘陵-垣内山で標高は97~123m(写真1/写D1000012 真中央の家の背後が出土地)。現在安養寺の毘沙門堂背後の97mピークに「銅鐸出土之山」の石碑(写真2)が立っているが、ここは出土地ではない。1921年(大正10)の出土地点は安養寺の背後-垣内山の北側斜面とされる。

梅原末治『銅鐸の研究』によれば、「山の尾の北西端に大師堂がある。堂から東へ13間(25m)で山腹の上部に山崩れのある部分に達するが、それが鐸の発見地点なのである」と書かれている。現在、大師堂(標高約80m)の東へ小径が続いているが山崩れの痕跡は既にない(写真3)。小径は垣内山の北側の谷奥まで伸びて、谷奥には井戸がある。恩 智垣内山では、1949年(昭和24)にも銅鐸が発見されている。こちらは都塚山銅鐸と呼ばれているが、大正の出土地点と同じ丘陵の尾根続きの123mピーク(ここが都D1000015塚山か?)から少し北に下った地点らしい。正確な地点は今回確かめられなかったが、垣内山の北側の谷を東へ40m程登った地点に当たる。恩智の銅鐸出土地は、同じ丘陵の少し離れた地点から銅鐸が出土した「近接埋納」の事例として注目される。垣内山には発見されずまだ眠っている銅鐸があるかもしれない。

Photo近鉄恩智駅への帰りに「天王の杜」に寄った。ここは弥生中期を中心とする恩智遺跡のあった場所で、銅鐸発見当初から銅鐸埋納と関連がある集落と推定されている。確かに天王の杜から垣内山を見ると、生駒山系をバックに垣内山が三角形の形で浮かび上がって見える。集落と垣内山の距離は約500m。天王の杜から見て気づいたのだが、銅鐸の埋納地点そのものは集落からはちょうど山の影になり見えない。銅鐸埋納地点は眺望がよくない場所-眺望がよい山であるにもかかわらず、あえてよくない地点を選んで埋めている-ことが多いが、恩智の場合、さらに集落から見えない場所という理解ができる。集落から仰ぎ見る山の集落から見えない地点に銅鐸を埋める-埋納行為の謎を解く鍵の一つかもしれない。

垣内山の南側の大きな谷の奥には式内社「恩智神社」があるが、元の鎮座地は天王の杜だという。

参考文献
梅原末治1937『銅鐸の研究』

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2008年5月26日 (月)

滝峯の谷銅鐸出土地-静岡県浜松市北区(旧細江町)

Photo2/23「浜松の銅鐸展」の見学の折り、「銅鐸の谷」として有名な滝峯の谷をようやく訪れることができた。以前ブログで大野さんの著書を紹介した際(07/10/30)にも滝峯の谷については書いたが、この狭い谷から7個もの銅鐸が発見されている。図(田村隆太郎2003)でもわかると思うが、長さ2.5km、幅120m程しかない浸食谷のあちこちに銅鐸が埋められている。谷奥、丘陵先端、斜面など埋納地点そのものには一見共通性がないようにみえるが、大野さんによると青粘土層(佐浜泥層)から湧き出る「湧水点」と関係があるらしい。

Photo_2滝峯の谷には、89年頃、テクノランド細江という工業団地が建設されたと聞いていたが、谷の全てが破壊されたわけではなく、工場になっているのは谷の北側で南側は比較的昔の状態を保っている。谷に入ってすぐ右手の丘陵先端は有名な「悪ヶ谷銅鐸」の出土地で道路脇に説明板が立っている(写真1)。残念ながら出土地点はミカン園造成や採土のため削られて残っていない。悪ヶ谷銅鐸の実物は東京国立博物館に展示されている。谷奥の支谷-才四郎谷では、89年に銅鐸研究家の羽間義夫さんが金属探知器で銅鐸を発見している。どんなところか非常に興味があったのだが、出土地点は「どうたく公園」という道路沿いの小Photo_3公園 として整備されている(写真2)。覆屋の下にレプリカの銅鐸で出土状態が再現されている(写真3)。現地はなんの変哲もない道路脇の斜面で特に削平されてもいない。「こんなところで?」という感じの場所だった。滝峯の谷の銅鐸出土地点には不動平、穴ノ谷、コツサガヤのように支谷に入ったところもあるが、悪ヶ谷や七曲がりのように丘陵先端や斜面もあり、才四郎谷もどちらかというと小丘陵の先端に当たる。

Photo_4遠江の中でも最多の銅鐸集中埋納地点である滝峯の谷だが、意外なことに三遠式銅鐸よりも近畿式銅鐸の出土が多い。三遠式銅鐸が衰えた後、畿内勢力によって近畿式銅鐸がこの地域に進出してきたという説(北島大輔2002)や三遠式銅鐸と近畿式銅鐸の埋納地が近接していても同じ埋納坑に埋められることがないことから両者は異なった取扱いがなされていたとする説(進藤武2002)もある。しかし滝峯の谷に限って言えば近畿式銅鐸は三遠式銅鐸と比べて新しいものではなく、滝峯の谷に銅鐸を埋めた埋納主体は同一集団と想定されることなど(石橋茂登2004)、滝峯の谷の銅鐸は、対立的図式で説明されがちな三遠式銅鐸と近畿式銅鐸の関係を再考させるものがある。滝峯の谷の入口には岡の平遺跡など同時代の集落遺跡がある。位置的にこれらの集落が銅鐸埋納に関与していたことは十分考えられるが、残念ながら調査が進んでいない。

Photo_5滝峯の谷見学の最後に滝峯不動(写真4)を訪れた。ここは銅鐸出土地点ではないが、小さな滝-「湧水」が祭祀の対象となっている。ここの湧水はいかなる干ばつでも涸れたことはないという。滝峯の谷の銅鐸について「水のマツリ」との関係を指摘したのは大野さんが最初と思いきや、今回、辰巳和弘さんが1982年『日本の古代遺跡 1静岡』(保育社)P.212で「こうした埋納地の共通性は、銅鐸が水に関する祭器であること、川神や水神をまつる農耕儀礼に使われた祭器であり…」と書かれているのを知った。辰巳さんは引佐町の天白磐座遺跡など古墳時代・井伊氏による水(井泉)の祭祀の研究で知られるが、銅鐸についてはその後何故か言及されていない。滝峯の谷の祭祀が古墳時代には場所を都田川北側の井伊谷に移して続けられたのだろうか?

参考文献・図版出典
北島大輔2002「弥生青銅器の生産と流通-伊勢湾沿岸を舞台として-」『川から海へ1-人が動く、モノが運ばれる-(平成14年度秋季特別展図録)』一宮市博物館
進藤武2002「近畿式銅鐸と三遠式銅鐸」『銅鐸から描く弥生時代』(佐原真・金関恕編/学生社)
田村隆太郎2003「滝峯の谷にみる銅鐸埋納と祭祀-銅鐸の出土状況・埋納姿勢の復元とその傾向-」『静岡県考古学研究』No.35
石橋茂登2004「東海地方の突線鈕式銅鐸について」『八賀先生古希記念論文集』三星出版

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2008年3月 6日 (木)

源氏ヶ峯と我拝師山銅鐸出土地

Photo1/26~27、香川県の銅鐸出土地を友人のGさんと訪れた。昨年は博物館で銅鐸ばかり見ていたが、今年はできるだけ出土地も歩こうと思っている。

源氏ヶ峯は高松市東郊-旧牟礼町牟礼、八栗寺で有名な五剣山の南東峰続き、標高217mのピーク。源平合戦の時、源義経が陣を置いたという他はそれほど目立つ山ではない。出土地までは車で行ける。途中ブッシュが激しく断念しそうになりながら、ようやく山頂北側の池(写真1)にたどり着いた。明治37年(1904)源氏ヶ峯北裏の俗称ノタバ(野田場)と呼ばれる谷間から銅鐸が出土したという-おそらく当時池はなかったと思われ、八栗寺へ通じる山道(現車道)の開通に伴い源氏ヶ峯の山頂周辺にも開墾の手が入ったのではないだろうか(源氏ヶ峯銅鐸は山麓の六萬寺の所蔵だったが、現在香川県歴博に寄託/博物館NEWS Vol.32.2007秋PDF)。池の西方谷頭付近は現在ブッシュで覆われているが人手の痕跡があり、明治の銅鐸出土はこの辺りかと思われる。付近からは弥生土器、石器(石鏃・石斧)が出土したということなので、高地性集落があったと考えられている。源氏ヶ峯山頂(写真右手)からは眺望は開けるだろうが、この谷間からは何も見えない-これも銅鐸出土地点の共通項のひとつ。

翌日、我拝師山に行く前に瓦谷遺跡の出土地へ立ち寄る。松本豊胤さんは、善光寺周辺の青銅器出土地について「大池の周辺部からは銅鐸二口、銅剣・鉾など十五点という多数の青銅器が出土し(中略)そしてそれぞれの出土地点が弘田川の水源地帯を占拠していることも注目される」と書いている(※松本豊胤 1978「香川の池」『池』社会思想社)。瓦谷遺跡からは銅鐸は出土していないものの、中細銅剣5、広形銅剣2、中細銅矛1が一括出土した。大麻山北麓の緩傾斜地-標高100m付近で現地には史跡標注が立っている。出土地点の東側には小尾根が伸び、池もあり谷地形状をなしている。現在京博所蔵(元多和文庫蔵)となっている大麻山銅鐸は瓦谷遺跡からみて大池の対岸-北原シンネバエ出土の一口とする説もあるらしい(写真2は瓦谷遺跡からみた我拝師山、中央が大池、北原銅鐸出土地は写真右我拝師山から伸びる低丘陵)。

Photo_2東奈良遺跡(大阪府茨木市)で石製鋳型が出土したことで有名な我拝師山銅鐸は、瓦谷遺跡などのある大池の北側にそびえる我拝師山の北麓から出土している。1965年開墾時に銅鐸が出土した地点(C地点)は現在ミカン畑となっており、標注が見つからず場所を特定できなかったが、銅鐸出土地点の東西から平形銅剣5本(A地点4,B地点1)が出土しており、我拝師山北麓もいわゆる近接埋納地として注目される場所。同行のGさんはミカン畑で弥生土器片を見つけたがここも広義の高地性集落と重なっているらしい。水分神社や大塚池の存在から我拝師山の青銅器出土地も湧水との関係が指摘されているが(※前記松本豊胤論文、大野勝美 1994『銅鐸の谷』)、湧水だけでなくその背後の我拝師山の存在も無視できない。これは瓦谷遺跡の背後の大麻山も同様で、民俗学でいうところの「山当て」的な意識を感じる。

Photo_3高地性集落と銅鐸-讃岐の銅鐸出土地を巡って最初に感じた共通項だ。青銅器埋納地近傍には土器はおろか集落遺跡もないというのが常識のはずだが、どうも違う。讃岐の銅鐸というと有名な伝香川県銅鐸が思い浮かぶが、この出土伝承地は讃岐富士とも呼ばれる飯野山。実はここも山頂部に弥生土器散布地があるという。源氏ヶ峯の南方、三木町の白山(写真3)からも銅鐸が出土しているが、ここも山頂部に散布地、山麓丘陵上に弥生集落跡が確認されている(銅鐸は集落跡に近い見通しのきかない谷頭から出たらしい)。白山も秀麗な神奈備型の山だが、飯野山と白山の山頂部散布地は集落跡ではなく“祭祀的”な遺跡ではないかとみられている。これについては、後で松本武彦さんが興味深い説を出雲の田和山遺跡の講演会で述べられているのを知った。
>「高地に所在する祭祀遺跡で環壕を巡らせた例はまだ見つかっていないが、香川県の飯野山(讃岐富士)と白山では、山頂で弥生中期の祭祀土器がみつかっており、今後もし環壕などが発見されれば、田和山タイプの祭祀遺跡への認識は深まるだろう」

高地性集落が弥生時代祭祀とどう関わってくる遺跡なのかまだわからないが、従来言われてきた「戦争との関係」ではない側面があることを青銅器出土は伝えているのだと思う。

Hiragatadoken帰宅後、旅行中入手したパンフ類を整理していたら「天霧城跡」のパンフの地図に「水場」のマークを見つけた(水場はどんな渇水時にも枯れたことがなく、常に岩の間から真水が湧出する場所だという)。ここは弥谷寺の平形銅剣(写真4)の出土地に当たる。弥谷寺の銅剣の出土地は厳密には特定できないし、三豊平野~丸亀平野を結ぶ峠に注目する説-いわゆる境界祭祀説-もあるようだが、弥谷寺・弥谷山との関係は無視できない。やはり「湧水」は銅鐸だけでなく、広く青銅器埋納地点共通の“キーワード”になりそうである。

参考文献
丹羽祐一・藤井雄三著 1988『高松の古代文化(市民文庫シリーズ14)』高松市立図書館
高山 剛・吉田広 1999「三豊郡三野町大見弥谷寺蔵銅剣について」『香川考古』第7号

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2007年12月29日 (土)

銅鐸と水(その2)

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前回の日記で「銅鐸と水」について指摘した論考をいくつかご紹介したが、重要な著書を見落としていた…

藤森栄一さんの『銅鐸』(学生社/1964年)

銅鐸に興味を持ち始めた1年程前に読んだきりだった本を読み返してみると…p.217辺りから銅鐸と水に関する考察が続く。主にそれは銅鐸文様からの推考だが、ほとんど説明はないものの、p.209には「水流にのぞんだ斜面の出土例」として徳島源田と大阪恩智の出土地の写真が掲載されていた。

藤森さんはおそらくこれらの出土地と諏訪の湛(タタエ)神事を重ね合わせ「銅鐸は、水およびその土地についての祭具だったことが類推できる。…たたえを…湛と、原義通り、水のたたえられたところと考えたらどうであろうか。山腹で巨木があり、水が湧出し、その水が流れ流れて、たたえられ、農耕の水または土地-水田の祭が行われたとしたら…」と書いたのだろう。

藤森さんの『銅鐸』は初版が1964年なので今まで紹介した論考のどれよりも古い…『銅鐸』を読んでいると、それ以前にも三木文雄さんや原田淑人さんなど「銅鐸と水」に関連した論考がまだありそうだが、具体的なイメージで捉えたのは藤森さんがオリジナルの可能性が高い。

また、藤森さんは流水文についてこう書いている。「われわれは、流水文を、銅鐸の属性である文様と考えすぎていたのではないか。流水は、鐸の本質を表現するテーマだったのである」

現在の銅鐸研究では「流水文」は水を表したものではないとされている。それは袈裟襷文と同様、「何者かを呪縛し封じ込めるもの」だという。鋸歯文や邪視文は「僻邪」、袈裟襷文、流水文は「呪縛」と教えられてきたが、それでは銅鐸に多い「連続渦文」や「四頭渦文」は何を意味するというのだろうか?※私も流水文が水の表象とは思っていないが、銅鐸文様について簡単に呪縛とか僻邪と決めつけていいのだろうか…

藤森さんの『銅鐸』は諏訪大社の神宝「鉄鐸」を“銅鐸の末裔”としたところで銅鐸の学説史からオミットされた格好となっている。これは大場磐雄さんの「銅鐸私考」も同様だ。銅鐸と水…それを確かめるには先輩たちの足跡を追ってフィールドに出るしかないようだ。

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2007年12月23日 (日)

銅鐸と水

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「銅鐸は何故埋められたのか?」…銅鐸だけでなく青銅器埋納について諸説あるのはご存じの通り。

その中で最近気になっているのが「銅鐸と水」の関係。静岡の大野勝美さんが著書『銅鐸の谷』(1994年)で銅鐸埋納地点と湧水との関係を指摘していることは日記に書いたが、春成秀爾さんがまとめられた「青銅器埋納の諸説」の中には「銅鐸と水」が関係するという説は一つも取り上げられていない。※春成秀爾1995「神庭(荒神谷)青銅器と出雲勢力」『荒神谷遺跡と青銅器-科学が解き明かす荒神谷の謎』(同朋舎)

大野さんがオリジナルなのかと思いきや探してみると、もっと以前に「銅鐸と水」の関係を指摘した論考がいくつか出てきた。

『銅鐸の谷-加茂岩倉遺跡と出雲(アサヒグラフ別冊)』という1997年に出た加茂岩倉発見時に出た大判の雑誌があるが、この中(p.94)であの森浩一さんが「銅鐸と水神」というコラムを書いている。このコラムで紹介された論文を図書館で探してみたところ、森浩一1967「銅鐸の出土地をたずねて」『文化史研究』19(同志社大学日本文化史研究会)という研究ノートがあることが判明!1960年、和歌山市の紀ノ川の中州で見つかった「紀ノ川(砂山)銅鐸」。その5年後の1965年に紀ノ川銅鐸発見場所から西方2kmで発見された「有本銅鐸」。森先生はこの2例から紀ノ川からの支流分岐点の祭祀を想定され、茨田堤近くの門真市大和田銅鐸出土地も「川神の祭り」に使われた可能性が多いとみる(他にも岐阜県大垣市の十六銅鐸、奈良県五條市火打野銅鐸も共通した出土状況と指摘)。また香川県綾歌郡綾南町陶、徳島県阿南市の畑田銅鐸、奈良県天理市石上銅鐸の出土地については「水源に近い水神を祭った」可能性がつよいと指摘している。

水の祭祀ということで、湧水、井戸などいろいろ探していると、『湿原祭祀』(1975年/法政大学出版局)という本があることを知った(写真)。早速近くの図書館で読んでみたのだが、著者は金井典美さんというどちらかというと民俗学系の研究者で、長野諏訪の御射山(みさやま)信仰の研究が有名な方らしい。最初銅鐸とはちょっと関係ない本だったかと思ったが、p.120~の弥生時代の湿原聖地の項では、「銅鐸出土地点の一つの顕著な特徴は、丘陵の谷にのぞんだ水辺の傾斜地であり…谷の水辺の地とむすびつけることは、十分可能のようにおもわれる」と指摘し、香川県高松市の源氏ヶ峯、徳島県源田、那賀郡桑野村、大阪府八尾市恩智など、金井さんもいくつかの事例を上げている。

三品彰英さんというと、「地的宗儀」である銅鐸祭祀が北方アジア系の「天的宗儀」の出現によって終末を迎えたという「地的宗儀→天的宗儀」説で有名な民俗学の泰斗。「銅鐸小考」をじっくり読んでみると、(※『三品彰英論文集第5巻-古代祭政と穀霊信仰』(1973年/平凡社)、銅鐸小考の初出は1968年)「地霊(水霊と結びついている)に対する呪儀は早期農耕者にとっては第一の重儀であり、それは山ノ口や川上の然るべき丘上において行われた」という一文があった。そして『常陸国風土記』の「夜刀(ヤツ)神」についても触れ「蛇(谷の神)は地霊の代表的な出現形相であり、また水霊(ミヅチ)でもあった。いずれにしても山ノ口は地霊を鎮め祀る聖地である」とも書いている。

はっきりいって「地的宗儀」説の実態は「水神祭祀」説と変わらない。それでは何故三品説が「水神祭祀」として紹介されないかというと、「銅鐸小考」の後段に、戦争の時、国境の峠に甕を埋める「境界の呪儀」が長々と論じられているからとみられる。

80年代に青銅器埋納の有力な解釈として登場した「境界祭祀」だが、淵源というか元ネタはどうもこの「銅鐸小考」にあるらしい。確かに古墳時代の祭祀に峠に甕を埋める「甕坂」の祭祀があったことは、辰巳和弘さんが書いてある通りだが(※『新古代学の視点―「かたち」から考える日本の「こころ」』(2006年/小学館))これと青銅器祭祀を結びつけるのはいかがなものだろうか?考古学者の青銅器埋納に関する論文を読むと「境界」「呪禁」「非常事態」「共同幻想」「シンボル」といった言葉がバンバン出てくる。境界で呪禁するというところまではいいとして、共同幻想としての非常事態に共同体のシンボルである青銅器を…となると、考古学者の“作り話”に近い。

先日の出雲歴博でも荒神谷遺跡での「マツリ」のジオラマが展示されていたが、共同体の非常事態に災厄を払うために大切な青銅器を埋める厳かな祭祀の様子が再現?されていた… 松本岩雄さんの講演でも同じような説明がなされていた。青銅器を奉献することで災厄を除いてくれる「神」とはいったい何ものなのだろう? 考古学者たちのイメージするその神が「水神」でないことは間違いなさそうだ。

青銅器祭祀に対して何か勘違いしているのではないか…その分岐点は「銅鐸小考」の誤読にあったのかもしれない。

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2007年12月 4日 (火)

銅鐸の旅-徳島から出雲へ(その3/加茂岩倉銅鐸出土地)

112/2はAM中、宍道蒐古館で伝島根県の福田型銅鐸(出雲木幡(こわた)家伝世銅鐸)を見た後、加茂岩倉遺跡を訪れた。

現地はガイダンス施設が設けられ、復元された出土状況模型(写真1)まで谷をグルッと囲むように遊歩道が整備されている。
加茂岩倉ガイダンスの管理人さんに
「この谷には何かありますか?」と尋ねたところ
「湧水があります。どんな時でも涸れませんね~」との答え
「それはどこから?」と聞くと
2管理人さんは銅鐸出土地点から左方-谷の奥を指さした。銅鐸の出土したところは、小さな谷の中では少し突き出した岬状の地形の先端に当たる(写真2)。
「ただしここの湧水は、出雲弁でカナっ気が多いんで…」と管理人さんは口ごもる。
「カナっ気って金気、鉄分が多いということですか?」
「飲むには向かないが耕作には問題ない。発掘された頃はすぐ下まで水田だった」
そういえば銅鐸出土地点の直下は今でも丸い窪地となっている。湧水が多い季節にはここは湿地、沼池のようになるかもしれない…

加茂岩倉と「大岩」の話は、今までさんざん聞かされてきたが、肝心の大岩は銅鐸出土地点の谷を出てそのまた道路をはさんだ向こう側。岩倉集落の地名由来には関係がありそうだが、銅鐸が出た小さな谷とは関係はなさそう。
加茂岩倉と「湧水」…今までほとんど聞いたことがないが、銅鐸出土地点に近接して湧水があることは事実。

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2007年10月12日 (金)

福井県・井向銅鐸出土地

Photo_610/7、福井県坂井市春江町を訪れ、有名な井向銅鐸の出土地を歩いてきた。現地にはNECの工場の脇に「大石銅鐸出土之地」と書かれた大きな石碑が立っている(写真1)。大牧集落から西に500m程歩いたところ。井向集落との間に水田をはさんだ微高地の先端辺り。現在の住所は、福井県坂井市春江町大牧

この辺りは、福井平野のど真ん中-九頭竜川に支流がいくつも流れ込むところで、井向、大牧、大石などの集落が川沿いの自然堤防上に点在している。現在は一面に水田が拡がっているが(写真2)かつては何本もの河川が蛇行して流れる中小島のような微高地や湖沼が拡がっていたと想像される。

Photo_7「新版・福井県の歴史散歩」(山川出版社)によると、この石碑のある場所は大字田島。梅原末治の「銅鐸の研究」などには字名は島田となっており、どちらが正しいのかよくわからない。田中巽氏の「銅鐸関係資料集成」にある異説も含め、古い地形図や字図を当たってみないとなんとも言えない。また付近に弥生遺跡があるかというと旧春江町内の埋蔵文化財は調査不十分でよくわからないらしい(坂井市教委)

いずれにしても銅鐸は山の斜面や谷奥に埋められたというイメージからすると、井向銅鐸の出土地はずいぶんと違っている。「銅鐸祭祀は水に関係する」という説を想起させるものがあるが、銅鐸埋納の多様性を示していることは事実。また逆に銅鐸はかつて平野部にもたくさん埋められており、その多くが後世の開墾によって、既に掘り出されてしまった可能性も大きいのではないだろうか?

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