6書籍・論文

2012年7月 5日 (木)

神戸市『北青木銅鐸』報告書刊行

S 平成18年度(2006年11月2日発表)の発掘調査で出土した、北青木(きたおうぎ)銅鐸の報告書が刊行された。友人Y氏からのメールで知った。

北青木銅鐸というと、埋納坑が二時期あることが判明し、かつて通説化していた「銅鐸地中保管説」が再度見直されそうだと注目された遺跡。緊急調査のため銅鐸周辺の土塊を剥ぎ取って埋文センターに持ち込み慎重な調査を進めた結果-銅鐸が埋められていた本来の土坑の下にもっと大きな土坑の存在が明らかになった。さらにこの大きな土坑中から小さな青銅破片が見つかったため、最初下部の大きな土坑に埋納されたが、その後掘り出され、祭祀終了後、上部の小さな土坑に再び銅鐸が埋納されたと想定された(破片は掘り出し時に破損、落下)。

この青銅破片は本当に銅鐸の破片なのかと疑っていたが、報告書を読むと、鋸歯文などから「鈕」の破片らしい。また上記の二つの土坑についての解釈も少し変わってきているようだ。

北青木銅鐸は東部瀬戸内を中心に分布する「亀山型」の銅鐸でもあり、報告書では亀山型の鉛同位体比の比較も載っている。

1冊/600円で頒布(送料290円)

購入希望者は、神戸市教育委員会文化財課まで問い合わせ下さい。印刷部数は僅少とのこと。

連絡先:神戸市教育委員会文化財課
神戸市中央区加納町6丁目5-1
TEL:078-322-6480
FAX:078-322-6148

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2011年7月23日 (土)

「出雲で青銅器は本当に鋳造されたのか?」を読んで

Photo アジア鋳造技術史学会のHPを見ていたら、九州の高倉洋彰さんが「出雲で青銅器は本当に鋳造されたのか?」というエッセイを書いていた。題名は少々センセーショナルだが、昨年の出雲大会に参加して、報告者らが荒神谷の銅剣(写真1)は出雲で作ったのを前提に論じているのに警鐘を鳴らす内容だった。

読んでいて思わず肯いてしまったのは、「倒産が予測できるような工房は置かれない」という言葉だ。通説では青銅器は最初は半島からの輸入品、そしてすぐに北部九州での生産が始まり、それに続いて近畿でも生産が開始されたとみられている。また中期末には各地で独自色を持った製品が生産されるようになったといわれている。

鋳型など鋳造関連遺物や遺構が出土すれば、その地で青銅器生産があったこと(1)は確かだろう… しかしその青銅器を作った鋳造工人や工人集団は青銅器を作り終えた後、どうしたのだろう? その地にとどまったのかそれとも新たな製作地に向かったのか? そもそも青銅器の原料はどのように調達したのか? 工人たちは専業集団だったのか~それとも半農半工の生活だったのだろうか?

さまざまな疑問や問題点が出てくるが、遺物は黙して語ろうとはしない。少なくとも“仕事”がなければ工人たちはその地にとどまることはできない…

Photo_3 出雲の銅剣を考える上で興味深い遺跡としては、淡路島の古津路遺跡と香川県善通寺の瓦谷遺跡がある。いずれも銅剣を中心とした埋納遺跡で、古津路が銅剣14口(1966年)、瓦谷では銅矛1、銅剣7の合計8口(1918年)の武器形青銅器が発見されている(写真2 『讃岐青銅器図録』より)。両遺跡共、荒神谷の銅剣358本には遠く及ばないが武器形青銅器が大量に埋納されていたことは事実。注目されるのは、出雲産か?と言われている問題の中細形銅剣c類が瓦谷からも出土していることだ。瓦谷からは中細形銅矛(九州産)も1点出土しており、異なる型式の青銅器が一括埋納されている点も荒神谷を検討するヒントになる。また古津路の2口は大分市浜と尾道市大峰山出土品と同笵とされ、淡路島~瀬戸内~九州との交流関係を示している。

Photo_4 中細c類の成立を考えるためには、中細a類→中細b類→中広銅剣の流れから平形銅剣の成立に至る銅剣型式の動向を押さえねばならない。中細b類の製作地はわからないが、中広銅剣の鋳型は福岡市東区八田(粕屋)で見つかっている(図1 吉田1993より)。中広銅剣は九州内での発展が追える最後の型式だが、それに続く平形も九州と無関係に誕生したわけではないらしい。








Photo_7 古津路1号(写真右)と瓦谷1号(写真左)は文様を持つ銅剣としても有名なのだが、吉田広さんはこのような有文銅剣(陽出文様挿入)の研磨箇所を手がかりにして、古津路1号(中細B'類)→平形Ia(最古式)、瓦谷1号(中細B''類)→東瀬戸内系平形銅剣が各々成立したとみる。岩永省三さんや吉田さんの指摘する銅剣のプロポーション(剣身長が伸びるにしたがい身幅や樋長が一定比率で増大していく)が同じということは、デザイナーが同じということを暗示しているのだろう。分布地=製作地であったとしても、鋳造工人の出身地は分布地とは別にあった=出職で作っていた可能性は高い。古津路と瓦谷が九州系であることを認めるなら、中細c類の製作にも九州系の鋳造工人が関与したと考えられる。少なくとも平形同様、近畿からの搬入や近畿からの出職は想定できない。

S 荒神谷の銅剣に対するこれまでの解釈は、
①春成説:出雲では独自の中細c類を作ったが、途中で配布を止めて残りを埋めてしまった。
②高倉説:出雲は九州から中細c類を大量に購入したものの埋納祭祀が流行らなかったので、売れずに残ってしまった=埋納遺構は祭祀目的ではなく在庫が貯蔵されたものと捉える。
①と②は「中細c類を作ったが、広められなかった」という点では一見似ている。しかし貯蔵していたというのは大量の青銅原料を放置することになりあまりにも不合理に思う。同時期に瀬戸内で広がっていく平形銅剣のように日本海側では埋納祭祀が流行らなかった…この推定は当たっているのだろうか?(図2 吉田1993より)

荒神谷銅剣の問題は、製作地(生産元)と分布地(受入先)の問題、鋳造工人の出身地と製作場所(工房)の問題、青銅原料の流通の問題等々、様々な課題を抱えている。中期後葉段階からの瀬戸内以東での様々な銅剣の併存、新型式の創出、地域型青銅器の登場は、各地での銅鐸群の成立を考える上でも工人集団や工房のあり方を考える重要な手がかりを与えてくれているのかもしれない。

註:
(1)考古学的には鋳造関連遺物の出土が製作地である一つの根拠となる。鋳型などは砥石として再利用されているので、ポツンと出土してもそれだけでは生産されたことの証明にはならないが…

<参考文献>
吉田広 2009「青銅器の形態と技術-武器形青銅器を中心に-」『弥生社会のハードウェア(弥生時代の考古学6)』同成社
吉田広 1993「銅剣生産の展開」『史林』76-6
岩永省三 1986「剣形祭器」『弥生文化の研究』6 雄山閣
岩永省三 1980「弥生時代青銅器型式分類編年再考-銅矛戈を中心として」『九州考古学』55
春成秀爾 1995「神庭(荒神谷)青銅器と出雲勢力」『荒神谷遺跡と青銅器-科学が解き明かす荒神谷の謎』島根県古代文化センター編 同朋舎出版

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2010年9月21日 (火)

江戸期の詳細な銅鐸本発見!!

Photo_2 江戸時代の有名な国学者である平田篤胤が銅鐸研究家だったことはあまり知られていない。その篤胤が著書『弘仁歴運記考』に引用した『古宝鐸記』が見つかった!

『古宝鐸記』は篤胤の『弘仁歴運記考』よりも正確に描いており、この二つの銅鐸は現在は行方不明ということなので、貴重な資料と言える。確かに現代の考古学者にも難解な流水文の特徴を的確に捉えている。

『弘仁歴運記考』は某オクでも時々出品されており、比較的安価に入手できる。奈良県吉水神社の銅鐸も『弘仁歴運記考』に載っている図から、太閤秀吉ゆかりの銅鐸とわかったもの。

江戸期の詳細な銅鐸本発見、平田篤胤が著書に引用
産経新聞 2010.8.27

銅鐸の特徴を正確に描いた江戸時代の「古宝鐸記」。右が愛知県(流水文銅鐸)、左が兵庫県で出土した銅鐸(近畿式銅鐸)

銅鐸の図や出土の経緯を記した古書が、江戸時代の国学者平田篤胤の著書「弘仁歴運記考」に引用された「古宝鐸記」だったことが奈良文化財研究所の難波洋三企画調整部長の鑑定で27日、分かった。図は銅鐸の特徴を正確に描いており、当時の考古学遺物への関心の高さを裏付け、現存しない銅鐸の研究資料としても価値が高いという。

難波部長によると、古宝鐸記は姫路藩主の侍医だった山田安貞が、現在の愛知県と兵庫県で出土した計二つの銅鐸を記録した本。ただ一部の文様が描かれておらず草稿とみられる。

書名や筆者名はなかったが、兵庫県で出土した銅鐸と同じ図と記述が弘仁歴運記考にあったため古宝鐸記と分かった。直筆か写本かは不明。2銅鐸とも現在は所在不明だが、以前とられた拓本があり、その比較から古宝鐸記は弘仁歴運記考よりも銅鐸を正確に描いていた。

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2009年10月30日 (金)

国立歴史民俗博物館資料図録6 『弥生青銅器コレクション』

Yayoiseidouki久しぶりの更新-最近入手した弥生青銅器関係の書籍をご紹介。

一つ目は、歴博の春成秀爾さん監修の『弥生青銅器コレクション』-歴博所蔵の青銅器・レプリカ204点の写真(銅鐸だけでカラー14点、白黒63点)と実測図(銅鐸だけで実物13点、レプリカ23点)が掲載されているという大作。昨年の退官記念講演会の時、作成中とのことだったが、今春既に発売されていた。

1冊4,800円、下記で購入できる。
(財)歴史民俗博物館振興会
六一書房
(アジア輸入学術図書/歴史・考古学専門書店)

二つ目は、『月刊考古学ジャーナル』の青銅器特集号-これも先日図書館に行って出ているのに気付いた。

2009年9月号「特集:弥生青銅器研究の現状」

愛媛大の吉田広さんを中心に、北島大輔さん(山口市教委)、増田浩太さん(島根県古代文化セ)、寺前直人(大阪大学)など若手の青銅器研究者が執筆している。

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2009年5月 9日 (土)

八尾の銅鐸-『河内どんこう』No.87(2009/2)

No87最近、『河内どんこう』という大阪の地域歴史雑誌に「八尾の銅鐸」という小文を書かせていただいた(『河内どんこう』No.87 2009/2)。

大阪府の八尾市内からは銅鐸が3個、銅鐸片が2個出土している。
・恩智垣内山銅鐸
・恩智都塚山銅鐸
・跡部銅鐸
・亀井遺跡出土銅鐸片(扁平鈕式)
・亀井遺跡出土銅鐸片(突線鈕式)
大阪府出土の銅鐸の総数が約30個なので、八尾は銅鐸が比較的多く出土している地域といえる。

小文では、八尾市内出土の銅鐸について、出土の経緯や各銅鐸の特徴や型式、産地推定など、これまでの研究成果を解説しながら、大阪と八尾の銅鐸の問題点も論じている。
主な項目は
・銅鐸の部分呼称・型式分類
・八尾市域出土の各銅鐸の説明
・摂津産と河内産
・銅鐸の流通
・銅鐸の埋納
・近畿式銅鐸の製作地
・埋納と破壊

『河内どんこう』は八尾市内の書店店頭(やお文化協会HP掲載)か、NPO法人やお文化協会に申し込めば購入できる。 購入方法などについては、やお文化協会さんにお問い合わせください。

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2008年7月23日 (水)

弥生時代の考古学7『儀礼と権力』

Photo_2先週本屋で下記の本見かけ、ちょっと高かったが衝動買いしてしまった。

設楽博己・藤尾慎一郎・松木武彦編 『弥生時代の考古学7 儀礼と権力』 (2008年5月/同成社)

全9巻でこれから隔月で刊行されるシリーズの第一回配本

辰巳和弘さんの「水と井戸の祭り」、
石村 智さんの「威信財交換と儀礼」、
吉田 広さんらの「青銅祭器の対立構造」、
大久保徹也さんの「儀礼の場としての墳丘墓と古墳」など
新進気鋭の若手研究者の面白そうな題名の論文ばかり…

特に水の祭祀研究で有名な辰巳さんが「銅鐸と水神」について初めて詳論されている。
これまで境界祭祀や穀霊祭祀一辺倒だった銅鐸祭祀論。
「水神祭祀」説が見直される契機となるかどうか… 

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2008年7月 7日 (月)

復刻『荒神谷遺跡/加茂岩倉遺跡 青銅器大量埋納の遺跡』

Photo_2 島根県立古代出雲歴史博物館では、国宝指定記念特別陳列「加茂岩倉銅鐸の世界」を記念して、『荒神谷遺跡/加茂岩倉遺跡 青銅器大量埋納の遺跡』(2002年刊行)が復刊された。

ミュージアムショップで販売されている。 1冊1,000円。

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2008年6月27日 (金)

メトロポリタン美術館の銅鐸解説

Photo_8メトロポリタン美術館HPの説明文を訳してみると…

ベル(銅鐸), 弥生時代後期(ca. 紀元前4C-紀元3C), 1-2C
日本
青銅; 高さ43 1/2 in.(109.2cm)
ロジャース基金, 1918 (18.68)

(この銅鐸は)弥生時代後期に作られたもの。“銅鐸”と呼ばれる日本特有の青銅ベルは馬や家畜に付けたより小さい韓国の小銅鐸を起源とすると考えられている。この銅鐸は知られている中で最もすばらしいもののものの1つで、1814年に兵庫県三日月町下本郷(原文はShimogoは誤記)で見つけられたと現在信じられている。水平なバンドの列が中央で縦の列によって分割されている状態(袈裟襷文)で、円錐の上部を切ったように形成されたボディー(鐸身)が飾り付けされている。精巧な出縁(鰭)は、のこぎり歯デザイン(鋸歯文)でいっぱいにされ、飛び出した渦巻き(双頭渦文飾耳)でさらに誇張され、(鐸身の)両側に沿って伸び、先端(鈕)はアーチ状に渡されている。

銅鐸の最初の発見記録は西暦662年に滋賀県の寺で見つかった。高さ4-51インチ(10-130cm)の範囲で、400以上の銅鐸が今日知られている。 大部分は京都-奈良の地域から出土している。 初期のベル(銅鐸)は砂岩の鋳型で作られ、小さくて、厚い。舌か棒で打たれると、あるものはガラガラと音を出す。 他のものは舌を中に吊り下げている。 後の、より大きくて、より薄いベルは、より精緻な細部を再現するため粘土製の鋳型で作られた。大きい方が機能的であったという証拠は全くない。それらは純粋に儀式的な物であったと考えられる。

銅鐸は単独で(あるいは)2個ペアで、そして(まれに)大きなグループ(大量埋納)で、時折-青銅の鏡や武器といっしょに-埋められている。(銅鐸は)孤立した場所や、しばしば丘の上に埋められている。それらは墓や集落の近くで発見されたことがない。それらの置かれた状態(埋納状態)は、それらが個人によって所有されたというよりむしろ共同体の財産であったことを示唆している。これらのベル(銅鐸)の埋葬(埋納)の論理的な根拠については、それらが共同体の農業肥沃(豊作)を保証するための儀礼の一環だったと推定されることが多いが、不明瞭なままだ。

「銅鐸の大部分が京都・奈良で出土している」というのは「近畿を中心に分布している」ことの誤解だと思われるが、短い文章の中で、銅鐸の発見、大きさと数、銅鐸の変遷、鋳型の違い、埋納状態や埋納場所とその目的など、おおむね日本での学説がちゃんと理解されているようだ。

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2008年6月 8日 (日)

速報写真グラフ「北信濃 柳沢遺跡の銅戈・銅鐸」発刊

Photo先月26日の考古学協会の大会で、長野県柳沢遺跡の銅鐸・銅戈のグラフ本「北信濃 柳沢遺跡の銅戈・銅鐸」が販売されていたので早速購入。発掘の成果については第二会場でも長野県埋文センター職員の上田典男さんが発表されていた。

今回知ったこととして、
・銅戈の向きが同じ方向(青銅器の埋納ではよく互い違いにしていることがいる)
・銅鐸はユンボで掘削された際、壊されてしまったらしい(現在、排土をフルイにかけて銅鐸片を探している)
・埋納年代は覆土の時期より、弥生中期~後期中と少し幅を持って想定されている(銅戈の年代が銅鐸より新しい)
・九州型銅戈の柄の部分に鉤文様が鋳出されている(鉤文様は九州の土器や青銅器に多い)
・埋納地点は千曲川に支流が流れ込む場所で弥生時代の水田が近接する。

長野県歴史館での特展は終了したが、7/10~8/3に今度は長野県伊那文化会館(長野県の遺跡発掘2008)で公開されるらしい。

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2008年2月 2日 (土)

「考古資料大観」第6巻 弥生・古墳時代(青銅・ガラス製品) 

S先週某オクで落札した『考古資料大観』 第6巻 弥生・古墳時代(青銅・ガラス製品)が届いた。この『大観』シリーズ-全巻揃えると50万円を越すというとても個人では購入できないシロモノ。バラ売りもしていないので購入は半ば諦めていたが運良くそれも格安で手に入れることができた。

以前のブログ(07/10/27)で銅鐸のレゾネがないと書いたが、現在この本がレゾネ-「出土銅鐸全カタログ」に最も近いもの。380個の銅鐸の写真が掲載されている(出土銅鐸の約60%)。写真掲載点数としては神戸市博の図録『銅鐸の世界展-地の神へのいのり-』を断然上回っている。ただし、全て白黒なのと片面しか写っていない。惜しむらくはA3-1ページに4点の銅鐸ではなく、せめて2点にして欲しかった。なお写真だけでなく最新の研究成果の概説や巻末にはこれまで測定された青銅製品の鉛同位体比の全データ(1466点/内銅鐸は230点)まで載っている。

Photo_4全編オールカラー、A面B面と両側面、斜め上から見た鈕と舞及び裾部から内面突帯を見た写真-贅沢を言ってもしょうがないが、これぐらいの写真がないと、どんな銅鐸か本当のところはわからない。「銅鐸本」としては、銅鐸研究者のバイブルみたいな本として『日本原始美術 4 青銅器』(1964/講談社)があるが、写真の大きさなら『大観』よりこちらの方がいい(1個につきA3-1ページ使用)。しかしどんなに大きな写真を並べても銅鐸相互の大きさの差は表現できない。

『考古資料大観』のいいところは型式別に銅鐸が通覧できるところ。銅鐸はどの博物館に行っても、同じ型式の銅鐸を並べて見るわけにいかないし、考古資料で便利な実測図も銅鐸は作られていないことが多い(最近出土の銅鐸はともかく古い出土銅鐸では実測図がほとんど作成されていない)。「銅鐸群」に関する研究をトレースするにはこの本はもってこいなのだ。編者の井上洋一さんが「(銅鐸研究)が土器研究のように多種多様な研究者によって行われたならば、どれほど飛躍が期待できることだろうか。こうした思いのもとに、本書は図版入り銅鐸索引を作ることを目的とした」と書いているのもこういった利便性を意識したものだろう。

しかしこの本を眺めているとまたぞろ銅鐸を見に行きたくなってしまう…

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