9祭祀

2011年6月20日 (月)

アイヌの鍬形

Photo アイヌ最高の宝器「鍬形(くわがた)」をご存じだろうか?

アイヌ語では、ペラ・ウシ・トミ・カムイ(篦のついている宝神)、「キララ・ウシ・トミ・カムイ(角の生えている宝神)と呼ばれた。鍬先(くわさき)ともいう。

鍬形を最初に見たのは、北海道開拓記念館の2001年の特別展図録『知られざる中世の北海道-チャシと館の謎にせまる-』…アイヌの首長が日本の古い鎧などを使っているのは知っていたが、鍬形だけを造形化した奇妙なものもあるんだな~とその時は思った(写真1)。その後、瀬川拓郎さんの『アイヌの歴史 海と宝のノマド』(2007年/講談社選書メチエ)を読んで、非常に興味深いものであることを知った。

鍬形のルーツが中世武士の兜の前立てであることは容易に想像がつく。ただアイヌの首長にとってそれが至高の宝(イコル)であり、たいへんな霊力があり、病や災難の際にお祈りに用いる。鍬形を持つ者は尊敬され、そのために首長となれた。

霊力が強すぎるため、ずっと置いておくとその村に災いが起こるので首長がどこかの山中に埋めてくる。だから首長が死んだらそのありかは分からなくなるので、現物はほとんど残っていないという。

3 現在まで発見された鍬形はおよそ20例ほど、その中で保存されているのは東京国立博物館や東北歴史博物館、小樽市博物館、北大植物園博物館などわずか8点で、一般に公開されて見られるのは東博所蔵品ぐらい(写真2:左2個が東博、右端は東北歴博所蔵品)。

Photo_4 東京国立博物館の鍬形は、1916年(大正5)石狩郡角田村字桜山(現在の栗山町)で一度に7個も発掘された。鍬形本体は鉄製で装飾金具は銀製。発見者は3人で、根株を掘り起こしている最中に18cmの深さから見つけ、7個は重なっていたという(写真3)。鍬形は4個が帝室博物館(今の東京国立博物館)に寄贈され、3個は地元に返されたが行方不明に…地元栗山町の開拓記念館には復元された鍬形が展示されている(写真1:この復元品は九博所蔵品がモデル)。

・土中に埋めてある
・特別遺構(石室や箱など)や目印は設けていない
・一度にたくさん見つかることがある
・偶然発見される
・霊力を持つ最も大切な宝器
・共伴した遺物もなく年代を知る手がかりがない

と、何となく弥生の青銅器に似ていないだろうか? 東京国立博物館では本館の第15室が民族資料となっていて琉球とアイヌ関係の展示が交互に行われている。鍬形も時々出展されており、2年程前の冬、見ることができた。鍬形は3点展示されており(栗山町出土の残り1点は九博に移されている)、どんなお宝かとワクワクしていたが、瀬川さんも書いている通り、「思ったより「アバウト」な代物」「拍子抜けする秘宝」だった。

Photo_5 しかし、私には「ただの鉄板」という至高の宝の実態が、ますます弥生青銅器との共通性を考えさせられるようになった。瀬川さんは日本各地に残る鍬形を実測し編年案まで作られているので、実際に鍬形を手に取ったことがあり、「手にとってさらに力が抜けた」と感想を述べている-それは「華奢で軽く、おそらく手に持って振ると「しなう」にちがいない」とうほどのもので、付いている飾り金具もよく見ると粗雑な作りだという。弥生青銅器が実用の利器でなく祭祀具であることはよく知られているが、平形銅剣などはわずか300g、はっきり言って薄っぺらなブリキの板同然の代物だ、銅矛もご存じのように鋳造したままで刃も研がれず、最終的には柄さえ取り付けられなくなっている-いくら祭器とはいえあまりに作りが雑な印象は拭えない…

祭器、宝器とは所詮そのような“見せかけのもの”なのかもしれない。鍬形は所持する首長以外誰にも見せることはなく、償いなどに用いることはない「非交換物」だったというから、見せかけのもので十分だったのだろう。アイヌが儀礼に用いる刀なども綺麗な装飾で飾られているが、なんと鞘の中に刀本体はなく、抜くことすらできない。

Photo_3 誰も見たことがない首長だけが持つことを許された鍬形…「実態としては一種のがらくたのような鍬形を現実の社会のなかでどのようにして至高の宝としてゆくかという、宝の創造のテクニック」がそこにあると、瀬川さんは指摘する(写真5は鍬形を持つアイヌの首長[蠣崎波響「東武画像」])。また、瀬川さんは鍬形とよく似た性格のものとして北米北西海岸先住民の至高の宝「銅板」をあげる…春成秀爾さんが熱心に研究されていたあの銅板だ。

弥生の青銅器-特に銅鐸は“共同体のもの”としてのイメージが強烈だが、これとて首長墓に副葬された事例がないというのが根拠にすぎない。最近は青銅器を神の依代とみたて「弥生の神」そのものだという言説が多く聞かれるが、鍬形も銅板も決して偶像としての神ではない。鍬形や銅板は首長とその共同体に富をもたらす「マナ」の表彰物であり、「マナ」の実体化したものが鍬形だとする説明は、弥生青銅器の正体を解き明かすヒントになるように思えてならない。
マナ=霊力

鍬形と弥生青銅器との相似則を感じるのは私だけだろうか?

<編年図出典>
瀬川拓郎 2008「アイヌの宝器・鍬形の成立と変遷」『中世日本列島北部~サハリンにおける民族の形成過程の解明-市場経済圏拡大の観点から-』北海道大学総合博物館

<詳しいサイト>
クワサキのはなし

栗山町開拓記念館の片隅に[謎のアイヌ鍬形]

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2011年6月 7日 (火)

銅鐸の鳥はコウノトリ?!

Photo大阪の池島・福万寺遺跡(東大阪市・八尾市)の弥生時代前期の水田跡で見つかった鳥の足跡が、コウノトリと判明したという。

銅鐸に描かれた鳥は、その姿形からサギやツルと考えられ、近年では銅鐸の鳥論争はサギ説が有力視されていたが、今回の足跡発見で、第3の鳥-コウノトリ説が急浮上している。

今回は足跡の大きさが
・約15cmと大型
・サギに比べて指が太い
・指の間が広い
などの特徴からコウノトリのものと判定した、ということだが…

Photo_3 足跡に関しては、コウノトリが確実だとしても、それによって銅鐸の鳥がコウノトリと決めつけていいものがどうか、そもそもポンチ絵のような銅鐸絵画(写真2/春成論文から)から種類を特定しようというのが無理な相談だったのではないだろうか?

近年、サギ説が有力となっていたのは、春成秀爾さんや寺沢薫さんの論文によるのだが、お二人とも銅鐸の鳥を「稲魂」「穀霊」と捉えている。そして稲作の季節から渡りをするツルを季節的に水田にいないとして否定、サギ説に軍配を挙げた(春成さんはツルの穂落神伝承から当初ツル説だった)。

しかし銅鐸絵画からは長い足、スラリとした細身のプロポーション、長い嘴、魚を食べるなどしかわからない

Photo_4 写真を見てもらうとわかるが、ツル、サギ、コウノトリ(写真左から)いずれも大型の白い鳥という共通項はあるものの、どの鳥も銅鐸の鳥に似ているといえば似ている。

弥生人は特定の鳥を描こうとしたのではなく、水田にやってくる足長のツル形の白い鳥を描いたのではないか…さらに考えを進めれば白い鳥とはいったい何なのか? 銅鐸の鳥=稲魂という説は本当に正しいのだろうか?

銅鐸が農耕祭祀に使われたというのはなかば定説化しているが、これとて確たる証拠はない。「白い鳥」というキーワードで考えてみると、フィッチャーの鳥ババ・ヤガーと白い鳥(鵞鳥白鳥)などの民話が想起される。それは魂の鳥、冥界の鳥である。

「冥界」というと、暗い死の世界を思い浮かべるだろうが、古代人は冥界には飢えも寒さも貧しさもない。辛い暮らしをしていた魂を優しく迎えてくれる、満ち足りた幸せな世界と考えていたらしい。日本でいう「常世」が近いイメージかもしれない。現代人にとっては「天国」の方がわかりやすいだろうが、古代人の考えたものとはかなりかけ離れた存在だ。

この世の豊穣をもたらす源泉もこの冥界からだから、そこと行き来する鳥=稲魂・穀霊というのは間違った解釈ではないだろうが、非常に狭い解釈にとどまっている。農耕祭祀説に凝り固まった人たちには中沢新一さんの『カイエ・ソバージュ』でも読んで欲しい。

白い鳥というとヤマトタケルが死んで白鳥になったという話もあるし、古墳壁画の鳥船(舳先や艫にとまった鳥)もある。これらはいずれも「死」のイメージと重なり、冥界へ向かう魂や冥界への水先案内と解釈される。あまり知られていないが、アメノワカヒコが死んだ時いろいろな鳥が葬儀を執り行う。しかし同じ鳥と船でも沖縄ではオナリ神(妹の生御魂・霊力)が白い鳥となって兄を守るために船の艫にとまっている。

1稲吉角田遺跡の大きな壷に描かれた絵画も、鳥装の漕手と土器絵画によく見られる鳥人とのモチーフの類似性から蘇塗的祭祀との関連が指摘され、農耕儀礼と結びつけて解釈されているが、この「鳥人」-鳥装のシャーマン自体、世界的な広がりを持っている。それも農耕民だけでなく狩猟民の間でもシャーマンといえば鳥装が多い。鳥=穀霊=農耕祭祀と断ずる論者は狩猟民の鳥装シャーマンをどう理解するのだろう。

『カイエ・ソバージュ』では、「シャーマンの鳥装」を地底の冥界から飛翔して現世に戻ってくるための能力を身につけるためと説明する…鳥装はシャーマンにとって命がけの変身であり、単なる仮装ではないのだ。

銅鐸の鳥を農耕祭祀の中だけで解釈してきた従来説が、銅鐸そのものの解釈さえ歪めている可能性は大きい。

<参考文献>
春成秀爾「銅鐸のまつり」『国立歴史民俗博物館研究報告』12号(1987年/国立歴史民俗博物館)
寺沢薫「弥生人の心を描く」『日本の古代』13 心の中の宇宙(1987年/中央公論社)
歴博編,佐原真『銅鐸の絵を読み解く-歴博フォーラム』(1997年/小学館)
金関恕『弥生の習俗と宗教』(2004年/学生社)
平林章仁『鹿と鳥の文化史』(1992年/白水社, 2011年新装版)

国内最古のコウノトリ足跡と判明…大阪の遺跡 水田跡「幸福の鳥」弥生人と生きる
読売新聞 2011/5/19
石こうで型を取ったコウノトリの足跡(18日、奈良市の奈良文化財研究所で)=大西健次撮影 大阪府東大阪、八尾両市にまたがる池島・福万寺遺跡の弥生時代前期(約2400年前)の水田跡で見つかった鳥の足跡が、コウノトリと判明し、奈良文化財研究所が18日、発表した。水田稲作が始まった頃から人と共生したことを示す発見で、同時代の祭器・銅鐸(どうたく)に描かれた鳥もコウノトリの可能性が高まった。専門家は「農耕祭祀(さいし)の中で人々の信仰を集めた鳥だったのでは」とみている。

これまでは群馬県内で出土した6世紀の足跡が国内最古だったが、今回はさらに約900年さかのぼる。同遺跡は1996年に大阪府文化財センターが調査。洪水で埋まった水田跡で鳥の足跡数十個と、人の足跡約100個を確認した。

その後、鳥の足跡1個を石こう型に取り、同研究所に鑑定を依頼。しばらく特定できなかったが、兵庫県立コウノトリの郷(さと)公園(豊岡市)や山階(やましな)鳥類研究所(千葉県我孫子市)も分析に加わり、▽足跡の大きさが約15センチと大型▽サギに比べて指が太い▽指の間が広い――などの特徴からコウノトリのものと判定した。同遺跡の他の鳥の足跡も写真鑑定の結果、コウノトリの特徴と共通していた。

一方、銅鐸については神戸市出土の桜ヶ丘銅鐸(国宝)などのように、胴部に首と脚の長い鳥が描かれている例があり、従来はサギかツルとみられていた。

今回の成果を踏まえ、奈良文化財研究所の松井章・埋蔵文化財センター長は「水田稲作の初期段階からコウノトリが人の身近な存在だったことは明らか。大柄で美しい鳥を、祭祀や信仰の対象として銅鐸に表現したのでは」と指摘する。

足跡の石こう型は21日~7月3日、大阪府立弥生文化博物館(和泉市)で開かれる春季企画展で展示される。問い合わせは同館(0725・46・2162)。

コウノトリ 体長約1メートル、翼長約2メートルになる大型の鳥で、シベリア東部などで繁殖する。日本では国の特別天然記念物に指定されたが、野生は1971年に絶滅。85年、旧ソ連からヒナを譲り受けて兵庫県豊岡市で人工飼育、2005年から野外に放している。現在、放鳥19羽、野外で生まれた幼鳥21羽が生息。市では無農薬、減農薬農法で餌場づくりを進めており、農作業中の人の近くで餌をついばむ姿も見られる。

銅鐸「第3の鳥」浮かぶ 最古 コウノトリ足跡 弥生期、信仰対象の可能性
産経新聞 2011/5/19
池島・福万寺遺跡(大阪府の東大阪、八尾両市)の弥生時代の水田跡で18日、コウノトリと確認された鳥の足跡。同時代の銅鐸(どうたく)に描かれた鳥は長年、サギやツルと考えられ、近年はサギ説が有力視されていたが、今回の発見で奈良文化財研究所の松井章・埋蔵文化財センター長が「銅鐸の鳥の足は指を大きく広げている。サギではありえない表現」と主張。コウノトリ説が銅鐸の鳥論争に名乗りを上げた。

今回の発見は、最初に大阪府文化財センターなどによる平成8年の発掘調査で、人や鳥の足跡をそれぞれ約100個確認。兵庫県立コウノトリの郷公園の職員らが昨年2月に偶然、足跡の石膏(せっこう)型を見たことで調査が進展した。

同公園のコウノトリとアオサギの足跡の型を照合した結果、特徴が酷似。さらに山階鳥類研究所(千葉県)にも分析を依頼し、コウノトリの可能性が高いことが確認された。

この発見を機に、弥生時代の銅鐸に描かれた鳥もコウノトリだった可能性が浮上した。

神戸市灘区で出土した桜ケ丘5号銅鐸(国宝)などには、首や足が長い鳥が描かれており、これまでサギやツルとされてきた。コウノトリ説が明確に浮上しなかったのは、すでに絶滅に瀕(ひん)し研究者らにとって身近な鳥ではなかったことが影響しているという。

大阪府立弥生文化博物館の金関恕館長は「農耕生活を営む人間のすぐそばにコウノトリがいたと考えられる」と主張。松井センター長は「コウノトリはサギより大きく目の周りや足が赤い。神々しいと考えて当然だ」として信仰の対象だった可能性も指摘する。

一方、国立歴史民俗博物館(千葉県)の春成秀爾名誉教授(考古学)は「当時はサギもツルもいただろう。コウノトリだけ信仰の対象というのは考えにくい」と主張。青銅器に詳しい寺沢薫・元奈良県立橿原考古学研究所研究員も、銅鐸の鳥は稲の魂を運んでくる象徴として描かれたとした上で、「稲の魂を運ぶ真っ白な鳥はサギ。サギが有力だろう」と反論している。

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2008年3月16日 (日)

銅鐸は誰が見るためのものか

Photo先日、銅鐸の文様(鳥取県高住銅鐸の迷路派流水文)をデスクトップの壁紙にしてみたのだが、どうも調子が悪い。画面を見ていると目がチラチラしてくる。どうしたものかと逡巡していたが、辰馬考古資料館の平成13年度秋季展『銅鐸を観察する』を読んでいて次のような文章を見つけた。

「流水紋には(中略)いずれも、条線が流れる方向を辿っていくうちに目が回ってくる。それでなくとも、この紋様を凝視するだけで、目がチカチカしてくる。つまり、この紋様には幻惑作用があるのだ」

私だけではなかったのだと安心したが、PCの作業中に気分が悪くなってはたまらないので、早速壁紙を屋久島の“シシガミの森”の写真に差し替えてしまった。

後期の銅鐸は「見る銅鐸」だと言われるが、さて誰が見るものだったのだろうか…博物館や図録などの説明ではよく銅鐸を祭壇のようなものに置いてその前で巫女と思しき女性とムラ?の人々が銅鐸を拝んでいる姿が描かれているが、本当だろうか。最近出た石野博信さんの『楽しい考古学-遺跡の中で見る夢』(2007年/大和書房)でも、「(銅鐸)を壊すということは、近畿弥生社会の「カミ」を否定するということである(P.36)」とか「高倉に宿るカミ」とキャプションを入れて高床式倉庫に近畿式銅鐸を合成した写真(P.42)を掲載している。いつからか銅鐸は神様になったらしい。

シャーマンがトランス状態に入るには、音、踊り、幻覚剤などいろいろな方法があるという。銅鐸の文様に幻惑作用があるのだとしたら、銅鐸もトランス状態導入のツールのひとつとして使われたのかもしれない…この場合銅鐸は「カミと交信するための一種の呪物」に過ぎない。

参考文献・写真出典
橋本裕行2001「銅鐸に描かれた生き物たち」『銅鐸を観察する』辰馬考古資料館平成13年度秋季展(展観の栞27)
佐原眞1979『日本の原始美術7 銅鐸』講談社P.23

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2008年1月14日 (月)

韓国・国立全州博物館-シャーマン推定像

Photo写真は韓国・全州博物館に展示されている紀元前2世紀のシャーマン(呪術者・巫女)の推定復元像。頭には鹿角、首から多鈕細文鏡を吊り下げ、手には八珠鈴や双頭鈴を持つ。腕や腰には朝鮮式小銅鐸をたくさんぶら下げ、銅剣を帯びている。

このシャーマン像…岩永省三さんの『歴史発掘7-金属器登場』(講談社/1997)で紹介されていたので、正月の韓国旅行-南原からの帰り、全州の名物ビビンバを食べるついでに寄ってきた。残念ながら推定像は写真だったが、当時の青銅器の使い方がわかりやすく説明されていた。シャーマンの衣装というと九州国立博物館にもツングース系の民俗展示がある。金属の円盤などジャラジャラと身に着けており、踊ると凄まじい音がしたことだろう。魏志韓伝に伝える「鐸舞」とはこんな姿だったのだろうか…

韓国の青銅器は、衛氏朝鮮や楽浪郡があった大同江流域やソウル周辺ではなく忠清道や全羅道-いわゆる馬韓の地域でたくさん見つかっている。青銅器など威信財-お宝は文化の中心地に-という考えからすると、ちょっと意外だが、鉄器時代に入りつつあった当時としては青銅器は実用の道具ではない。「青銅器は「僻地の有力者」の地位と威信を誇示するもの」という大林太良さんの言葉を思い出す。

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2007年11月 7日 (水)

奈良県・三輪山の祭祀遺跡

Photo_1111/3-4、奈良博で開催中の正倉院展に行ったついでに、大神神社門前の旅館・大正楼に泊まり、前から興味のあった三輪山(写真1)の祭祀遺跡を見てきた。

11/4の早朝-6:30に起きて、三輪山山麓に点在する「磐座(イワクラ)」を巡る。磯城御県坐神社、夫婦岩、磐座神社、奥垣内祭祀遺跡、そして狭井神社近くの山の神祭祀遺跡を訪ねた。

山の神遺跡は、大正時代(1918年)に開墾のため巨石を動かそうとして発見された遺跡。現地はわかりにくかったが、狭井神社手前の山の辺の道脇-鎮女池の側「辰五郎大明神・きよめの滝」と書かれた小道を少し入ったところで見つけた(地図

Photo_12写真2は山の神遺跡の現状だが、当時の調査報告の図面とはかなり変わっている。(当時は中央の石の付近に5個の石があり、基壇は後から造られたもの)どんな所にあるのか興味があったが-小さな渓流沿いの谷間で、昼なお薄暗い場所。もう少し晴れ晴れしい場所を想像していたので、意外だった。銅鐸出土地点との共通性を想起させるものを感じた。また磐座というと「巨石」をイメージする方も多いと思うが、今回見た磐座はいずれも1m以下の小さな岩ばかり。

ここからは滑石製模造品の子持ち勾玉などの玉類や酒造りの道具を模した土製ミニチュアが出土しており、大神神社の宝物収蔵庫で見ることができた。

三輪山中には奥津磐座、中津磐座、辺津磐座と呼ばれる巨石群が存在すると言われる。3世紀後半~4世紀初頭に成立するヤマト王権は“三輪王朝”とも呼ばれ三輪山祭祀との関連がよく指摘されるが、最近の研究によれば、祭祀遺跡は5世紀代以降のものが多く、遡っても4世紀後半とされる。磐座祭祀というと古墳時代の最初から、三輪山の頂上でマツリが行われていた「イメージ」があると思うが纒向遺跡が栄えていた頃、三輪山とその山麓は「聖地」となっていて祭祀遺跡はおろか、集落や古墳はひとつもないらしい。

また三輪山の祭祀遺物は「子持ち勾玉」のような玉類が多いのが特徴で、同じ頃に始まる九州・沖の島の祭祀遺跡に比べて“お宝”がない。三輪山は禁足地となっており考古学的調査はほとんど行われていないので、古く遡る遺跡やお宝が眠っているかもしれないが、祭祀とは本来“地味”なものであり、沖の島の特殊性を感じずにはおれない。それは弥生の青銅器祭祀にもいえることなのかもしれない…

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