7青銅器

2008年9月15日 (月)

中国式銅剣の鋳型出土-中国式といってもメイド・イン・ジャパン

S中国式銅剣というと、九州では朝倉市(旧甘木市)中寒水出土の桃氏剣(写真)など少ないながら数例が知られている。中国からはるばる海を渡ってきた銅剣かと思いきや、春日市立石遺跡出土の中国式銅剣(戦国式)の鉛同位体比の分析結果などから、どうも日本製らしいと知った。今回の鋳型の発見はそれを裏付ける資料となりそうだ。

朝鮮半島で定型化した細形銅剣(韓国式銅剣)と呼ばれる型式の銅剣の他に、多樋式、深樋式など-いくつかの特殊な型式の銅剣が日本でも出土しており、少し風変わりなタイプの銅剣を製作していた工房が御陵遺跡周辺にあったのかもしれない。新聞記事の写真をみると、中央の銅剣は立石銅剣らしい。通常の中国式銅剣の大きさの二倍くらいあるだろうか…

写真1出典:『あおの輝き-弥生時代の青銅器-(平成17年度北筑後文化財フェスタ)』(小郡市埋蔵文化財センター/2006)


福岡の遺跡から中国式銅剣の鋳型出土
産経新聞(08/09/01
Photo_5出土した「中国式」に形状が近い銅剣の石製鋳型(左)。中央は中国式銅剣の複製、右は弥生時代の細形銅剣の複製=1日午後、福岡県春日市の「奴国の丘歴史資料館」 福岡県春日市教育委員会は1日、同市須玖北の弥生時代後期(一世紀)の「御陵遺跡」から、中国や朝鮮半島に由来する「中国式」に形状が近い銅剣の鋳型が出土したと発表した。
市教委文化財課によると、中国式銅剣とみられる鋳型が出土したのは全国初。担当者は「中国式銅剣が、国内でも生産されていた可能性を示すものだ」と話している。
出土した鋳型は石製で長さ約30センチ、幅約10センチ、厚さ約6センチの直方体。先端部分は欠損している。竪穴住居跡から青銅かすとともに出土したことから、青銅器の工房跡と考えられるという。
弥生時代の銅剣は「脊(むね)」と呼ばれる芯がある細形がほとんどで、断面が偏平(へんぺい)な中国式の出土例は少ない。細形銅剣の鋳型は弥生時代の青銅器の生産地とされる同市の須玖岡本遺跡群などで多数出土している。

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2008年9月14日 (日)

宗像市・田熊石畑遺跡で銅剣や銅戈出土-弥生時代の王墓

Photo_6九州で弥生時代の銅剣などがたくさん副葬された墓が見つかると「王墓」と呼ばれる。奴国の須玖岡本遺跡や伊都国の三雲・井原鑓溝遺跡、吉野ヶ里遺跡の墳丘墓は有名だし、日本最大のボウ製鏡が出土した平原遺跡に到っては“卑弥呼の墓”という人までいる。近年見つかった王墓だと、福岡市西区の吉武高木遺跡と吉武大石遺跡がよく知られている。他にも、佐賀県唐津市の宇木汲田遺跡、福岡県古賀市の馬渡束ヶ浦遺跡、昨年ニュースとなった遺跡だと唐津市の桜馬場遺跡(読売新聞07/11/22)がある。

先日の講演会(08/07/19)で、下條信行先生から「弥生時代の青銅製武器の格付けは、銅矛>銅戈>銅剣となっており、その証拠に、墓の副葬品の数は銅剣が最も多く、銅戈、銅矛の順に少なくなる」と教えられた。今回の田熊石畑遺跡の青銅武器も銅剣4本、銅戈1本が出土しており、下條理論がきれいに当てはまる。

弥生中期の青銅武器が宗像の遺跡で出土、有力首長の墓か
読売新聞(08/06/21)西日本新聞(08/07/02, 08/07/15
田熊石畑遺跡から出土した銅剣や銅戈(21日午前10時9分、福岡県宗像市で)=高梨忍撮影 福岡県宗像市は21日、田熊(たぐま)石畑(いしはた)遺跡(宗像市田熊2)の墓から、青銅武器の銅剣4本、銅戈(どうか)1本が出土したと発表した。弥生時代中期前半(紀元前2世紀)の墓から出土した青銅武器としては最も数が多く、市教委は「一帯を治めた有力首長の墓だろう」としている。
4月から行っている発掘調査で見つかった。銅剣は長さ27~43センチ、銅戈は同24センチ。いずれも細形で被葬者の胸付近にそれぞれ切っ先を足元に向けて置かれていたとみられる。ほかに、装身具として管玉(くだたま)十数点、ヒスイ製の垂飾(すいしょく)1点が出土しており、これらは髪飾りだった可能性がある。
北部九州では、弥生時代中期から青銅武器が副葬され始める。この時代の墓ではこれまで、福岡市の吉武(よしたけ)高木(たかぎ)遺跡と福岡県古賀市の馬渡(まわたり)束ヶ浦(そくがうら)遺跡から銅剣など4本が出土している。

中国の歴史書「漢書地理誌」はこの時代から1世紀ほど後の倭に〈百余国〉が存在したと記す。弥生時代の首長墓変遷に詳しい柳田康雄・国学院大教授(考古学)は「吉武高木遺跡の墓と違って鏡こそ出ていないが、馬渡束ヶ浦遺跡とともに3者はほぼ同等のランクと考えられる。この時期にはすでに、福岡平野に限らず玄界灘沿岸で突出した首長を抱くクニが成立していたのだろう」と話している。

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2008年9月13日 (土)

さぬき市・森広遺跡の巴形銅器-奴国の流通圏

最近の九州における青銅器関連のニュースを三つほどご紹介したい。

Photo_7巴形銅器の鋳型といえば、吉野ヶ里遺跡で見つかったのが初例(写真1/88年と99年)。今回の鋳型が発見されたのは九大筑紫キャンパス建設地の発掘調査で出土したもので、奴国の中心地-須玖岡本遺跡の近傍に当たる。新聞記事には「弥生時代の青銅器で鋳型と製品が一致した例は、銅鐸以外では初めて」とあるが、福岡県古賀市の夜臼・三代地区遺跡群の筒形銅製品(用途不明)の事例(新宮町立歴史資料館)もある。
Photo_9また、これも最近ニュース(西日本新聞 08/03/26)となっていたが、福岡県春日市の大谷遺跡の銅矛鋳型(写真2)の場合は、70年代に大谷遺跡から鋳型が発掘された当時、立岩堀田遺跡出土の銅矛の形状と一致したことから、奴国で鋳造されて飯塚まで運ばれた可能性が高いと考えられていたが、今回の鋳型破片の接続によって、立岩堀田の銅矛と一致しないことが判明した。

最近の発掘調査で鋳型もかなり発見されているが、なかなか鋳型と製品が一致することはない。我々が今見ているのは当時作られた製品のごく一部であるということなのだろう。

福岡で鋳造と判明-さぬき市森広遺跡の巴形銅器
四国新聞(08/04/18
Photo_8さぬき市の森広遺跡で明治時代に出土した巴形[ともえがた]銅器3点が、福岡県春日市の九州大筑紫地区遺跡群で1998年に出土した弥生時代後期(2世紀)の石製の鋳型で鋳造されていたことが分かり、九州大埋蔵文化財調査室が17日、発表した。
同調査室によると、弥生時代の青銅器で鋳型と製品が一致した例は、銅鐸[どうたく]以外では初めて。祭祀[さいし]などに使われたと考えられる青銅器が、九州から四国へ運ばれていたことを示す物証といえる。同調査室の田尻義了学術研究員は「弥生時代の政治状況や経済交流が垣間見える貴重な発見だ」と話している。
また、青銅器は同じ鋳型で何回も鋳造されたとこれまでも推定されていたが、3点の巴形銅器が鋳型と一致したことで、複数回の鋳造が現物資料によって裏付けられた。
さぬき市教委によると、森広遺跡では弥生時代に属する巴形銅器が計8点出土。現在は、すべて東京国立博物館が所蔵しており、同市の寒川町図書館にレプリカを展示しているという。巴形銅器は、脚が7本で、脚を含めた直径が約12センチ。九州大所蔵の鋳型は銅器全体の約4分の1の破片だが、田尻学術研究員が1月、東京国立博物館所蔵の銅器と重ねたところ、脚の形や相互間の寸法、裏面の文様がすべて一致したという。

西谷正・九州大名誉教授(考古学)は「青銅器の生産と流通の状況が分かる興味深い発見。九州の巴形銅器が四国で流通した背景が、今後の研究課題となる」と話している。
巴形銅器 弥生時代から古墳時代にかけて作られた青銅器。半球状の中心部の周りに、かぎ形の突起が渦巻き状に付いている。甕棺墓(かめかんぼ)や古墳の副葬品として出土する例が多い。裏側にひもを通す仕掛けがあり、古墳時代の出土例から、主に盾に装着したとみられる。南西諸島で魔よけや火よけのため玄関につるすスイジガイと形が似ているため、弥生時代も魔よけや敵の攻撃を避ける意味があったと考えられている。

写真は森広遺跡の巴形銅器:出典は『日本の古代遺跡』8香川(保育社/1983)

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2008年1月14日 (月)

韓国・国立全州博物館-上林里銅剣

S昨年5月にソウルの中央博でどっさりと韓国青銅器文化の名品を見ていたので、全州博の展示はちょっと見劣りしたが、上林里の銅剣(写真)には注目!

全羅北道完山郡の上林里というところ(全州~金堤の中間)で出土したものだが、丘の南斜面になんと26本も埋納されていた。このうち博物館には16本展示されていた。この銅剣は形式からすると「中国式銅剣(桃氏剣)」と呼ばれるもの。朝鮮半島では遼寧式銅剣(琵琶型銅剣)が広く分布し有名だが、中国式銅剣も少ないながら分布している。この上林里銅剣は日本で細形銅剣が出現する以前の朝鮮半島での確実な埋納例として注目されており、鋒(切っ先)を東に向け、束ねていたように整然と東西に水平に置かれていたという。

写真をよくみてもらうとわかるが、この銅剣の刃部は鋳造時のバリが付いたままで全く研磨されていない。また長さは46cmもあるのに重量は400g以下。軽くペラペラで実用品の半分以下。このことから中国式といっても韓国でのボウ製品-儀器化した祭器と考えられている。韓国の青銅器としては珍しく鉛同位体比分析もされており、鉛同位体比はラインDを示している。ラインDは日本出土の朝鮮半島系遺物の鉛同位体比だが、上林里のような故地での出土品とも一致することは興味深い。また26個中、同笵(同型)品はひとつもない。これは鋳型が土製だったのか、それとも同笵品は他所へ搬出されたことを示すのだろうか… 桃氏剣は日本でも出土しており、前原市や甘木市など北部九州で事例がある。

青銅器を埋納する社会→古墳を築く社会へと発展していくという図式で考えるなら、韓国での青銅器埋納事例は日本よりも古く遡る…細形銅剣の段階(BC2世紀)これは「首長層の成長と共同体の統合が日本よりもかなり早い」ことを示し、またそれ故に三国の鼎立-特に半島南部で百済・伽耶・新羅と分立しての国家形成の遠因となったのだろうか?

参考文献:
『韓国の青銅器文化』国立中央博物館・国立光州博物館(韓国・汎友社/1992)
全栄来(後藤直・訳)1982「完州上林里出土中国式銅剣に関して」『古文化談叢』9
武末純一2002「弥生文化と朝鮮半島の初期農耕文化」『古代を考える-稲・金属・戦争-弥生-』(吉川弘文館)
岩永省三2002「青銅武器儀器化の比較研究-韓と倭-」『韓半島考古学論叢』(すずさわ書店)
廣坂美穂2007「古代青銅器の産地推定についての一考察-朝鮮半島系遺物領域Dについて-」『考古学と自然科学』55(日本文化財科学会)

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